メディア・読書日記    梓澤和幸


メディア・読書日記 小説を読む 2007年

西山太吉 『沖縄密約──「情報犯罪」 と日米同盟』(岩波新書 2007年) その2
西山太吉 『沖縄密約──「情報犯罪」 と日米同盟』(岩波新書 2007年)
   ──なぜ佐藤(栄作)が“沖縄”に踏み切ったのか。
……それに対する答はまだ出てこない。
『アルジャジーラとメディアの壁』 石田英敬、中山智香子、西谷修、港千尋
(岩波書店) 2007.4.14
内田義彦著 『読書と社会科学』 (岩波新書) 2007.4.10
「世界」 2006年8月号 2007.4.8
『聞けわだつみの声』 第一集 (岩波文庫) 2007.4.4-5-6
辻井喬 毎日新聞 3/26 夕刊 2007.3.26
「生くべくんば 死すべんば─弁護士・布施辰治─」 前進座 2007.3.24
作家 城山三郎氏死去 2007.3.23
「報道被害とメディア」 について講演 2007.3.22
「放送法改正案」 2007.3.22
「放送法改正の条文判明」 朝日新聞 3/19 2007.3.20
橘木俊昭 『格差社会』 岩波新書 2007.3.17
横川和夫、保坂渉 『ぼくたちやっていない』 共同通信 2007.3.14
横川和夫、保坂渉 『ぼくたちやっていない』 共同通信 2007.3.13
原寿雄 『新しいジャーナリストたちへ』 晩聲社 1992年 2007.3.12
朝日新聞 「天声人語」 2007.3.10
   徐京植 『過ぎ去らない人々』 影書房 2001年
 2007.3.10
内田義彦 『読書と社会科学』 岩波新書 1985年 2007.3.9
門奈直樹 『現代の戦争報道』 岩波新書 2007.3.8
門奈直樹 『現代の戦争報道』 岩波新書 2007.3.7
坂中英徳 『入管戦記』 講談社 2007.3.6
「論座」 今月号 朝日新聞社 2007.3.3
イサンクム 『半分のふるさと』 福音館書店 2007.3.1
佐藤 優 『国家の罠』 2007.2.27
「歴史と向きあう」 朝日新聞 (豊 秀一記者署名記事) 2007.2.26
佐藤 優 『国家の罠』 新潮社 2007.2.26
内田義彦 『作品としての社会科学』 岩波書店、
   澤藤統一郎 『日の丸、君が代を強制してはならない』 岩波ブックレット
 2007.2.25
丸山 重威著 『新聞は憲法をすてていいのか』 新日本出版社 2007.2.24
佐藤優 獄中記 2007.2.22
千田 實弁護士 『憲法の心』 本の森 2007.2.21
纐纈 厚著 『いまに問う憲法九条と日本の臨戦体制』 2007.2.20
纐纈 厚(こうけつ あつし) 『いまに問う憲法九条と日本の臨戦態勢』(凱風社) 2007.2.19
樋口陽一編 「憲法論文選」 2007.2.18
司法試験受験時代の基本書 宮沢俊義 『憲法K』  2007.2.18
佐藤優 獄中記 2007.2.17
佐藤優 獄中記 2007.2.17
佐藤優 獄中記 2007.2.16
東京高裁NHK番組改編事件高裁判決 2007.2.15
牧原憲夫 『民権と憲法』 岩波新書 2007.2.13
佐藤優の 『獄中記』 岩波書店 2007.2.11
『これが憲法だ』 長谷部恭男 杉田敦 対談 朝日新書 2007.2.7
『科学論入門』 佐々木力 岩波新書 2007.2.1
斉藤孝 『教育力』 岩波新書 2007.1.29




メディア・読書日記 2007.9.1

   西山太吉 『沖縄密約──「情報犯罪」 と日米同盟』
(岩波新書 2007年) その2


  ――もしも、投票による多数を獲得した者が、無制約のパワーを握る 「民主主義」 (ブッシュの戦争をみよ。) が権力集中と腐敗の検証というシステムを随伴していないとすれば、それにかわる統治の方法は本当にないのだろうか。
  賢人政治、貴族政治、制限選挙、君主制、独裁制など。
  これらの政治体制より、普通選挙制の民主主義のほうが世界の民衆に幸福をもたらしていると確信をもっていうことができるのか。

  そこまで考察をめぐらしたときに、初めて我々は表現の自由とか、報道の自由などの価値の重さとその質を理解することになるだろう。──

  書評の前編は、権力者の名誉心とトレードされた一国の民衆の運命というテーマであった。 後編は、債務負担の落とし子、本書の米軍再編への言及の意義というテーマにおいてみたい。

  よく聞かされる言葉だが、アメリカ当局者のいう 「不安定の弧」 という言葉がここではキーワードになる。
  西ヨーロッパのロシア、東欧との対決は終わった。中国との対決、北朝鮮問題の優先度も低い。残されたのは、中東である。イラクであり、パレスチナである。

  著者は、沖縄密約から連綿として承継されたアメリカへの屈辱的な債務がいま、突如として形を変えて、 規模と質を変えて日本を巻き込んだアメリカの新しい世界戦略に変わったさまを、本書の第4章を用いて明らかにした。

  第一に、アメリカの軍事戦略は、中東に端を発し、イラン、マレーシア、インドネシア、フィリピン、と軸を貫く不安定の弧にぴたりと照準が定められた、ということである。
  この弧とは、私の理解によれば、パレスチナとイラクによって開けられたパンドラの箱である。
  西山氏は、「米国を敵視する広範なイスラム圏から発出するエネルギーを武力によって消滅させるための日米軍事共同体の編成」と表現している (本書 158ページ)。
  今日2007年9月1日の朝日新聞はグァム島が米軍再編の中でしめる新しい役割に言及している。この記事によると、グァムは、中国と中東を意識し、 しかも米国領土内であるがゆえに完全な軍事的移動の自由を確保できる拠点だというのである。
  沖縄の海兵隊もグァムに移動する。グァムからは完全に自由に世界のどこにでも飛んで行けるというわけである。

  第二に、日本の軍事力の位置づけである。
  アメリカの新しい世界戦略の出撃基地の中枢はグァムだが、沖縄にはじまる日本列島はグァムと連携して何か新しい役割を背負わされようとしている。 その現れが、米本土にあったアメリカ第一軍団司令部(20000人)の座間移転であり、自衛隊の即応司令部(6000人)の座間移転である。
  世界のどこにでもとんで行ける対テロ地上兵力が、わざわざ座間に同居するのである。これほどの一体化はない。

  第三に、沖縄の基地再編である。
  海兵隊のグァム移転と一対となった再編である。
  軍事─安保、平和問題への一般の関心は低い。人権問題に熱心な人々の中でもその傾向は否めない。 本書4章の叙述は、こうした関心の低さを放置できないことを明らかにした。

  この書評の前編で言及した本書のひとつのテーマ権力者の野心に即して言えば、こうして連綿とつづく日米一体化、アメリカの描く戦時体制への一体化は 、佐藤という権力者の名誉達成という野心を通じて、日本の歴史に刻み込まれた、ということになる。

  ハーバード・ピックスは、「昭和天皇」 によって、ある権力者の人生と民衆の運命というテーマに取り組んだが、 ハーバート・ピックスの志につながるもう一つの作品が誕生したといってよいだろう。




メディア・読書日記 2007.8.25



   西山太吉 『沖縄密約
──「情報犯罪」 と日米同盟』
(岩波新書 2007年)


──なぜ佐藤(栄作)が“沖縄”に踏み切ったのか。
……それに対する答はまだ出てこない。──
若泉 敬「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文藝春秋 1994年)

  このところすごい勢いで読書がすすむ。
  「沖縄密約」は、出版された直後すぐに読んだ。
  ジャーナリストの秘密に迫る取材とはどんなものか。とくに、取材の対象になったのはどんな情報だったか、という関心からであった。

  しかし、本書によって教えられたのは、指導者、政治家、権力の座にあるものの、心性である。
  彼らは何をものさしにして、日々何かを選んでいくのか。
  結論的にいうと、自分の名誉である。歴史に残る自分の名前である。この結論を説得力をもって納得させられる。著者の政治部記者の経験がものをいっている。
  権力の座といったが、少し広い意味でこの言葉を使っている。

  権力の座とは、何かを決定し、その決定によって他者の人生を左右しうる者のことである。 その決定は、後輩をより高い地位に引き上げたり(人事権)、国や地方自治体や、大、小の団体の予算を決め、財政上の支出をできる(財政権)ものということである。 こう定義するとこの国には大小さまざまの権力者がいることを読者は体験によって思い浮かべることであろう。
  ただその国の権力といった場合、他者の幸、不幸への影響が深刻である。ブッシュによってどれだけ多くの家庭の団欒が破壊されたか。

  さて、本書に登場する権力者とは佐藤栄作のことである。
  彼は、沖縄施政権返還をなしとげた宰相として歴史に名を残したかった。必要な省略をして表現すると──それだけである。
  沖縄の施政権返還という形を残し、そのことを通じて、佐藤栄作の名を残したい。
  その目的を達成したいことを見透かされたアメリカにあらゆる譲歩を迫られた。その結末が、沖縄と日本の国民にどれだけ多くの負担をもたらすとしても、である。
  佐藤栄作は1972年返還をどうしても実現しなければならなかった。彼は70年に四選を果たしている。自民党では、五選の例はまずない。 任期の最後のチャンスが72年だ。

  本書の分析の面白さはここにある。アメリカ側は、72年返還はどうしても成し遂げなければならないという佐藤の弱味を知り尽くした上で、 アメリカは引き出すものを全部引き出した。
  どのようにか。
  アメリカにとって、沖縄が返還されるときに、沖縄から核兵器を撤去することは、予定の行動であった。これは痛くもかゆくもないことであった。 ただし、それ (核ぬき) は、日本側にはどうしても食いつきたい餌であった。国内への説得力のためである。
  アメリカがどれだけどん欲に交渉における獲得物を追求していたかは、1969年5月28日付の米国安全保障会議決定メモランダム13号がよく示している (本書53ページ)。
  @軍事基地の完全自由使用
  A核兵器の一時撤去は、他の条件が受け入れられるのであれば、その用意がある。

  施政権返還交渉を通じてアメリカは取るべきものはすべて取った。
  西山によれば、
  「沖縄の施政権返還にあたってのこのような日米合意は、その後の 〈日米安保共同宣言─周辺事態法 (新ガイドライン)─日米軍事再編〉 という一連の安保変質ラインへの連動の基礎を固めるものとなったのである。」(67ページ)。
  かくして、佐藤栄作の個人的な栄達心の達成と、その後の日本の進路がトレードされることになった。
  多数派であるがゆえに多大な権力を握ることになった者に、その後の国民の運命が左右されるという、これはまがまがしい実例なのであった。

  さて、本書最大の眼目はやはり財政密約である。3兆円のお金がやりとりされ、沖縄の買い戻しが合意されたことが記述されている。
  沖縄の返還合意は、1969年11月21日の佐藤・ニクソン共同声明によって正式におこなわれたことになっている。
  しかし、この声明がなされる前の1969年11月10日、柏木雄介大蔵省財政官、ジューリック米財務省特別補佐官によって協定の財政的内容 (沖縄密約の財政版) は、 すでに合意されていたのである。

  多くの読者は、本書で初めて知ることになるのだが、沖縄返還交渉は実は外務省だけによって担われたものではない。
  大蔵省が米財務省と独自の折衝に入っていたのである。本書の眼目の一つは、この二つの ministry の間に行われた交渉を、公開された資料によって関連づけ、 それを通して巨大な密約を明らかにしたことであろう。

  この財政 「裏交渉」 の日本側のキーパーソンは福田大蔵大臣であった。
  いや福田赳夫は、沖縄返還交渉全体のキーパーソンであった。
  なぜ福田が佐藤の功績におさまるはずの返還交渉に、これだけ熱心になるのか。
  政治家取材に力のあった西山のこの辺の事情の解明が、権力の座をねらう人間たちの分析として成功しているのは、本書の大きな成果といえよう。

  本書の後半は、密約の解明とは別に、佐藤栄作の冥土への旅の置き土産のおかげで、 日本がアメリカの世界戦略の中で、全く新しい役割を担わされようとしていることを明らかにしているのだが、それは書評その2とした方がよい。 よってそれは、他日に期することにしよう。

  もう一つ付け加えておこう。
  それは最高裁 昭和53年5月31日 外務省秘密電文漏洩事件判例のことである。
  本書は、外務省の事務官であった女性からの取材経過のことは一切ふれていない。しかしながら本書の叙述する密約の大きさを知ることによって読者は、 取材先と記者が逮捕され、そのことによって真実をめぐる論争の矛先が鈍らされてしまった被害のいたいたしさ──国民が盲目にさせられ、 いまこうむっている不利益の大きさを知ることになるのである。

  憲法判例ひとつの中にこれだけ巨大な葛藤、しかも歴史の現在につづく葛藤――法律学では利益の衝突というが──があるという抗いがたい重さを──、 読者が法律学徒とならばいっそう──そのことを学ぶべきであろう。





メディア・読書日記 2007.4.14

   『アルジャジーラとメディアの壁』
石田英敬、中山智香子、西谷修、港千尋 (岩波書店)


