今、コミットしている現場から  梓澤和幸


「石に泳ぐ魚」事件・勝訴 (9月24日)

  9月24日、小説の差し止めについて裁判史上初めての最高裁判決が下された。小説の内容が極めて厳しいプライバシー侵害を持っているところから、このような結論になった。論評によっては一般論的に表現の自由の危機などどするものがある。そこでわたくしも加わった当日発表の弁護団声明をお知らせしたい。あわせてご本人の公表されたコメントも掲載する。

〈弁護団声明〉
  最高裁判所第三小法廷は、本日、小説 「石に泳ぐ魚」 の作者柳美里氏とその出版をした新潮社らの上告を棄却する判決を言い渡した。
  判決は、表現の自由と小説のモデルとされた人物の人格的尊厳に関わる重大な憲法問題について画期となる重要な判断を下した。
  次の3つの点に最高裁判所の新しい判断が示された。

1 表現の自由との権衡を配慮した上で、一定の厳格な要件の下に、名誉毀損の場合に限らず、プライバシーを含む人格権侵害の場合に出版などの差止めを認めたこと。
2 その出版物が虚構 (フィクション) の文学作品であるとしても、作中人物の描かれ方が現実の世界に生きるそのモデルの権利を侵害し、その人物の人間の尊厳を損なう事態を引き起こすなど限定された要件を満たす本件のような場合には、文学作品であっても出版などの差止めが認められること。

3 公的立場にない人の公共の利害にかかわらない事項については、このような差止めを要求できるとしたこと。

  裁判所は、上告理由書提出以来、1年5ヶ月という比較的短期間に、このような重要な判断に到達したが、このことはとりもなおさず本件小説が原告女性 (被上告人本人) の人間としての尊厳を深く傷つけたことの明白さを物語っているものと考える。
  第一審判決と控訴審判決が報じられた時には、裁判所が不当に文学表現の世界に踏み込み、とりわけ私小説の書き手の方々に厳しすぎる譲歩を強いたかのような論評が一部でなされた。私たちも表現の自由、文学表現の自由の重要性の認識において人後に落ちるものではないが、このような論評が誤解に基づくものであることも、今回の最高裁判決は明らかにしている。
  裁判所は、法の力を以て不当に文学表現の世界に踏み込んだものではない。裁判所は、本件小説のような描き方をし、それがモデルのプライバシー等にかかわるときは、そのような表現が現実の世界に生きる人間の尊厳に深刻な影響を与えることを明らかにした。その上で、作者側にこのような事態を回避するため、作中人物がモデルから自立した別の人格と理解されるだけの誠実な努力をなすべきことを求めたのである。本件小説でそのような努力が全く放棄されていることは余りにも明らかである。その意味では、本件小説が私小説一般の衰退を招くかのような批判は、全く当を得ない。
  本判決が大法廷にも回付されず、比較的短期間のうちに全員一致で下されたことは、このような考え方が憲法解釈上一つの安定した判断として定着しつつあることを示していると考える。
  原告女性はこの小説によって 「自らの人格の尊厳をすべて否定され、精神的な死を宣告されたような体験を味わった」 と述べた。
  原告女性の闘いは、8年有余の年月を経由したが、本日の判決が原告女性の深い心の傷を回復する日々の出発点となることを願ってやまない。
  公私にわたり彼女の苦難に満ちた日々と闘いを支えて下さった方々に、心からの感謝を捧げたい。
    2002年9月24日

「石に泳ぐ魚」事件被上告人(原告)弁護団
弁護士  木村晋介
同   梓澤和幸
同   飯田正剛
同   坂井  眞
同   佃  克彦


〈原告コメント〉
  八年間という長い闘いの歳月を経て下されたこの判決を受け、私は長い悪夢にうなされて目覚めた朝のように、静かな疲労の境地にあります。今日にしてようやく再び自分自身の人生の歩みを進める時がきたというのが、今回の最高裁判決をいただいての心境です。
  かつては親しい友人と思い交際していた柳美里氏は、障害をもつ私のプライバシーや人権についてはまったく考慮せぬまま、小説 『石に泳ぐ魚』 を執筆・公表してしまいました。私がこの訴訟を起こす決心をしたのは、人の尊厳を踏みにじるようなその行為に対して闘いたかったからです。
  この勝訴の判決は、私のこれまでの苦痛を完全に癒しうるものではありませんが、私にあらためて生きることの希望と勇気を与えてくれるもののように感じます。今後の日々を大切に生きてゆきたいと思います。
  最後に、これまでの長い闘いの日々を支えてくださった方々に心から感謝いたします。

2002年9月24日
最高裁判決の日に
被上告人(原告)