  『アルジャジーラとメディアの壁』 石田英敬、中山智香子、西谷修、港千尋 (岩波書店) を読み終えた。

  メディア状況とくに国際的な情報構造を把握する上で不可欠の書だと思う。

  9.11事件以降、私たち可視的になっていない事実の体系がある。
  それはアメリカによる中東地域への理由のない殺りく、占領行為であり、これに対するレジスタンスである。
  この間の血みどろの激闘は、本当は重慶、東京、広島、長崎、ゲルニカなどの無差別爆撃と同種の、非戦闘員である女性、老人、子どもを巻き込んだ殺りく、 それに対する防衛の行動なのであった。
  2004年4月のイラク、ファルージャ攻撃と、その後の自爆戦闘行動はまさにそういう現象として認識されるべきだったのである。

  ところが、欧米各国と日本のメディアは、アメリカの殺りくについてはほとんど正確に伝えないまま、 市民のレジスタンスについてはこれに 「テロリズム」 の冠をかぶせてきた。
  テレビの画面はどれだけ惨虐であっても、私たちは見るべきものを見ないですまされてきたのである。

  アルジャジーラは反米的である、とよく言われる。しかし本書は、BBC放送の手法で訓練されたジャーナリストたちが、アルジャジーラにつどい、 客観報道のスタイルで中東の真実を伝えていることを、書く。
  「ひとつの意見、もうひとつの意見」という対論番組があるという。そしてこの言葉は局のモットーでもあるという。これはよくこの放送局の根本姿勢を伝えていると思う。

  本書で知ったことをいくつか。

1、アルジャジーラは、グローバルなメディアである。
  ニュースがいくつか並ぶとき、グローバル (国際的、全世界的) にみてニュースバリューがあるか、その優先順位があるかを判断する。

  たとえば、日本の大使がカタール政府に表敬訪問したとする。
  それはアルジャジーラのニュースにはならない。
  Then what? (それで どうした)というわけである。

2、アルジャジーラは、世界で5000万人いるというアラビア語を話す人々に視聴されている。
  アメリカに住むパレスチナ難民も見ているのだろうか。

3、アルジャジーラはテロリズムという言葉を簡単には使わない。一般に自爆テロという言葉で報道される行為は多くの場合、 巨大な国家によってしかけられた戦争、戦闘に対する反対側からの戦闘行動なのだ。 テロといってネガティブな評価、印象をあたえた途端に、双方の戦争戦闘の対称形が見えなくなるからである。

3、ファルージャ攻撃、せん滅戦は、アメリカ軍による残虐な、市民をも巻き込んだ殺りく行為だったが、 アルジャジーラの記者はファルージャにふみとどまって取材を続けた。

4、ブッシュとイギリスのブレア首相との会議の際、ブッシュはカタールのアルジャジーラ本局を爆撃する意図をもらした。
  ブレアは、あわててこれを止めた、という。
  (2005年11月22日付けのイギリスの新聞「ディリー・ミラー」が首相官邸から漏洩した両首脳の会議メモをスクープした。)

  ブッシュにとっては、敵と味方、善と悪しかない。
  中立、公正なアルジャジーラは敵、なのである。

5、カタールという国の政府は国際的な存在感を獲得しようとして、グローバルなメディアとして、アルジャジーラを支援している。


  こんなことばが胸を打つ。

  だからアルジャジーラのスタッフは、米軍に引き上げろといわれても引き上げるわけにはいかない。 彼らの仕事は、米軍の攻撃を避けて 「安全地帯」 から報道することではなく、他でもないその攻撃が生み出す 「危険」 のうちに踏みとどまって、 その 「危険」 が実際どのようなものかを報道することなのである。というのも、「危険」 にさらされているのは無人の砂漠地帯などではなく、 そこで生まれ育った人びとが日々生きている生活空間であり、社会空間なのだから。そこには無残に破壊される建物や家屋や病院や学校、 そして橋や道路や発電所があり、爆撃によって殺される人びとがおり、飛び散る肉片があり、手足を失って血まみれになる子供たちがおり、 怒りや悲しみや恐怖で泣き叫ぶ人びとがいるのである。彼らには、この 「危険」 を避けてテレビを見る「安全地帯」はない。(138ページ)

  アルジャジーラはたんなるひとつのテレビ局ではない。それはアラブ・イスラーム世界にトランスナショナルな 「公共空間」 を開き、 それぞれの国家の政策を超えてアラブ世界を内側から変えている。一見それは新手の 「アラブ・ナショナリズム」 を醸成しているようにも見えるが、 そう見えるのはイスラーム世界を押さえ込もうとする現在の世界秩序のあからさまな動きがあるからだろう。 だが、この 「公共空間」 はさらに多様な要素を含んでおり、ひとつの価値やひとつの権威・権力に収赦してゆくことがない。 そして実際、自由の価値を掲げ、民主化を押しっけようとする側にではなく、むしろここにこそ、自由の要請とその実践、 そして民主化の真の力があるように感じられる。(159ページ)


  本書はアルジャジーラの紹介の本ではない。そうではなく、あたりまえのように私たちが受けとらされ、その中におかれている情報構造の仕組み、 ゆがみを、初めて、「あっそうだったのか」 と読者に解明してみせる書なのである。ジャーナリストたちはヒロイックではない。 危険に対しては会社も個々の記者も驚くほど慎重である。

  つまり彼らはジャーナリズムという仕事の公共性に誠実なのである。 しかし、取材はときに生命喪失の犠牲をももたらす。現にカブール、バグダッドの二つの支局は米軍機に爆撃され犠牲者が出ている。
  ただ誠実をつらぬくことが生命の危険につながっているのである。そういう人々と私たちは同時代を生きているということに厳粛な気持ちにさせられる。

  読者はそうしたアルジャジーラのジャーナリストやスタッフの仕事の日々と、 理由なく生命を奪われている無この人々の日常の痛みと奪われてゆく生命の重みをもって、自分たちがいかに知らされていないか、 いかに毒のある情報の中に浸されているか、を悟らされるのである。
  決して読み流してはならない本だと思う。

p.s.
  アルジャジーラと韓国のオーマイニュースがその存在と実績によって明らかにした、グローバル、ナショナル両方のメデイアの構造が重要である。





メディア・読書日記 2007.4.10

  1985年初版 (岩波新書) の 『読書と社会科学』 内田義彦著のひとくだりを友人の弁護士に見せた。

  それで思うんですが、人間は死ぬと特別に偉い人でなくたって、お互い普通の人間でも、死ということそれ自体によって、 一つのそれだけでも大切な 「後世への遺物」 を残す。人が死んだ後、お通夜お葬式の時だけではなく、生きている時もこうゆうふうに大事に聴け。 あるいはむしろ、大事に聴くように大事な人に接しなさい、ということです。

  死者は、死者のもつ全重量──威厳と優しさをもってわれわれ残された生者に語る。
  しかも、人間はすべて必ず死者になるんです。

  このひとくだりに痛く心を動かされた友人に、この新書をゆずってほしいと言われた。
  そこで私は、これを献呈することにした。

  内田義彦先生のことばは、ここでもう一人の読者の心をつかまえた、ということになる。おそらくこの本は、20刷はいっているであろう。


  さて今日は、マスコミ倫理懇談会で、「犯罪被害者の刑事訴訟手続への参加」をめぐって、2時間講演と討論の機会をもたせていただいた。
  新聞、通信社、雑誌、テレビの社会部長、編集局次長、紙面審査室長が50人超参加してくださった。

  別紙レジュメのような話をした。
  話の中心は、犯罪被害者の手続参加は刑事訴訟手続の構造を、構造的に破壊することであり、さらにまた、刑罰の意味を変えてしまう、ということである。
  刑事訴訟法と刑法総論の先生方は、なぜ沈黙されているのだろうか。
  メディアの反応は弱腰すぎるではないか、という挑発的なものであった。
  すぐに反撃がきた。それでは日弁連はどうか。日弁連だって反対の見解は遅すぎたではないか、というのである。

  今国会には、
  1、国民投票法案
  2、犯罪被害者の参加を認める刑事訴訟法改正案
  3、イラク特措法延長
  4、少年法改正
  5、放送法改正
と、重要法案が目白押しである。

  しかし、論点がまだ提示されきっていない。





メディア・読書日記 2007.4.8

  この国会の対決法案といえば三つ、国民投票法、イラク特別措置法2年延長、放送法改正であろう。
  イラク特別措置法のニュース、ネットでの言及が少ないように思えるので少しイラクについて書いておきたい。

  昨年2006年8月号の 「世界」 の特集を再読した。
  イラクの亡命活動家スビトマ氏とアルクバイシ氏との対談、綿井健陽氏のレポートが迫力に満ちている。
  アルクバイシ氏は63歳である。バース党左派でフセインとも対立し、その政権下では3年投獄の体験がある、という。

  そのクバイシ氏の獄中体験―─
  幅70センチ、高さ170センチの檻にいれられ、目隠し、両手両足を後ろできつく縛られ、手と足を鎖でつながれたという。 トイレは米兵に銃を突きつけられながら行き、食事は乾 パンに水。目隠しと手錠のまま食事をした。 15ヶ月の監獄生活で希望は少しも失わなかったが体重は15キロ減った。

  選挙への協力を迫られ、首相の座をやるとも誘われた。
  1年近く弁護士に会えなかった。

  結びのことばがきいている。「私は63歳です。死は遠くありません。」
  逮捕理由は米軍の政治過程に反対し、民衆をあおっている、というものである。
  インタビュアーが2万人の政治囚がいると聞くが、と問うと8万人と答えた。

  全土がアルグレイブ監獄と化すというのが特集の結論だ。
  そして外国軍隊がいなくなることこそ、宗派間の対立の終了につながると説くのが特集の結論である。
  それに反対する米軍の駐留に協力する構想に賛成し、追随する法律の構想に有力な反対がおこらないというのが今のメディアの現状だ。





メディア・読書日記 2007.4.4-5-6

  4月4日朝刊は関西テレビ社長の辞任を一面トップで報道した。
  大写しになった社長の辞任会見が写真で伝えられ、放送法改正を引き出した責任が追及されている。

  これにて一件落着、少なくとも中間的手打ちという印象が強いが、大いに違うと考える。
  再発防止計画を出させ、行政が内容に干渉していく仕組みは、憲法違反である。

  何故なら、これは事前規制なのであるから、厳格な規範で、規制のあり方を検討しなければならないはずである。

  たとえば、事実と異なる報道をし、国民生活と経済に重大な影響を及ぼしたとして、A局が再発防止計画を出していたとしよう。
  「再発防止」 計画という以上、「事実と違うことが明らかな場合、A局は自発的に当該報道をしないこととする」 「もし、かかる報道をするおそれがあるときは、 総務大臣はA局に再発防止のために必要な措置を求めることができる」、という計画や条文が入ることになるであろう。

  これは、事前規制に関する北方ジャーナル事件や、石に泳ぐ魚事件の規制よりも、かなりユルフンの事前規制が導入されることになる。
  また、表現内容規制である以上、「明白にして現在の危険」、すなわち特定の名誉、プライバシーなどの権利を侵害することが明白で (権利侵害の明白性)、 それがいま、現に侵害されようとしていることが差し迫っていること (権利侵害の切迫性)が、要件とされるべきである。

  しかるに、改正放送法では、そのような厳密な規制要件の検討が行われている趣はみられない。


  NHK受信料法廷

  4月4日、NHK受信料訴訟に出廷した。
  同期の澤藤君が、出色の弁論を展開した。団長にふさわしく、場馴れしたその場を圧倒する活動であった。わが友ながら、あっぱれである。
  次回、6月27日13:00〜2:30と指定された。大法廷になる予感もあった。

  書架から 『聞けわだつみの声』 第一集 (岩波文庫) を引き出し、読んだページは134ページの真田大法氏の遺書であった。 1943年9月30日、フィリピン沖にて戦死とある。私の生まれた年の戦死である。

  母親への思いが書かれている。―――タンスの前にじっと立って、暮れのある晩に、お金を工面して子どもたち6人の食事を用意した、という。
  その母への手紙がここに載った。
 
  「あの頃はねえ、たいへんだったのよ」 と、夫を徴兵にとられ、農家への勤労奉仕と売り食いでしのいだ 戦争末期を思い出す、 私自身の母の声を思い出しながら、いま、この文章を書いている。

  あの声のひびきの背景にあった母の体験、母親たちの体験が私たちの世代には、じっと染み込んでいる。
  次の20代、30代の体験とどのようにこれをかみあわせるのか。


  本日、雑誌 「世界」 編集長岡本厚氏と大江健三郎氏の岩波書店を代表するコメントが載った。
  沖縄戦自決に関する教科書の改変に関する抗議のコメントである。

  岩波が会社として、時代の対決点にぐっと一歩を踏み入れた感あり。そういう時代に入ったのだろう。





メディア・読書日記 2007.3.26

  辻井喬氏が城山三郎氏について書いている (本日毎日新聞夕刊)。
  弱さの中にも輝きをもった人を描いた人、サムライを求めた人、それも、平和の雲行きが怪しくなったときそれと毅然と闘ったサムライを書いた人だという。

  日本文芸家協会で、個人情報保護法に対抗する動きを作り出そうとするときは、毅然として、「頼りになる人だな」 と思ったという。 70代後半で、辻井氏も城山氏も同じ世代である。
  奥平康弘教授も同世代で、『治安維持法小史』 (岩波現代文庫) を残された。
  戦争の末期に思春期を迎え、民主主義が貧しくとも明るい時代を経験した三人には、何かが共通している。 この世代の次の次くらいあたり、1960年安保が思春期にあたる私たちが伝えるべき時代とは何か。

  私と同時代の書き手が言っていたが、「60年代とは、人間の善良さということを無条件に信じられた時代」 といってよいのではないか。

  「今日はあいつを捕まえろ」 と私服がわめいているとき、デモ隊が包みこむように後ろへ後ろへと、 一人の青年を逃がしてくれた経験がある。あの集団のあたたかさである。

  さて、3月26日サンケイ新聞朝刊が日本テレビの暴走族取材が暴走行為を煽ったとの記事を一面トップに載せた。

  2006年8月の暴走事件である。少年審判は終わっているはずで、なぜ今なのか。
  サンケイといえば、サンケイ・フジグループで、「あるある」 の関西テレビと同じだ。
  メディアがたたきあって、自分の首を絞めあっている感あり。読者リテラシーで、まゆつばでみた方がよさそうだ。

  他紙は、夕刊で同様に追いかけている。いずれ放送法の再発防止計画の条文導入につかわれるキャンペーンであろう。次は他のネット局が血祭りか。……?





メディア・読書日記 2007.3.24

  前進座で、「生くべくんば 死すべんば─弁護士・布施辰治─」 を観た。

  顔見知りの弁護士に何人もお会いした。治安維持法下で長男を獄死で奪われ、その子 (孫) は病死で命を失い、 布施弁護士自身も治安維持法違反被告弁護の故に投獄され、弁護士資格を奪われた。

  戦後、水を得た魚のように活動を再開し、松川、三鷹などの事件、知事選などで活躍したが、1956年死去された。

  描かれた時代の弾圧は一族一同を滅ぼすという、生やさしくないものである。
  劇は、映画やテレビと違って、いまそこで息づく人が演ずるために、観客はあたかも戦前たたかった農民、朝鮮人、 弁護士一人ひとりと対話しているような不思議な空間に引き込まれる。
  戦後の朝鮮人大群衆への演説も、終演後のカーテンコールも、布施弁護士そのものと挨拶しているような、感じなのだ。

  私たちはこのように生きてきた。これからはあなたがたの時代です、苦難が待っているかもしれませんが、いかに生きますかと問いかけられているような……。 そういう余韻と宿題を与えられる演劇だった。

p.s.
  劇中、背景にショパンの曲が流れる。指紋押捺拒否のため14年間再入国を拒否され、特別永住許可までいったんは奪われ、 永住許可をとりかえし、再入国を果たした、チェソンエさんのピアノ演奏による。この演劇のために特に録音された。

  劇の前半は朴烈、林文子事件が扱われる。

  3.1万歳事件 (7000人の命)、関東大震災虐殺 (6000人の命)、植民地支配を強烈に告発する場面に日本人観客は心の中でどういう反応を示したろう。 この場面やそれに続く、弁護士一家の苦難の場面にならされるショパンにこのピアニストはどんな情熱をこめてひいているか、 そしていくつもの先立つ、革命と亡命の時代を生きた作曲家の伝える音に共鳴しつつこの芝居を見ることも重層感を増すであろう。

  ロビーで見ると、学生時代に読んだ 「ある弁護士の生涯」 (岩波新書 青版) が再重版され、きちんと770円と、今の価格で売られていた。

  ラストシーンで布施弁護士が時代をともにした岩手の農民が牛追い歌を歌う。これは僕も歌うことが好きな曲でもある。





メディア・読書日記 2007.3.23

  作家 城山三郎氏死去の記事が、23日付中日新聞朝刊に大きく出ていた。

  文人戦犯広田弘毅の生涯を書いた小説 「落日燃ゆ」 は、メディア判例百選にも登場するが、人間の一生、──人生というものを考えさせる好編であった。
  吉田茂氏とほとんど同期の外交官であるが、優秀さの故に、戦前のある時期、政府の要職についたことで戦争責任を問われ、刑死した政治家の生涯を描いていた。

  広田は、東京裁判では一切弁解を拒否した人だという。

  城山三郎で記憶に残るのは、個人情報保護法反対運動の中でのインパクトのある発言であった。
  反対運動の高揚の中で、テレビ画面で、鳥越俊太郎氏のインタビューに答え、城山は、「法が通るなら、民主主義の墓碑を建立し、賛成議員の名を永久に刻みたい」 と、 発言した。涙ぐんでいた。

  名古屋出身のためか、中日新聞の追悼記事は、朝日新聞のものより詳しく、「墓碑」 発言のときの涙の意味がわかった (朝日は翌24日天声人語で詳しく取り上げた)。

  17歳で海軍に志願し、初年兵のときに散々の暴力を受け、また、「敵」 軍艦に水中から潜水服で近づき自爆攻撃する特攻訓練に明けくれした、という。
  特攻兵士を死地に追いやった指揮官たちのことを書いた 「大義の末」 という作品もある、という。
  体験というものは個別のものであり、いかなる権威もその体験から発した呪詛、苦難の訴えを圧殺できない。 しかし、体験をナマで語るだけでは訴求力をもたない。

  城山さんの言葉は、なぜ人々に届いたのか。体験が生み出した深い想念を、人々が共有する普遍につなげたのである。 城山さんの体験には、体に染みついた被害とともに、戦後、解放されたときの明るさがあった。 自由があった。暴力にさらされずに自己を主張しうるという空間があった。それが民主主義だ。

  中日新聞には、教職をつとめた40歳前後の城山さんの教壇の立ち姿がある。その印象は、一言でいえば活力であり、「希望」 であろう。
  城山さんは話の中に、個人情報保護法の中に、そうした意味での民主主義の死を感じとって反対したのだ。だから、「民主主義の墓」 なのであり、 しかもそれは抹殺不能な体験に根ざしているが故に力があった。

  法案は通って六法全書の中にある。司法試験用六法の中にさえある。 しかし、このようにして城山さんは私たちに、この時代に先立つ一つの時代の体験を 「渡した」 のである。





メディア・読書日記 2007.3.22

  名古屋テレビ (テレビ朝日系列) にて、「報道被害とメディア」 について講演。

  報道局幹部が拙著に目をとめ、読んでもらったことがきっかけということであった。
  聴衆100名、女性が3割いた。地方のテレビ局では記者職採用はなく、総合職による採用なのだ、という。

  報道被害当事者の被害体験に耳傾けることによって、名誉回復が実現した体験や、報道被害を口実とした報道規制の動きについて強調した。

  社長、報道局長以下、ベテランや幹部のほか、若い人たちもたくさんいた。

  事件、事故後、被害者にマイクを差し出す取材方法について、何とかしてほしいと強調すると、拙著 報道被害 にも書いた青森放送の事例 (マイク差し出しをやめた、 という経験) について質問が出た。

  本書が、何かにきっかけになっていくという予兆のようなものを感じた。





メディア・読書日記 2007.3.21

  事実に相違する報道をした放送局に対し、それが国民生活と経済に影響を及ぼす場合に、再発防止計画を出させる。
  という放送法改正案が自民党の小委員会で依然検討中という (朝日新聞 2/21)。いまだ東京新聞のほか、各社の論説、解説記事の調子は相変わらず弱い。

  田島、服部、桂、山田などの各教授に、オピニオン欄で健筆をふるってほしいところである。

  今日はイラク開戦4周年の記事を取り上げたい。
  イラク占領をどう見るのか。トータルな分析が見えない。

  アメリカはいかなる目的で、イラク人59,326名以上(IRAQ BODY COUNT 2/26)、米兵3,213名(CNN 3/21)の生命と引き換えに占領を続けているのか。
  ネオコンからイラク占領批判に転じたフクヤマ氏のインタビューが出たが、まだこの程度なのか、と思う。

  ひるがえって日本の関わりだが、自衛隊がいま、何をしているのか。クウェートからC130で武装米兵を運んでいる、というところまでしか事実が提供されていない。
  メディアの取材の怠慢であろう。

  フセインの側近が開戦4周年記念の日に処刑された、という記事が出たが、これも象徴的だ。

  3月19日信濃毎日新聞は、アメリカの大規模な反戦デモの様子を写真入りで伝えた。もっとダイナミックに、もっと具体的に伝えてほしい動きだ。

  くり返すと、意味のわからない不気味な占領に、日本だけが陰りなく同盟軍としての動きを続けている。
  イラク特措法期限切れの7月に向けて、本格的な検証が必要になるだろう。





メディア・読書日記 2007.3.20

  3月19日、朝日新聞一面トップに 「放送法改正の条文判明」 の見出しが踊った。

  記事の概要はこうだ。
  「あるある大事典」 の納豆ダイエットのように事実と違う番組により、経済と国民生活に及ぼす事態を招来したときは、 総務省は放送局に再発防止計画を提出させることができ、再発防止計画に背く放送をするときは、これに、停波等を命ずることができる、 という放送法改正条文を検討中だというのである。

  記事一読の感想は、危機感薄弱ということである。

  ある間違い、というのはどこの局も抱えている。
  A局のやらせ、B局のオーム教団へのビデオ閲覧許可、C局のサブリミナル、D局の……というように、そもそもテレビ制作の現場に何かのチャチを入れようと思えば、 過誤はいつでも見つかる。
  そのたびに総務省は、再発防止計画の提出を命ずることができる。

  自ら出した再発防止だから、守らせて当然だ。守らなければ行政処分があってもよいではないか、これは結構俗耳に入りやすい理屈であろう。
  かくして、テレビ局に対して総務省が事前に介入することは法的に可能になる。

  これは、検閲 (憲法21条2項)、または、事前規制 (憲法21条 1項) のどちらかの問題となる。

  中川官房長官 (当時。現自民党幹事長) の事件を思い出す。
  写真週刊誌 「フォーカス」 (2000年10月18日号) の捜査情報漏洩スキャンダル報道があり、政治家がそれを事実無根だとした。 すると 「フォーカス」 は、ならば当事者の声をテレビ局に流してもらい、視聴者に判断してもらおうではないかとして、通話相手がとった録音テープをキー局に持ちこんだ。
  キー局 三局がこれに応じる構えを見せた。今日、これから生の声が放送される、というその直前になって、官房長官は辞任した。

  このとき、与党自民党の幹部 (野中広務氏) から、マスコミの倫理と人権を考えなくてはとの発言が飛び出した。(拙著 「報道被害」 155ページ参照)
  放送法改正はそのように使われる危険があるのだ。

  ブレア首相の友人の法務大臣が申し立てをして、周辺の金融疑惑に関するBBC放送の報道を裁判所が差し止めしたという記事につき国内の反響が少ない。 取材網をもつ大メディアはどうしてもっと掘り下げてみないのか。 他山の石とはこのことではないか。

  この点少し掘り下げよう。放送は免許行政の下に置かれている。多くの放送と新聞は系列下にある。
  放送への官僚支配を完膚なきまでに批判できないのは利害関係が同じなのだ。 つまりこれだけ放送法問題への危機感が語られないのは、新聞も間接的に放送支配と同様の状況におかれているということなのか。 出来上がった情報構造にだまされないような智慧が必要だ。

  やはり日本版アルジャジーラ、日本版オーマイニュースが不可欠ということかもしれない。

  メディア関係者の皆様 異論、反論大歓迎。





メディア・読書日記 2007.3.19

  3月16日、東京新聞朝刊に 「英融資疑惑で報道規制」、ブレア首相周辺に対する融資疑惑について、ゴールドスミス法務大臣の申立により、 裁判所が報道差し止め命令を出したという記事が掲載された。
参考 →
東京新聞記事

  イギリスは陪審の判断の公正を維持するという法益と、報道の自由のバランスを図るための法制が進んでいる (日本でいう法廷秩序維持法)。
  バランスとはいうものの、やや報道の自由が犠牲になっているように思える。記事を見る限りでは、この系譜で差し止めが出されたと読める。

  日本では裁判員制導入にあたって、あるいは、それを奇貨として、自由規制 (特に事前規制) が検討されることもありうるので、注意が必要である。

  ところで、この差し止め命令を申し立てたゴールドスミス法務大臣は、IBA (国際法曹協会) の人権協会の議長をしていた。 私は、その頃、日弁連から派遣されて同協会の評議員を務めていたので、何度もお会いした。 聡明で、若々しい雰囲気をたたえていた。イギリスは階級社会なのだ、ということを改めて想起させる雰囲気をもっていた。 とりわけ気取るわけでもなく、威張るのでもないのだが、なまりという意味での英語のアクセント、立ち居振る舞い、スピーチの出だしとまとめに気品があった。

  ブレア首相とゴールドスミス氏には、長い友人関係があったと伝えられている。
  であるが故に、法務大臣のBBC放送差し止めは、その裏をさぐられたのである。

  しかし、私がここで言っておきたいのはこんな裏話ではない。この話は、物語の現実性を感じとっていただくための導入部にすぎないのである。
  私が言いたいのは、こういう政治的差し止め、憲法学でいう事前規制という態様の表現規制である。 共同通信元編集主幹原寿雄氏は、拙著の出版記念シンポジウム (2007.2.3) で、「差し止めという言葉が日常化し、表現にたずさわる人々が、 このフレーズに慣れっこになってしまうこと」 に警告を鳴らしていた。

  報道不信という環境がある。その環境を下敷きにした上で、そんなもんだったらいっそ発表しない方がいいじゃないか。 そのために政府が権力を発動することがあってもよい。政治的言論であっても……。

  これは時代の空気といってもよい。
  東京新聞が伝えた、ブレア──ゴールドスミスのラインによるBBCの放送差し止めは、もっと生々しい迫力となって私たちに迫ってくるのである。

  今日、朝日のトップ記事は、「あるある大事典」 をきっかけとする放送法改正案を伝えているが、危機感は伝わって来ない。この問題性はのちに書こう。


  『アルジャジーラとメディアの壁』 (岩波書店 2007年) を読みすすむ。
  社会学研究、アートデザインにたずさわる複数の著者による編集幹部へのインタビューが、あるとき飛躍的な緊張を帯びる。 また、編集幹部のひらめきに満ちた言葉が、ときに披露される。

  国際的に連携する帝国の支配の下におかれた情報秩序の一角に、 明らかに影響力をもって対抗するメディア──アルジャジーラの急速な抬頭の背景をつかむことになりそうな予感を与えてくれる本だ。





メディア・読書日記 2007.3.17

  橘木俊昭 『格差社会』 岩波新書 を読む。
  2ヶ月で4刷りを出した破竹の勢いの新書である。

  山を登るとき考えるのは、この一歩、だけである。急がずにできるだけゆっくり歩く。ゆっくり歩く技術が登山だと先輩から教わった。
 そのうちぽっかりと山の下に開ける遠い街の風景や、地平線をいっぱいに占領する高山が広がったりする。

 格差社会という言葉がもたらすイメージについて、全く新しい風景を登場させてくれた。 それがこの本であった。

  どんな風にか。
  ある程度の格差もやむを得ない、だって、努力したからその分だけ報われるのが当然でしょう?

  そういう素朴な疑問を、自分が勝ち組だと思っている人は提出するだろう。しかし、本書はそこをもう少し通り越したところに論点を設定している。
  そうではなく、限りなく貧困率を拡大し、貧困者の生活水準をさらに低下させ、貧困者を社会に蓄積する展望をもった社会は、 果たして力をもった社会かどうか、という疑問の呈示である。


(注 貧困とは何か、貧困率とは何か、という定義が必要である。
  本書16ページは絶対的貧困とは、各家計がこれ以下だと食べてゆけないという意味での貧困だと定義し、 地域によって違うものの仮にとして、年間150万円の年収を基準値として設定する。
  相対的貧困とは、すべての世帯の収入平均の2分の1以下の収入の世帯をいう、と定義する。絶対的貧困の指標金額は国により違うので国際比較はできない。 そこで収入が平均の2分の1以下の世帯 (相対的貧困者) が人口の何パーセントを占めるかで国際比較をするのである (相対的貧困の概念をもちいることによる貧困率という定義の国際通用性))


  さて貧困率の数字はどうか。
  不名誉の第1位はメキシコである。 20,3パーセント
  第2位はアメリカ            17.1パーセント
  第5位が日本である          15.3パーセントである。

  スウェーデン、デンマーク、フィンランドなど北欧は20位代であり、ヨーロッパは大体貧困率は低い。 (本書 24ページ 表1−4)

  メキシコは行ったことがあり、各家庭の様子もある程度わかる。貧富の差も実感として理解できる。
  日本の将来を予測する上でアメリカのことはよく見ておこう。
  病気になっても医療を受けることができない。自己責任論である。よい医療は、金で買う医療保険で保障される。

  日本でも貧困者は国民健康保険料を納付していない。納付しないことによってしか、月々の生計をまわせないからである。 その数は、本書によればかなりの多数に達している。

  格差社会といえば、その底辺で呻吟する貧困者のヒアリングあたりから始めるのが私たちの作法であるが、 このようにマクロから入っていく思考方法もまた、必要な角度だと知った。 筆者は、私と同じ生年である。2005年に日本経済学会会長を歴任されているが、私の母校の同クラスの鈴村興太郎君 (一橋大学経済研究所教授) もまた、 このポジションにあった。

  鈴村君は、ノーベル賞を受けた アマーティアセンの研究グループにあったと聞いているが、彼はどんなことを日本の 「格差社会」 について思考しているだろうか。

  雑誌 「世界」 4月号の岡本 厚編集長の編集後記が、本書に関連する興味深い問題を提起している。
  「格差社会と社会変動」 というテーマである。

  岡本は言う。下流に押し込められた人々のルサンチマン (筆者注 英語でいうと resentment) が噴出する機会をうかがっている。 それは北朝鮮たたき、中国たたき、公務員、大学、労働組合、マスコミへの反発と向かう。 リベラルな言説は嫌悪と反発の対象となると。(「世界」 2007年4月号 336ページ)

  格差が生み出すルサンチマン的な衝動の利用によって改憲論議はいかなる方向へ誘導されるのか、と深刻な問いを岡本厚の編集後記は投げかける。





メディア・読書日記 2007.3.14

  『ぼくたちやっていない』(横川和男、保坂渉)共同通信社 読了。

  奥付をみると、初刷り1992年 重版 2005年となっている。13年たった重版!

  若い弁護士一人ひとりの人生を描写し、えん罪の法廷に立たされた子どもたちや、親たちの人生と交差させている構成が面白い。

  アルカトラズ監獄の物語を書いた告発の映画を思い出した。
  新人弁護士に囚人が聞く。「お前いくつだ。」
  輝く新人と囚人の歳は同じだった。答えられない新人弁護士。

  少年事件では観設措置によって身柄を拘束されるのだが、ある程度無罪立証が進み、観設措置が取り消されたあと、警察はアリバイ崩しに入る。 その再反撃のための弁護士たちの行動がすごい。

  鈴木利廣弁護士 (医療弁護団の代表) が、取り調べで偽証の脅しを受けている青年と面会中、接見を打ち切られるのだが、 その場面で、肩を抱いて、「きっとお前を取り返してやるからな」 という場面が記憶に刻まれる。

  ここに集まった弁護士たちが中核になって、日弁連こどもの委員会がつくられ、いま、少年事件付添い人 (少年事件の弁護人のこと) 活動交流合宿には、 460人 (460人!) もの弁護士が合宿討議をするという。
  お互いの間に立ちはだかる障壁を取り去った交流があってこその発展だと思う。

  その中心に吉峯康博弁護士がいた。ぼくよりも何倍も濃い性格のなせる技だろう。


  14日、「アルジャジーラとメディアの壁」 (岩波書店 2007年) を神保町 信山堂にて求む。

  国際情報秩序に挑戦して成功をおさめるこのメディアの研究書から得ることに期待する。
  BBCの、いつも問題を二つ以上の角度から取り上げるという伝統を引き継ぐという視点が面白そうだ。




メディア・読書日記 2007.3.13

  毎日新聞社の社会部記者が、取材相手を録音したICデータを第三者に渡したことを理由に諭旨解雇をされたと発表された。 毎日のネット記事は大きなスペースでこの問題の調査結果と朝比奈主筆、開かれた新聞委員会の委員見解を掲載している。

  この件は、もともとの記事すなわち、アメリカの会社が日本の土地を買った経過についての毎日の記事につき、 日本円にして約100億円という巨額の訴訟が起こされ、それが和解で解決したという、いわくつきの事件である。

  いわゆる取材不祥事としてみるだけでは足りない事件だと、私はみている。少し材料を集めたいが、毎日に紹介された識者たちの、 録音データの流出が取材倫理に反するので厳しく批判されてもやむをえないという意見は、それはそうだが、なんとなく腑におちないというところを考えてみた。

  それは、バランシング (利益衡量) の問題である。
  量刑不当の問題である。
  失敗? あやまち? しかし首か。

  当該記者は、糸川議員の国会質問についての脅迫事件の調査報道取材をやっていた。 その過程で行った議員の発言の承諾なき録音が第三者に流出した責任を問われた。
  私には材料がないが、問題の本質はこの脅迫事件の背景の深さなのではないか。いま論点は大きくずらされつつある。

  本件の取材のあやまち、それは、大きくみると故意ではなく過失責任である。しかも調査報道のプロセスにおける過失である。 取材データを流出させるのはいけない。自明である。自明すぎる。
  しかしその結果、記者の首がとぶのか。とばせてよいのか。
  吉永春子さん (TBS-OB 調査報道の神様のような人) のコメントも載っていたが、彼女はきっと私とおなじことを叫んでいたはずである。

  身をあやうくしても真実を犠牲にしないのが記者倫理の最高の基準である。こういう前例(取材上のあやまちで解雇の前例)は以前に、 朝日新聞にもあったが、取材ではなく金儲けとか脅迫とか、取材目的以外の違法行為のためならばともかく、 調査報道目的で動いた行為で明日のパンも保障されないというのなら、いったい何のための結社なのか。

  ならば、そおっと、危ないことからは身を引くか。こんな感情がよぎらないか。
  人間は弱い存在である。こういう切実な声を聞いた。強いと思っていた人からこの肉声を聞いて粛然とした。弱くても結社の力で、 力なき市民のために、強き存在に立ち向かうのが報道結社なのではないか。記者たちの伸吟の声が聞こえる。
  誰か現場の記者が獅子吼(ししく。ライオンのようにほえること)すべき事件だ。

  個人で無理ならばジャーナリストの団体が。吼えよ。

  記者への実弾を送りつけた脅迫事件の行方も気になる。
  自由は、敏感さと行動で守るべきなのだろう。


  本日の読書。

  吉峯康弘弁護士からいただいた 横川和夫、保坂渉 『ぼくたちやっていない』 (共同通信) を読み始めた。数少ない子供の冤罪事件の本だという説明。
  車椅子を余儀なくされているが、いきいきと活動する同弁護士からご恵贈いただいた本である。





メディア・読書日記 2007.3.12

  この一週間ほど、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなど有力紙が安倍首相の従軍慰安婦強制否定発言を、批判的に論評していることが話題になっている。
  このホームページでも、これらの紙面にアクセスできるようにしたので見てほしい。
  アルジャジーラの報道ぶりも興味深い。

  米下院の決議阻止のための安倍発言と、アメリカメディアの反発、そして、日本の支配層の反応というこの動きのポイントにあるのは何か。
  それは日本のナショナリズムである。ナショナリズムからすれば、従軍慰安婦への国際的批判、とくにアメリカ議会のそれは看過できない。 そこで、従軍慰安婦強制否定発言となった。しかもそれは、アメリカのリベラル派の容認できないところとなった。

  それを反映したのがニューヨークタイムズの一面トップ記事であろう。
  アメリカ政府としては、対外軍事行動、憲法改正に向かう日本の多数派を支えるナショナルな情念は、敵性的な意味をもたない。 そこでその批判はしない。そのかわりそっと助言をした。あまり激しいことは言うなと。駐日大使の動きがそうであった。安部首相の発言のトーンは変わった。

  しかし、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、ソウル、フィリピンと飛び火した対日批判はこのままでは収まらないだろう。

  ネットでニューヨークタイムズ、アルジャジーラの動きをしばらく見ていこうと思う。

  それにしてもここ数年、ナショナリズムという現象は、とくに20代、30代のそれは日本の政治動向を大きく左右するであろう。勉強すべき課題として心においておきたい。


本日の読書

  原 寿雄 『新しいジャーナリストたちへ』 晩聲社 1992年。  戦争に弱いジャーナリズム (第 1章を中心に再読。)
  1990年代前半の湾岸戦争とメディアの関係という問題意識で書かれた。しかも湾岸戦争時点のメディアと戦前の日本のメディアを対照している。

  戦前満州事変を新聞がどう書いたか、書けなかったか、を検証した。戦前のメディアは軍部の暴力におびえたから書かなかったのではない。 「ここで書いたら会社がつぶれる」 という経営とジャーナリズム性の葛藤が書けなくさせた、という指摘が今に生きる。
  会社内世間と会社外世間を気にするのは、今もまったく同じだ。

  ペンとパンというが、ときに、パンを失ってもペンを優先させることがあってもいいのではないか。そのくらいの気概がなくて何のメディアか。

  本書による、湾岸戦争時のときのアメリカのメディアの愛国主義の熱狂の描写は、当時は未来であった9.11直後のアメリカのメディアを予測しているようだ。

  翻って日本ではどうか。
  拉致問題はみのがせない人権問題である。
  よってある種の重点が置かれるべきだ。だがジャーナリズムがこれを取り上げるときは、もうひとつさめた権力監視の角度に立った論評が大メディアに出てもよい。 従軍慰安婦問題でも同じだ。
  いまジャーナリズムは試されているのである。

  ここで政権とは違う何かをいえなければ、海外で日本人がテロか戦争で命を失うような事態を迎えたときにどうなるだろうか。 ナショナルな感情を煽動されたときに抵抗できる抗体がないことになろう。そしてメディアはしかるべきなんらの役目も果たせないだろう。
  今日のパンのために、何百万の無辜の人々の災厄を防げないのでは仕事に内在する公共性を果たしたことにならないだろう。
(それは私たち法律家も同じだが。)

  心あるジャーナリスト、メディア経営者に、あるいはその志望者たちに本書の再読をすすめる。


ps
  満州事変のはじめの銃声は日本の謀略から始まった、という真実を日本が知ったのは東京裁判の証言からであったとの本書の指摘がある。注目される叙述だ。 検察側の田中隆吉証言 (『日本軍閥興亡史』 中公文庫の著者)のことか。

  このとき日本の世論は驚愕したのか、どうか。





メディア・読書日記 2007.3.10

  今日の出色は朝日新聞の 「天声人語」 だと思う。

  1945年3月10日、東京はB29の大群に攻撃され、一夜にして10万人の人々が命を奪われた。
  3月9日、被災した遺族がその損害賠償を国に対して求める訴訟を起こしたことを、「天声人語」 は伝える。


  なぜアメリカではなく、日本が被告なのか。天声人語は字数が限られている事情からか、そこには触れていないが、 それは日本が講和条約を締結する際に戦争に伴う損害賠償請求権を放棄したとの事情によるものであろう。

  「天声人語」 の切り口で優れているのは、日本による重慶の無差別爆撃と、東京大空襲の因果関係をきちんとおさえていることである。 無差別加害が無差別被害の口実を作ったということである。
  1937年のゲルニカ (スペイン)、第二次大戦のドレスデン (ドイツ)、大戦後のベトナム、アフガニスタン、イラクの爆撃。 そこでは、非戦闘員であり、身に寸鉄を帯びない老人、幼な子、女性、一般市民が一瞬にして命を奪われてきた。

  「天声人語」 の結びはこうなっている。
  3月10日。それは、そうしたあらゆる国と街の記憶をつなぎ、未来に伝えることを胸に刻む日だ、と。

  ここで付け加えておきたいことが二つある。

  一つは、この訴訟の原告弁護団長を、研修所同期同クラスの中山武敏弁護士がつとめていることである。 中山君は狭山再審事件弁護団の事務局長をつとめ、「無条件に弱者の立場に立つ」 を信条とし、それを心の中にまで徹底している数少ない法律家の一人である。 実際、私は運動の大変な局面でこの人に鍛えられた。

  法律的な主張として望みがないわけではないが、なかなか難解なところのあるこの訴訟の責任者も、中山君あってこそのことだと考えている。
  実際、各新聞に出た中山君のコメントをみると、「時効など難しい点はあると思ったがこんなことが放って置かれていいのか」 と思ったとある。 実際、右手を機銃掃射で失った女性の60年の人生の告白は読む人をして心を動かす。この人の人生を知らずして私たちは平和を語ってきたのか、というように。 60年安保のとき、日韓条約のとき、70年安保のとき。そしてイラク戦争のとき。そのときどきに、この女性の目にはデモに参加する人々のことはどう映っていたのか。 中山君ならばこの人生の痛みからは目を離せないということだったのだろう。

  二つ目は、民主主義の再考という問題である。
  非戦闘員を殺りくすることは、国際人道法上も違法であるはずであり、その殺りくの責任は重大であるはずである。 しあるに加害国の政府リーダーは、なぜ、法的責任も、政治上の責任も問われることがないのか。
  加害国でリーダーを選挙によって選んできた民衆は、何をしてきたのか。メディアは、またいかにして批判の健筆をふるったのか。ふるわなかったのか。
  加害国。東京大空襲や原爆投下でいえばアメリカ、重慶爆撃でいえば日本、の市民は被害者や遺族の一人ひとりの人生がどれだけの悲惨を背負ったのか、 その事実を知っていない。知らされていない。

  戦争責任、戦後責任を問う裁判は、やむを得ず損害賠償の形をとっているが、実は戦争という残酷な加害を成立させているデモクラシー (民主主義) の根本矛盾を、 被害者の人生の困難という重みをもって問いただしている営為なのである。

  そう考えるなら、メディアに関わる人々、私たち一人ひとりは、もっと原告の人たちのことばに、耳傾ける、いや耳傾けることのできる主体に自己変革すべきであろう。


p.s. 1
  きのう3月9日、拙著 「報道被害」 (岩波新書) を読んでくださったクライアントと食事の場に向かうとき、「梓澤さんはメディアについて楽天的ですね、 希望を持っていますね」 と言われた。それは厳しい批判のようにも思われ、一瞬立ち止まった。
  これは拙著のかかえる根本的な問いである。メディアに望みなしとして糾弾の対象とするのか、それとも、変革の可能性を見ながら提言と実現の活動を続けるのか。

  この問いは、何の大義もないイラク戦争一つ止められず、いまだやめさせることのできない民主主義というシステムへの問いでもある。 民主主義は相対的多数者によって選出されたものに絶大な権力を与えている (例 ブッシュ、石原知事)。 付与した権力には 「敵国」 の非戦闘員の殺戮まで含んでいるのか。
  そうではないというならば、何がその歯止めになるのか。逆にまた戦時には非戦闘員の生命喪失もやむなしとする思想が民衆の中にはないか。そのこととナショナリズムの関係如何。

  答は今後に向かって開いておこう。


p.s. 2 本日の読書
  徐京植 『過ぎ去らない人々』 (影書房 2001年) を再読。

  アジェンデ (チリ)、ゲバラ (キューバ)、槇村 浩 (日本の詩人)、金子文子、尾崎秀美、ゾルゲ、 キムサン (ニム・ウェールズ アリランの歌─岩波書店) などの革命家を中心とする群像について、著者が記した短い評伝をまとめた書である。
  本格的な紹介が必要な本だが、メディアについて考えたとき、同時に考えておくべきテーマを含んでいると思うので記しておきたいが今日は時間がない。


P.S.3
  東京大空襲とはいかなる体験だったか、それを追体験できる小説がある。 加賀乙彦 『炎の都』 (1−7) 新潮文庫である。『戦争と平和』 (トルストイ) に匹敵する大河小説である。ネット古書店 「日本の古本屋」 で買えると思う。





メディア・読書日記 2007.3.9 晴れ

  昭和天皇侍従の日記発見が、朝日新聞の一面トップを飾った。この発見は昭和十年代の日本の歴史の解釈に何を付け加えているのか、が問題であろう。
  ハーバート・ヒックスの 『昭和天皇』(講談社学術文庫) などとあわせて読んでみたい。

  「歴史との緊張に満ちた対話」(渓内謙 『現代史を学ぶ』 岩波新書) こそは、この社会がどこに向かっているのかを明らかにするのであろうが、 記事自体は侍従の日記が何を明らかにしたのか、についての解釈を加えていない。 一体、昭和10年代から戦後にかけてのこの国の歴史には、まだわれわれの今後の道標となるほどその真実が明かされてはいないのでないか。

  たとえば、満州事変のはじめの銃声は中国側からでなく、日本軍の謀略であった (柳条湖事件) という衝撃的な証言が、戦後いつ誰の口から出たのか、 そのとき日本社会はどれだけ衝撃を受けたのか、有力な年配のジャーナリストに聞いても確たる回答は帰ってこない。
  いまだ真の昭和史のテキストブックは書かれていないのではないか。
  侍従の日記の発表が歴史の真実の解明にどれだけ貢献するのか、今後を見守りたい。

  内田義彦 『読書と社会科学』 (岩波新書 1985年)を読む。

  読書会について述べた箇所に、「聴くことの大切さ」 に触れるところがあり、今考えていること、そのものだったので、ぐいっと魅かれた。

  聴くことはなぜ大事なのか。 こんなくだりがあった。

  「お互い、生きている間は、死んだ後になって必ず、ああこういう風に接しておけばよかったと後悔するような接し方、 つまり人として接すべきでない仕方で接しているわけですね。……死者は、死者のもつ全重量──威厳と優しさを以て、 人を人として接することの大切さを残された生者に語る。」(前掲書72ページ)

  今日、私はこのくだりを二人で一緒に読んだ。四年前に脳内出血の発作で倒れ、車椅子を使って移動する吉峯康博弁護士と。 昨年急逝された西村利郎弁護士のことを追想しながら読んだ。
  そして、西村利郎弁護士の思わぬ行動を知った。吉峯弁護士の父上が亡くなったときのこと。 国際会議から成田に帰国した西村弁護士は、空港から直接吉峯君の父上をまつる斎場に駆けつけたというのである。 外国の会議から成田に着くときというのは、疲労が極に達しているときである。
  そんなときに、後輩が肉親を失った悲しみに沿おうとする……。

  多くの人に慕われる専門家とは、そういう人格をもっている人のことなのだろう。 3月29日午後2時から日弁連講堂クレオで西村弁護士をしのぶシンポジウムが行われる。

  明日は、このシンポにむけて、国際人権委員会の初代委員長で十年間、世界各国への旅をともにしたこの先輩が言おうとしていたこと、 そこからくみ取るべきことを文章にしようと思う。





メディア・読書日記 2007.3.8

  『現代の戦争報道』 (門奈 直樹 岩波新書) を読了した。

  本書のハイライトは、9.11後のアメリカの熱狂的な愛国報道と、BBCを中心とするイギリスの比較的冷静な報道の対応であろう。

  9.11以降の報道で最も総括が必要なのは、イラク戦争の開戦をなぜ防げなかったか。 アメリカの開戦だけでなく、各国の参戦をなぜ防ぐことができなかったか、ということにあろう。
  大量破壊兵器は存在しなかった。しかも今なおアメリカの占領はつづき、宗派間のテロは毎日ふつうの人々の命を奪っている。

  そして、日本のC130は今日もクェートからバグダッドに飛ぶ。
  なぜ戦争報道はかくも批判性が脆弱なのか。
  その答は見つからなかった。

  建設的な提言をここですると、

  BBC的なものがいかに育てられ、その哲学的思想的基礎、伝統がいかなるものかを解明してほしいのである。
  さらにいうと、こうである。

  商業ジャーナリズムは、戦争によって極大化するナショナルな感情を本来乗り越えられない限界をもっているのかどうか、 という問題である。この問いをたてつつ、有名メディアの幹部、現場記者へのインタビューを掘り下げてほしいものだ。

  戦争報道よりずっと規模は小さかったが、私は松本サリン事件の記者たちの体験をほりさげることで刑事事件報道の構造に迫ろうとした。 (拙著 報道被害 第2章参照)

  戦争取材と報道という営為は人々の災厄に大規模につながることだけに、その実態の構造的検討と批判は根底的に仮借なく行われるべきであろう。
  もう一度いうと、世界の民衆もジャーナリズムも、イラク戦争をいまだやめさせることができていないのである。

  この点、本書において、アルジャジーラがBBCの伝統を受けついでいることを明らかにしている意義は大きい。 アルジャジーラは米主導の国際的情報秩序にくさびをうちこみ、中近東のイラク、イラン問題を別の角度から報道論評しているからである。

  日本の従来メディア、オルタナティブメディアの双方ともこのことを参考にすべきだと思う。




メディア・読書日記 2007.3.7 晴れ

  東京弁護士会ほか二つの弁護士会が主催する報道被害無料相談会に参加。広い部屋に電話が6台ならんでいた。 テレビが2クルー取材に来ていた。フジテレビ、テレビ朝日である。
  朝10時には、3会の弁護士が10人出席して電話をとっていた。

  2002年に日弁連で同じ一斉相談をやったが、そのときと明らかに違うのは、10時開始とともにすぐに電話が鳴ったことである。

  いままで報道被害は潜在化していた。被害が救済される展開が見えないこと、相手が巨大にすぎるからである。
  このあたりについては、拙著『報道被害』 でも書いた。今回のような取り組みが続けられていくことで、報道被害はもっと顕在化していくだろう。

  佐藤 優 『獄中記』 がいうように、万事は時なのである。潮が満ちるように、時が満ちていく。

  今日はマス・メディアによる人権侵害よりも、インターネットにおける人権侵害についての相談が多かったようだ。

  きょうから、門奈直樹 『現代の戦争報道』 (岩波新書) を読み始める。

  今日のメディアで見逃せないのは、国民投票法案の審議入りを与党が決めたことだ (朝日新聞一面トップ)。
  それに、イラク特措法、2年延長の意向が示された、との記事がある。
  C130による米軍輸送だけの機能を果たす法の延長ということである。





メディア・読書日記 2007.3.6

  今日は多彩な日程であった。

  午後1番、入管法行政のトップにあった坂中英徳氏に会う機会があった。拙著 『在日外国人』 筑摩書房 2000年を謹呈する。
  同氏著 『入管戦記』 寄贈賜る。
  一気に読む。

  第6章 「坂中論文の誕生」、興味深く読んだ。
  第8章 「在日は朝鮮系日本人への道を」 は、このまま少数民族を多数の日本人の中に埋没させてしまいかねないとの感想をもった。 国籍取得法案はどう考えるべきか、続けて検討したい。
  人口減少の中、しかるべき在留資格を認めて外国人労働力を呼ぶべきとの提言には賛意を覚えた。

  午後後半は 「あるある大事典」 と総務省の放送法改正等の動きの研究会であった。
  一般の受け取り方は、納豆ダイエットのようなことの再発を考えがちだが違う。
  放送基準違反があったときは放送局に再発防止計画を出させ、そののちは、真実に反する、国民の権利にかかわるような自主基準違反とみれば、 行政指導、介入処分を行えるというスキームが総務省のHPに出ていると聞いた。

  放送にはときの官房長官を一夜にして退任においこむ、という実績がある。
  そのような動きがあるとき行政がこれを察知し、お宅の局は何をやろうとしているのか事情を事前に聞かせてほしい、というようなことになりかねない。

  検閲 (憲法21条2項違反) か少なくとも、表現の自由の事前規制 (21条 1項違反) の疑いが濃い。
  納豆の問題でなく、政治家の問題である。
  拙著 「報道被害」 でも書いたが、放送局の経営幹部に奮起してほしいと思う。

  新聞記者の動きも鈍い。鈍すぎる。





メディア・読書日記 2007.3.3

  昨日、後輩弁護士が拙著の出版を祝う集いをやって下さったので出席しました。

  高橋シズヱさんがコサージュをご用意くださり、胸につけるとなんだか晴れがましく、申し訳なく思いました。70人の方々にご参加いただきました。

  前半のシンポジウムでは、原 寿雄氏 (元共同通信編集主幹)、桂 敬一氏 (元立正大学教授 メデイア論)、大沼和子氏 (弁護士 NHK事件弁護団)、私、 司会を坂井 眞氏 (弁護士) がつとめてくださいました。

  どの論者も報道被害をなくす展望についてそれぞれの考えを披瀝するとともに、いまのあるある大事典問題への危機感を表明しておられました。

  ここでは原さんの発言用のメモを、ご本人のご了解を得て掲載させていただきます。



「報道被害」 出版記念会シンポジューム 原メモ 2007.3.2. 法曹会館

1、 本の評価 表現の自由が権力と世論に挟撃されている中での問題提起

@ 弁護士活動の積み重ねから報道による被害の深刻な実態を明示、「報道被害」 を現代日本社会のイッシューとして提示。
  特にジャーナリズムへの啓蒙、警告としての意義。「報道被害」 が本になる時代。

  報道被害のひどさが明らかにされ強調されることは、権力的規制に利用されるが、実態に目をつぶって自らを騙して過ごせる時代ではない。

A 表現の自由から生まれた報道被害を、権力規制によらず、市民社会の自律・自治によって調整解決する具体策の模索と提案。

  日本社会は10年前に初めて第三者機関BRCを創設、非権力的な社会規制で表現の自由と社会との対立・衝突を自主的に解決する訓練に乗り出したばかりだが、 権力はメディアコントロールの意欲を加速中。

B 個人的にはジャーナリスト哲学の修正を迫られた。「誰をも喜ばせず、誰をも悲しませもせず、怒らせもしないような、 そんな記事は書きたくない」 をモット−としてきた。その信条をどう変えるべきか。

C 事前差し止めの仮処分は検閲  表現の自由VS民主主義=世論
  重大且明白で回復が著しく困難な名誉毀損が予測されるときは仮処分基準や手続きを厳格にしても、 仮処分多発の先に防衛秘密の報道仮処分の危険。
  沖縄密約の西山事件再発の時代

2、 報道被害を防ぐ道

@ 基本は真実追及の努力
  坂本弁護士事件 県警VS横浜弁護士会 松本サリン取材の浅薄さ

A 警察情報依存からの脱却
  危険性の認識 情報公開の必要 否認被疑者の報道に特別留意

B メディアスクラムからの離脱
  BBC、YTVのガイドライン

C 匿名報道の危険性
  プライバシー保護の口実で公人の悪事隠し
  被疑者 逮捕は憲法上の問題 実名原則で犯人視でない報道の努力
  公安事件が多くなる時代の匿名被疑者報道の危険性

D 一般犯罪事件報道の比重をもっと小さくする
  ワイドショーのセンセーショナリズムに煽られて 殺人事件は全中放送

E 記者個人から経営者までの人権研修強化
  出先より今やデスク―編集幹部―経営者の問題

F BPOの強化 新聞界も報道評議会の実現



  なおフロアから私の菩提寺ご住職若林隆寿師が発言され、 タイムが最近の今年の人 (person of the year) 欄で今年の人は 「YOU」 つまりあなたであるとしたことを指摘されたのには啓発されました。 これは肯定すべきことか、それともネガテイブな現象なのか、今後の問題だといわれるのです。

  拙著をご支援くださった人々、この日ご出席くださった人々、集いを準備してくださった友人弁護士にここで心から感謝を申し上げます。


  本日の読書 「論座」 今月号
  丸山真男をぶん殴りたい、反論特集

  戦争になったほうが格差がなくなっていい、という30代青年の投書へのコメント特集だ。 いろいろな識者が出ているが、僕は鎌田慧さんと斉藤貴男さんのコメントにひかれた。

  困窮をきわめる労働の現場に入っている人、差別された深刻な体験のある人の発言はどこか体臭が違う。こういう発想は古いのだろうか。 いじめられた子どもは大人をみて、この人は救ってくれるかどうかを瞬時に見分ける。 弁護士、医師は、この人は頼れる、わかってくれる、救ってくれるという雰囲気を発散できなければと思うが。

  そういう考え方は、いまどき 「熱い」 とか言われてはやらないのかもしれない。 でもそれしかないと思う。





メディア・読書日記 2007.3.1

『半分のふるさと』 イサンクム 福音館書店

  宇都宮大将の日記が発見されたことが、朝日新聞東京本社版2月29日付け朝刊にのった。韓国でも話題を呼んでいるようだ。

  3.1の日は日本人でこれを意識する人はかなり少ないようだが、韓国では重要な意味を持つ日だという。
  3.1万歳事件を記念する日だからである。

  『半分のふるさと』 には、デモに参加して官憲におわれ、緊張した雰囲気で帰宅した母の父(作者の祖父)が母の追憶によって描き出される。 3.1事件は数百万人の大衆運動への参加と大規模な棚津におわったからついマスで問題を見てしまいがちだ。 しかし、ある日帰宅して忽然と姿を消してしまった父のことを思う母の語り口から、 読者は3.1事件の記憶が韓国人々に落としている傷を、はじめて具体的な家庭内の出来事として知るのである。

  こうした精神的な傷の蓄積として3.1事件を知るとき、私たちは親しくなった韓国の人々があからさまには表現しない、 しかし心の奥底には複雑な感情がおこっていることをあらためて認識しておかねばならないだろう。

  『半分のふるさと』 は広く読まれた作品だと聞いたが、もっと読まれてほしい。

  情報のさばきかた





メディア・読書日記 2007.2.27

  『国家の罠』(佐藤 優)読みすすむ。

  権力機構の中に働く人々も、普通の感情を持って動く。
  ただ、やたらに時間がないようだ。時間のない人とつきあう交際の仕方の描写が面白い。

  何時間も待たされることを、将来の貯金と心得るなどは面白い。
  まことに、人生に無駄なことは一つもない、のだ。

  今日も、朝日は愛国心特集を続けている。





メディア・読書日記 2007.2.26-2

  午後4時から田中早苗弁護士よびかけ、山田健太教授 (マスコミ論) 講師による、関西テレビデータねつ造をきっかけとする放送法、電波法改正問題の勉強会に出た。

  原寿雄さん、桂 敬一さん、渡辺眞次、日隅一雄弁護士も出席されていた。

  改正の動きの中心は、「放送に事実と違うことがあれば、総務省が権限を以てヒアリング、呼び出し、何らかの行政処分ができるようにする」 ということだ。

  もともと狙っていたところにすっぽり、あるある大事典がはまった、ということであろう。
  ひどい放送をしているんだからしょうがない、進めてほしい、という人が少なからずいるのだろう。

  そこはそこで考えておかねばならない。だが、それを許してしまうとどうなるのか。巨悪の不正、権力犯罪などに放送が取り組むとき、 放送内容の改正に踏み込ませてしまう、ということになろう。それでよいのだろうか。
  憲法学的にいうと、内容規制ではもっとも厳格基準が必要だ、ということになる。

  さて今日2月26日、特筆すべきは、朝日新聞東京本社版の11頁、連載 「歴史と向きあう」(豊 秀一記者署名記事) である。

  「愛国心と特攻」のテーマを取り上げている。比較的読まれないページなので見過ごした読者も多いと思う。 推定するに10万人から100万人の人が読んだか。20代〜30代で何人だろう。新聞を引っぱり出して、このページの写真をじっくりとご覧いただきたい。

  これから特攻機に乗る5人の若者たちの顔が出ている。
  5人の兵士の後景にある飛行場の大地と空を画する地平に至る滑走路のひろがりに注目した。
  間違いなく、5人の若者たちはこのひろがりと、これから5人を人生最後の地に運んで行く飛行機のエンジンの音の中にいたのである。

  記事の中に、上原良司氏のことが出てくる。『聞けわだつみの声』(岩波文庫) 第一集にある手記の筆者である。
  彼は、特攻に出る前、帰郷を許された。学徒兵が聞いたSP版のレコードが自宅に残されている。
  遠くが見える山の斜面に友人と登り、松の木を背に二人は夕陽を浴びた。
  上原さんが友人の方を見た。その眼はどんな表情だったと、読者は思われるだろう。

  友人は語っている。憤った眼だった、という。あんなにおこった眼を見たことがないと……。 上原学徒兵は何に憤っていたのか、残された私たちはこれを解く責任を負っている。

  私はこのことを追いかけるテレビドキュメンタリーを見た。画面には、激しい表情の目に映ったのと同じ夕陽が映っていた。

  この5人の写真や、上原さんの内面を思うとき、いったい私たちは身命を惜しんだり、「世間」 を気にしていていいのだろうか。





メディア・読書日記 2007.2.26(月) 晴れ、寒い

  昨日から、佐藤 優 『国家の罠』 を読みはじめる。

  どういうことかぼくは、昔から獄中という空間で人がどう生きるのか、につよい関心を持っている。
  前から、獄中記、獄中書簡、獄中文学をよく読んできた方であろう。

  それから、この本を読んで思うのは、佐藤優という書き手の人間への関心である。自分が好きでないタイプの人間、 自分とは違う価値を選んで生きている人、感覚が違う人への関心を心の中から切り捨てないことである。

  ヘーゲルの思考方法、「存在するものは合理的であり、理性的である」という哲学的方法からきているのだろう。

  ぼくには人づきあいの上で不得意なことだが、法律の論理の研究や、思考の方法としては共通点がある。
  この数年、日本がどのような方向にすすんで行くのか、行くべきかを考察するときにも、人間という存在を、よく洞察すること、 好きか嫌いかという前に、それ自体としてみること、そして、それを一つの美しさを持った全体として組み上げていくことを志すべきなのであろう。

  『国家の罠』 を、そういう人間組織、派閥の観察の一コマ、一コマとして読んでみようかと思う。少なくとも、そういう水準を備えた本であることは、間違いなさそうだ。

  たとえば、次のような描写。
  「一瞬、私と眼があった。田中 (真紀子) 女史はほほえんでいたが、眼は笑っていなかった。爬虫類のような眼をしていた。」(『国家の罠』 p.77)
  「あるときロシア絡みの機微な話があり、私は十全ビルに赴いたが、廊下で某外務省幹部とすれ違った。 私はそれほど親しくない幹部であるがお互いに面識はある。私は会釈をしたのに、この人物は眼をそらした。」(前掲書 p.80)


  在留資格の件で、品川の入管に行く。
  ユダヤ系の小さな二歳位の男の子と眼があった。白い肌で、小さな帽子をのせ、黒眼が丸く涼やかだった。 小さな子ども、小さな犬との眼による会話には向いているようだ。何回も眼が合うたび、笑っていたし、だんだんはしゃいでいくのだった。

  外国人の当事者と一緒に担当の係官と会う。ぼくの経験としては珍しく、威圧的なものを感じさせない、柔和な表情の人であった。言葉もていねいである。
  初め難しかった延長の問題も、少し粘るうち解決した。

  うれしそうな表情の当事者に、学生時代に覚えた中国語の歌を唄うと、喜んでくれた。





メデイア・読書日記 2007.2.25

  内田義彦 『作品としての社会科学』 岩波書店 初版 1981年、に概念について重要なことがあったと思いつつ書架から引き出す。 

  「スミス (アダムスミス 国富論の著者) にしてもマルクスにしても、彼らは新しい社会のための処方箋を専門家に提供したのではない。 かれらは、その制作物が、思想の作品として、直接一般読者にとどき一人ひとりの中でコペルニクス的転換がおこることを念願として書いた。」(46ページ)

  内田義彦教授は、こういったあと大転換の時代に転換の主軸としての役割を果たしえたのは、 読者に社会の主体として自覚する産婆の役割を経済学批判が果たしえたためであると述べている。

  まことに真の理論とはそういうものなのであろう。
  9.11ニューヨーク事件以来、世界は明らかに違う時代に入った。それはどういう構造をしていて、どこに向かうのか、 誰かが読者にそれを思考させる思想を発信していると信じたい。

  別の箇所にはこういうことも指摘されている。「何か一事において現代にコミットしながら、なぜという意識をもって専門語の意味を問い続けていると、 (中略) なるほどこういうことのためにマルクスは、あるいはウエーバーはこういうややこしい概念装置をつくっていたのであったな、 この概念装置がなければ私は永久にこのものを見届けることができなかったであろうという、貴重な経験にぶつかるはずであります。(53ページ)」

  難しい言葉に出会ったとき、それをただやみくもに覚えこもうとするのでなく、なぜこの言葉でなければならなかったのか、 ああそうだったのか、というあの経験である。


  澤藤統一郎の 『日の丸、君が代を強制してはならない』 岩波ブックレットを読む。

  教師に君が代斉唱の起立を強制する、伴奏を強制することが思想良心の自由を侵害しないとする東京都教育委員会の論法をみごとにうちやぶって、 勝訴判決を獲得した弁護団有力メンバーである。

  何事もはじめるエネルギーが大変なのだが、彼が若手弁護士によびかけて大変のな努力の末にこにいたったのだという。 このことがよくわかる気合のはいった文章であった。ハンセン病患者事件でアピールを出したという大分の徳田弁護士を思い起こす。
  原告ら教師の個人史と育った時代の歴史は次に書かれるべきものなのだろう。
  それにしてもこういう痛苦と闘いを強いるもとにいるのは石原都知事であり、 しかもその知事を多数の都民が選挙しているというこの時代をどうみて生きてい行くべきなのか。

  筆者は私と研修所同期の友人である。
  前に盛岡に在住され、私たち家族は寒い季節にご自宅を訪問したことがあった。宮沢賢治の詩や啄木の歌をそらんずる芸術家でもある。
 
憲法日記を記す。

  彼は前衛を走れ。私は後衛をつとめようと思っている。




メデイア・読書日記 2007.2.24

  毎日新聞の記者が取材で録音したIC録音のデータを第三者に預けたところ、その内容がブログに掲載されたことから問題になったという記事が本日の朝刊に載った。 まだ朝日新聞社会面の記事しか見ていないが、いくつか問題がひそむと思う。

  問題点に入る前に物語を整理しておこう。
  毎日新聞は06年 1月、外資による南青山の土地取引に関する記事を載せた。 この土地の取引状況を国会で糸川正晃議員が質問した、ところがこの質問に関連して再度質問しないように脅迫を受けた。 毎日の記者はこの脅迫の状況につき、糸川議員に取材をし、この際にIC録音をしたがこのデータを取材協力者に預けたところそれがブログに載ったというのである。

  第 1の問題は、これで取材批判がまた強まり、メデイア不信が増加するであろうということである。
  データが取材関係者以外の第三者にわたるという問題は、それ自体弁解の余地のない不祥事なのだが、 この前例が政治家への記者のアクセスの際に規制要因として使われないか。

  第2は この事件のもともとにはアメリカのファンドがからんでいること、取材者も含めた関係者への暴力的な脅迫、新聞によれば、 06年5月29日実弾と脅迫状が議員と記者に送られたことが見過ごされてはならない。
  取材の不祥事の影に事件の本筋が見過ごされがちなことに注意が必要である。

  第3に、ファンドとブラックの筋の関係を昨年 1月毎日新聞が書いたところ、アメリカのフアンドから巨額の賠償請求 (1億ドル以上すなわち100億円以上) をおこされた事件に関連しておきていることである (朝日新聞の記事からこのことを連想する人は稀少なはずである)。この訴訟は昨年12月、和解で解決したという。

  以上のことから読者が読み取るべきことは何か。アメリカのファンドによる土地買い付けについて暴力的な筋の介入が入っていること、 新聞が報道するや巨額賠償がおこされたこと、今度もまた記事のデータもれの故に真の情報が開示されにくくなっているということである。

  今日の読書

  丸山 重威 著 『新聞は憲法をすてていいのか』  新日本出版社 2006年を読む。
  共同通信社会部記者を経験した、いま関東学院大法学部教授の著である。
  改憲容認意見が増加していることと、メデイアの姿勢の因果関係を問題としている。
  興味深いのは全国紙の動向に比較して北海道新聞、中日新聞などブロック紙、岩手日報、新潟日報、信濃毎日新聞、琉球日報、 沖縄タイムスなど県紙が、9条を中心に改正反対の論陣をはっていることを具体的データをもとに書いていることである。
  共同通信で記者人生をすごしてきた筆者の一番得意な紹介ということになろう。

  この書からヒントを受けたことで、今後究明を要することがあるので書いておく。
  それは共同通信系とされる日本世論調査会の改憲に関する世論調査のことである。
  本書123ページによると、同会の2005年 1月 1日付の世論調査で改憲容認世論が79パーセントに達したというのである。 丸山はこの調査結果につきそのまま受け取ることにつき疑問符をつけ、朝日新聞、 毎日新聞等の調査結果では改憲支持世論が50パーセント台にとどまっていることを紹介しているのだが、79パーセントという数字は不気味である。

  今後、同会による質問項目の設定等を調べてみたい。
  このページの読者は調査結果を待たれたい。




読書日記 2007.2.22

  イギリスのブレア首相がバスラに駐留中の英軍を1500人減員させると議会で表明した。
  20000人のイラク駐留軍を増派するとしたブッシュとの違いは明白である。アメリカの政局への影響 は避けられないという。

  イギリスは、イラクの武装抵抗勢力と戦争状態にあった。ロンドン市内で起こったテロと呼ばれる行為は、 無差別爆撃にたとえられよう。これによるえん戦気分が、ブレアの決断を引き出したのである。

  C130大型輸送機により、自衛隊はクェートから武装米兵を運び続けている。この関与についてメディ アの言及はない。

  このまま戦争関与を続けるなら、日本も参戦国としてイギリスと同じ眼にあわされないか。

  佐藤 優『獄中記』、読み終えた。
  この一週間、作者と、論理、哲学、思想にわたる談話を楽しんだ日々だったと思う。





読書日記 2007.2.21

  ディック・チェイニー米副大統領が横須賀基地、空母 「キティホーク」 艦上で演説した。日米同盟は “最良である” という。 そして、イラクから今撤退すれば敵はまた攻めてくるから任務を終了せずに撤退はしないのだ、という。
  この後、会見した麻生外相、安倍首相も日米同盟堅持を表明したという。
  米兵たちがこのスピーチに拍手を送っていたが、心からの喝采なのであろうか。

  昼2時〜3時、東京三弁護士会で報道被害相談のための講演をさせていただく。( 1〜2時は、久保健太郎弁護士がネットによる人権侵害のための講演であった)。 50名もの弁護士が参加し、熱気にあふれた雰囲気であった。飯田正剛弁護士のリーダーシップの故か。

  田舎弁護士の称号をかかげる千田 實弁護士の 『憲法の心』 を一日で読了。ノンポリと称し、仕事一途、弁護士一途の弁護士があらわした憲法本。
  その情熱に、うたれる。
  憲法改正に限界があり、のうんちくに耳傾けた。20〜30代の人たちが、この本をどう読むのだろうか。感想を聞きたい。

  引き続き、佐藤優『獄中記』を読む。
  ナショナリズムに関する指摘が鋭い。もしかすると、改憲論争は煽られたナショナリズムにやられるのだろうし、逆に、この煽りに負けない心情こそ、大切なのであろう。

  抵抗の神学者ボーンヘッファーの思考が、ものごとを底からひっくり返して考える思考に興味を引かれた。 ボーンヘッファーは、究極的な存在よりも、それに至る存在を重視したという。
  神という存在よりも、今ここにいる人への愛、を究極なものとみた。ボーンヘッファーの伝記なども読んでみたいのだが、 こういう思考にはきっと具体的な経験があったのであろう。





読書日記 2007.2.20

  安部内閣への不支持が支持を始めて上回ったという記事を朝電車の中で読む。 だが不支持の理由に北朝鮮への弱腰が上げられているのをみて、この動向はあまり安心できないと思った。

  纐纈 厚著 『いまに問う憲法九条と日本の臨戦体制』 を読む。

  日本と韓国の米軍再編が日本に持つ影響をよく分析している。 自衛隊の中央即応集団が米軍の作戦運用司令部のもとにキャンプ座間におかれ、 米軍の一部隊として組み込まれるなどの話 (32ページ) は興味深い。

  9条改正で自衛軍がアメリカにとっていかに使いやすくなるのか、に焦点をあてて、知識を蓄積してゆくことが必要と思う。 これが20代30代の改憲賛成の気分の人々と対話する上で大事なことと思うからだ。

  引き続き 『獄中記』。

  自分の力で友の窮地を救えないことがわかっているとき、本当の勇気とは怖くてもみとどけることだと思う (384ページ) との記述に同感する。 キリストの処刑をみとどけた女性たちのことが出てくるところの言葉だ。





読書日記 2007.2.19

  肢体不自由の人々をサポートしてきた女性に会った。
  未熟児として出産し、下半身に不自由をかかえたり、小児マヒにより同じ障害をくぐっている子どもたちを水中訓練で発達させ、 歩けない子を歩けるようにしてきた、という。
  スウェーデンでのヴィデオと英語を用いたプレゼンテーションは、南アフリカにも飛び火したという。
  地方都市でも講座をつくり、インストラクターがひろがっているのだという。

  『病院で死ぬということ』(文春文庫) 山崎章郎の地域医療実践に驚かされたが、ここにもこんな人がいたのか、という思いであった。 このような国に希望がないとは思えない。

  今日は、岩波ブックセンターの店頭で纐纈 厚(こうけつ あつし) (山口大学教授) の 『いまに問う憲法九条と日本の臨戦態勢』(凱風社) という書を買った。講演録でザックリとした論理だが、 かえってポイントがわかった。
  九条を変えると、どれだけアメリカにとって使い勝手のよい日本軍ができるか、ということだ。
  そうなると、20代、30代の人たちが過ごす日本はどういう社会になるのか、ということが、明らかにされるべきなのであろう。

  佐藤勝 『獄中記』 引き続き読む。
  敵を愛する、という思考が展開された箇所 (366ページ) は深い。松本サリン事件の河野さんが、「私は妻と私がこういう目にあったからといって誰もうらまない。 うらむことは無駄なエネルギーを使う。人生の時間は限られている。 貴重な時間とエネルギーを大切なことに使いたいから私は誰もうらまないのだ」、という言葉を思い出した。




読書日記 2007.2.18-2

  本日憲法報道に関する議論をジャーナリストの人たちとしたので、いっそう憲法改正に関する本格的な書を読みたくなり、共同通信からの帰途、東京堂書店に寄った。
  書店にはいる前、すずらんどおり向かいの紅茶専門喫茶店テイーハウスによると、 店主の高野さんが一心にカウンターの中で食器洗いや整頓の仕事に打ち込んでいた。店内は女性客でいっぱいだった。

  こちらによるといつもご主人の仕事への姿勢を学ばされる。アッサムテイーとツナサンドを頼む。いつもながらおいしい。 神保町で古本、新刊の書籍を購める人の必須の寄り道場所といってよい。

  東京堂書店では、雑誌世界制作 井上ひさし、樋口陽一編 「憲法論文選」 を買う。中からいくつか読んだが、ここでは二つにふれる。

  南原繁のものと池明観 (チミョンガン) のものだ。前者は元東大総長 (故人) であり、後者は岩波新書 『韓国からの通信』 1ないし4の書き手である。 当時この新書はTK生とされており、軍事政権下の民衆の叫びを伝える地下通信として魂を揺さぶった。 後にこの人が作者であると発表されたその人である。今韓国に在住されている。

  南原東大総長の文章に関心を持ったのは、作家立花隆氏が月刊現代昨年10月号に載せた安部晋三改憲政権への宣戦布告という、 やや激しいひびきのタイトルの文章の記憶があったためである。
  憲法論文選に引用された南原論文は、やはり期待に反しないものであった。

  「この人類滅亡の淵の前に、平和の石垣を築きその破れ口にたって全人類を滅亡より防ぐものは誰か。 それこそ一切の武器を捨て、戦争を否定し、平和を彼岸とした、わが新日本国民自身ではないのか。 所詮われわれは今次大戦にまさる爆弾のもと火焔の中をくぐる覚悟をしなければならぬであろう。」

  という調子の闘志に満ちた文章であった。
  新発売の岩波文庫に 「形相」 という名の歌集が出されており、こちらも読みたくなったがのめりこみそうなので買うのはやめた。

  次は池明観氏の 「日本の右傾化と日韓関係」 というタイトルのものである。
NHK番組改変事件の判決 (東京高裁07年2月29日) の評価の糸口を得ることのできた文章であった。
  池 (チ) 氏は、ハンナアーレントの著作 (全体主義の起源 みすず書房) をひいてモブ (mobー暴徒) と社会全体のファッショ化の関連を説く。

  日本でいうと右翼団体と政治エリート、知的エリートの関係である。

  「──このように考えてみれば、今日の日本の右傾化について思い当たる節が少なくないのではなかろうか。 「新しい教科書をつくる会」 の声は、最初は 「あらゆる階級的脱落者」 すなわち日本の正常な社会領域では受け入れられない者たちのあまり問題にならない憤懣の声と考えられていたかもしれない。 中略 しかしそれが資本と結び、政治勢力となって無視できないものとなっただけでなく衰退期に入った政治勢力がそれにたよるようにまでなってくるのである。 このような道筋はかって (の) 戦前の日本の右傾化と今日の右傾化においてほとんどかわらないものといわねばならない。(世界憲法論集 413ページ)」

  ある概念を獲得するとそれですうっと何かが可視的になるということがあるものである。 これを私は内田義彦先生の 「作品としての社会科学」(岩波書店) から学んだのだが、池明観氏の論稿は目の前をすっと明るくしてくれるものであった。

  NHK事件判決の意義、とくに放送局の幹部らが官邸の副官房長室で安部副官房長官と会い、政治家の従軍慰安婦問題についての持論を聞き、 公正中立の立場で放送すべきとの指摘を聞いてから後、番組がぼろぼろと崩壊してゆくさまを詳細に認定したくだりの評価のうえでこの指摘を生かせると思った。

  まことに読書はありがたいものであり、賢人の智慧は頼るに値するものである。




読書日記 2007.2.18

  司法試験受験時代の基本書を読む。


  宮沢俊義 『憲法K』 である。樋口教授がよく引用されるので周知のことかもしれないが、私にとっては、また私の年代の法律家にとってはこの教科書はなじみが深い。

  さてこの基本書に有名な伊藤博文、森有礼の論争が紹介されている。

   引用開始

  一八八八年(明治二一年)六月二二日、枢密院で明治憲法草案 (いわゆる諮絢案) の第一審会議第二読会において、第二章 「臣民権利義務」 の審議に入るや、 森有礼から、次のような意見がのべられた。
  「本章の臣民権利義務を改めて臣民の分際と修正せん。今其理由を略述すれば、権利義務なる字は、法律に於ては記載すべきものなれども、 憲法には之を記載すること頗る穏当ならざるが如し。何となれば、臣民とは英語にて『サブゼクト』と云うものにして、天皇に対するの語なり。 臣民は天皇に対しては独り分限を有し、責任を有するものにして、権利にあらざるなり。故に憲法の如き重大なる法典には、 只人民の天皇に対する分際を書くのみにて足るものにして、其他の事を記載するの要用なし」。
井上毅がこれに対して「分際」とは英語で何という言葉に当るかと質問したのに対し、森は次のように答えた。
  「分際とは 『レスボンシビリテー』、即ち責任なり。分際の際の字に嫌ひあれば、分のみにて可なり」。
議長伊藤博文は、これに対して、次のように反対した。
  「森氏の説は憲法学及国法学に退去を命じたるの説と云うべし。抑憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。 故に若し憲法に於て臣民の権理を列記せず、只責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし。又如何なる国と雖も、臣民の権理を保護せず、 又君主権を制限せざるときには、臣民には無限の責任あり、問題をもどすと、憲法改正という問題の中に、「歴史との緊張に満ちた対話」 (渓内謙 現代史を学ぶ 岩波新書) から発見されるひらめきに満ちた論点を発見するためである。 君主には無限の権力あり。是れ之を称して君主専制国と云う。故に君主権を制限し、又臣民は如何なる義務を有し、如何なる権理を有す、と憲法に列記して、 始て憲法の骨子備はるものなり。
  「又分の字は支那、日本に於て頻に唱える所なれども、本章にある憲法上の事件に相当する文字にあらざるなり。何となれば、 臣民の分として兵役に就き租税を納むるとは云い得べきも、臣民の分として財産を有し言論集会の自由を有すとは云い難し。一は義務にして一は権理なり。 是れ即ち権理と義務とを分別する所以なり。且つ維新以来今日に至るまで、本邦の法律は皆な臣民の権理義務に関係を有し、 現に政府は之に依て以て政治を施行したるにあらずや。然るに今全く之に反したる政治を施行する事は如何なる意なるか。 森氏の修正説は憲法に反対する説と云うべきなり。蓋し憲法より権理義務を除くときには、憲法は人民の保護者たる事能はざるなり」。
これに対して、森は、さらに
  「西洋各国に於ては、其歴史上の沿革に依り、国家と帝王との思想及区別は分明なるが故に、臣民は帝王に対し若干の権理を有し、 又国家に対し若干の権理を有すと云うこと明瞭なり。然るに本邦と西洋とは大に異なる所ありて、日本の臣民は天皇に対し権理義務を有すと云う語は、 語をなさざるのみならず、又之を有すべきものにあらざるなり。故に憲法には、只、第一章天皇、第二章臣民とのみ書て、 権利義務と云うが如き文字を用いざること必要なり」。
と弁明したが、伊藤は、依然として、これに反対して、次のようにのべた。
  「独乙憲法には独逸人の権理のみを記して責任を記せず。此憲法に権利と記するときには、臣民は天皇に対し権理を有すと云う説あれども、是れ然らず。 只臣民は此憲法の効力に依り法律に対し法律の範囲内に於て権理を有するものなり。又天然の権理論あれども、是れは 『ルーソー』 等が天然の自由権を預けて政府を立つるものなりと云う説より生ずるものにして、愛に弁論するの必要なし。 只此章の要件は臣民に民権と政権とを与える事を示すにあり」。

   引用終了

  こういうエピソードを持ち出したのは、自民党の憲法草案がこの水準に至らぬものだということを言いたいためではない。 そうではなく、明治という時代をコンテンポラリー (いま生きる時代という原義) にひきつけるためである。
  言い換えると、明治を遠い遠い時代と考えるのでなく、人民に土地の所有権が認められた封建時代と区別される近代の黎明ととらえるためである。 (ジョンロックの政府二論(岩波文庫)は所有権の成り立ちに力をいれていた。)

  明治憲法はたしかに神権天皇制という構造をもっていた。時代をそういう側面からだけ単純化してしまいがちだが、 同時に、封建領主の所有権から人民の所有権を認める時代に入ったという、画期という面を見逃してはならないだろう。

  なぜ伊藤博文らが欧米の憲法を研究してとりあえずは憲法、立憲主義というものを掲げざるを得なかったかという時代の構造の究明こそ大事だと思うのである。
  いいかえると、秩父事件、竹橋事件、西南の役、などという民衆の側からの下からのつきあげ、中江兆民などの立憲運動の反映という面を見逃せないであろう。 この辺を牧原憲夫の民権と憲法 (岩波新書) などは、どうとらえているのか。

  この土地は俺の土地だ、だから登記せよ、などというのは当たり前すぎていま私たちは問題にしないが、状況を疑ってもう一度なぜ、 どういう風にして人々の権利は保障されるにいたったのか、という作業が必要なのではないかと思う。




読書日記 2007.2.17-2

  共同通信社から帰宅したその夜にこれを記している。

  テーマのひとつは憲法改正問題報道であった。
  詳しいことをここで書くのはマナーに反すると思うので避け、少しメデイア一般というところにずらして表現するがこういうことではないか。
  つまり改正賛成が世論調査でこれだけ多数になり、いわんや国民投票法案にいたっては与党と民主のすりあわせで、もうどうにもならない。
  これってニュース性がないんじゃないか、というあきらめムードがメディアにはあるのではないか。

  しかしである。   世論調査で改正すべきという人たちはどれだけアメリカの狙いと期待を知っているのだろうか。インフォームドされていないのでないか。
  憲法改正とは、明治憲法制定、日本国憲法公布、施行に続く一大事のはずだ。その手続きがどうあるべきかはこれまた歴史的出来事であるはずだ。
  熟慮期間ひとつとってみても、60日などとんでもないし、1年 (愛敬教授説)、2年 (長谷部教授説) でも短い。
  投票年齢も説が分かれる。
  国会の議論は詳しく伝えてほしいものだ。

  ひきつづき佐藤優 「獄中記」 を読む。
  富者を富ませて経済全体をひっぱる機関車にするという小泉竹中の経済改革路線のキーワード化がわかりやすい。(319ページ)



読書日記 2007.2.17

  今日はこれから共同通信報道と読者委員会に出かける。
  テーマは憲法改正報道だ。いろいろ準備はあるがそれは紙面化してからご覧いただこう。

  あわただしい時間の中であるが、佐藤優 獄中記との精神的交流のことを記しておきたい。

  カールバルトの自伝から引用したくだり (獄中記 249ページ)に目を引かれた。
  「私が年をとればとるほど、次のような洞察が私にとってますます確固たるものとなっている。それは、物事は早晩公正に照らし出されるのが常であるがゆえに、 もしこのような試練においてよい良心をもっているならば、あまり躍起になって自己を弁護したり正当化しないほうが懸命だし、 そういうことを一切しないならもっと懸命だということである。」(バルト自伝 新教出版社 102ページ)

  よくひかれる 「他の者をして言うにまかせよ。汝は汝の道を進め。」 を思い出させる智慧だ。賢人は同じことを考えるものか。

  佐藤氏は人生最大の困難を逆手にとっている。
  獄中の食事の描写、コーヒーを飲む場面などあたかもお気に入りのカフェで新聞でも読んでいるような雰囲気だ。
  読書の蓄積の力による逆手か。




読書日記 2007.2.16

  佐藤優 獄中記
  引き続き読む。

  仮監 (裁判所につれてこられた未決囚が待機する場所──東京地裁では地下にある。) 未決の人たちが苦しむ様子に初めて気づく。

  あの臭さ、居心地の悪さは無罪推定の建前に明らかに反する。

  裁判員制度を喧伝するならあそこを喫茶店のように居住性をあげるべきだと改めて思う。



読書日記 2007.2.15

  読書とは違うが、東京高裁NHK番組改編事件の高裁判決を時間をかけて読む。

  膨大な量の判決文であり、しかも大切なところをくまなく詳細に認定した判決である。

  バウネットに集まった多くの支援者、ボランティアの努力の所産であり、これをもたらした弁護団の皆さんに心からの敬意を表明したい。

  飯田、大沼、中村、緑川、日隅各弁護士。

  よくやった、と喝采を送りたい。ご苦労様でした。犠牲は払ったと思うが皆様の人生の途上に必ず子のよき報いは返ってくると信じます。



読書日記 2007.2.13

  牧原憲夫 民権と憲法 (岩波新書 2006年) を読了してあったが、もう一度再読してみて、きちんと頭に入っていないことがわかる。

  明治日本のとらえかたが面白い。自由民権運動と民衆の生活、運動を一極化せずこの二つを独立した極とし、国家権力ともうひとつの極としてとらえる。
  次のことばは記憶に残すべきと思った。
  「人は経験から学ぶことができる。そして現在のわれわれもまた、国民国家と競争社会のなかで、欲望喚起の仕掛けにとらわれながら生きている。 とすれば、この枠組みの形成期を生きた人々の歴史的経験は、たんなる過去の物語でも他人事でもないはずである。(同書206ページ)」

  こういうひらめきを本の中から発見して咀嚼し、思考のための財産としてゆくのもきっと読書の楽しみのひとつなのだろう。

  いま私は日本の民衆の、立憲主義の形成と獲得というテーマに関心があるのだが、この書にはその回答はあるのだろうか。



読書日記 2007.2.11

  数日前から佐藤優の獄中記 (岩波書店) を読む。学識、閉ざされた空間で生まれる緊迫した思考に読書の楽しみを覚える。

  ラテン語、古代ギリシャ語、ギリシャ語、英語、ドイツ語、チェコ語など獄中の語学独習の熱意に驚かされる。 大杉栄の言葉に 「一犯一語」 ということばがあることを思い出す。 つまり、こういうことなのではないか。

  人生では必ず窮境というべきことに遭遇する。しかし人生には無駄なことは何もないということを念ずるなら、 その困難は、次の跳躍の準備でもあるかもしれないということなのだ。

  それに毎日のコーヒーを飲みながら考え事をする瞬間の、至福の瞬間の表現の魅力。食事の描写も面白い。 あるページにこれだけおいしい食事の影には炊事当番の囚人の努力があるのだろうという表現があるが、これはユーモアや皮肉ではなく、実感なのだろうと受け取った。

  まだ途中だが読み終わったら感想と学んだことをまとめてみよう。



読書日記 2007.2.7

  朝日新書 「これが憲法だ」 長谷部恭男 杉田敦 対談 読了


  立憲主義とは何か、という問いをたて、従来の多数派の暴走をおさえる (伊藤真) 権力への究極の制約、 という概念への疑いをたてる長谷部の論と杉田の政治学者としての見解が絡んで議論を展開させるが、 いまひとつしっくりこない。時間があるとき再読してそれはなぜか、をまとめよう。

  頭脳明晰というだけでは、この難問は解けないのではないか。

  普通の母親が米商人の腰にくらいついて、その米を搬出するなという闘いが澎湃としてもりあがった米騒動のように憲法運動がならねばだめだ。 それがまったく普通の人々の話題にのぼるような、下からの理論、人々の肺腑を捕まえて離さないような理論。 それが人々の心をつかまえるときは物質的な力になる、というような理論をあみだせ。 歴史認識と体験と人々への取材の中からそれを創造しなければ憲法問題は勝てない、または真の勝利になりうる──よき敗北ができない、と思った。



読書日記 2007.2.1

  『科学論入門』 岩波新書 佐々木力を読了


  渓内謙 現代史を学ぶ (岩波新書) のあとがきにこの著者の名前がでていたところある日書店に行きこの本を発見。すでに10刷をこえているのを知った。

  自然科学系の学者が、科学史を専攻していれば当然とはいえ、哲学、人文科学に通暁しているのに驚く。

  自然科学の発達が逆に人類の絶滅をまねく (核兵器、核開発) というパラドックスをギリシャ以来の思考に照らして総括しているといってよい本とみた。 看護学の講座の再録というだけあってナイチンゲールの次の言葉が生きる。自らの生き方の再構築のためにかみ締めなければと思う。

  「全国看護協会の目的は、在宅の貧しい病人にこれまで経験したことのない第 1級の看護を贈ることである」 (ナイチンゲール 貧しい病人のための訓練を受けた看護について)



読書日記 2007.1.29

 斉藤孝 『教育力』 岩波新書 2007年を読む。


  ベストセラー作家のものは読む気がしない、よってこの本はいいか、という読書家は少なくないと思う。

  私もそういう一人なのだがこの本は違った。

  拙著の隣にそれもうずたかくつまれていたので、手にとって見た。

  すると吉田松陰の事が出てきた。

  「吉田松陰の内側にもえる情熱は激しい。しかし生徒たちへの接し方は穏やかでやさしかった、という。
  人に親切で誰にでもあっさりとして、丁寧な言葉遣いの人であった。吉田松陰の松下村塾は出入り自由な条件の下での熱い友情の場であった。」(同書8ページ)

  そして教育力のスタートは学び続ける教師の学びへのあこがれに生徒はあおこがれてついてゆくといった話が出てくる。

  こんな話も面白い。小学生の空手の訓練が終わるときその日にやったこと、次にやる課題を書いてもらう。そうすると次の課題がみえるというのだ。(191ページ)

  いつも私 (梓澤) は考えながら講義案をつくり、教室にのぞむ。スポーツのコーチ、バイオリニスト 後藤みどりさんの先生のデイレイ先生、 スケートの清水選手の父親、幼少のピカソを教えた父親などといったように輝く才能を育てる栄光をになった教師たちの役割とは何なのだろう。

  そうだ。忘れられる存在である。忘れられるほど目立たず、報酬は何もないのだが、じつは確実に人々に喜びを届けることに貢献しているそんな存在が教師だ。

  いま私はこれを書きながら、バイオリンのレーピン、ピアノのキーシンがまだ体つきも表情も幼い少年だったころ、 演奏会の客席にすわって演奏のあと喝采をうけていたレッスンの教師たちの質素な雰囲気と微笑を思い起こしている。