NPJ 福島へ ──その2── 原発難民 その数71,000人 郡山ビッグパレットは原発避難の人たちが、いまも800名集団避難生活を送っている場所である。 5月5日こどもの日にここを訪れた。 プロレス団体の 「がんばれ!! 東北」 プロレスの一団がボランテイアとして慰問の訪問をしていた。 建物外部の空間に特設リングを設け、1時間以上いくつかの試合をやる。かなり多くの人だかりがしていた。 コンクリートの床にはブルーシートが張られて、座ってみている人もいる。立ったまま見ている人もいた。 びっしりと埋め尽くされているという感じだ。 リングの進行は白熱していた。相手の選手をさかさに抱え上げたかと思うとリングにたたきつける。その背中が真っ赤になっている。 リングに体を預けたかと思うとまっすぐ体がぶつかり合って倒れる。おさえつけられてワンツースリーとレフリーが床をたたくと負けになるのだが、 きたない技を使われおさえつけられた選手が下から勢いよく体を跳ね上げると、ワーッと拍手が起こり歓声があがった。 ある方向にむかって怒りが爆発するようなそういう声援だった。あの瞬間その場に流れた熱気がいま胸をゆさぶる。 試合が終わり東北出身の選手があいさつしている後ろ姿が見えた。 小柄だが鍛えた背中がこんもり盛り上がっている。 「あと2ねえん。3ねえんしたらもっと大きくなってみなさんの前にもう一度現れます。」 そこに人々の思いが重なるのだろう、また一段と強い拍手がおこった。 建物の一角に町ごと村ごとの義捐金窓口があった。 日赤の義捐金がまだ直接には人々に届いていないと聞いていたのでこれは、避難の人々に直接に届くのではと思い、ささやかでも寄付をしたかった。 同行の弁護士が 「どう使われるんですかねえ。」 と、本当に一人ひとりのかたにお金が届くのかためらう気持ちを表した。 どう使われるのか。 確かめたかった。 プロレスの公演が終わって人が散って行く流れの中をななめに横切るように富岡町消防分団と書きぬいた濃い紺色の法被(はっぴ)を着た男性が歩いてきた。 長身で上半身ががっしりしていて彫りの深い顔だ。ほほと顎のひげが良く似合う。40代後半か50前後だろうか。独特の存在感と風格の人であった。 「わたしは消防団員なのでよくわかりませんが。」 ゆっくりとかみしめるようにいうと後ろの仮設富岡町 川内村のそれぞれの役場の建物を指差した。 そこを訪ねると中には20名ほどの若い公務員が事務机にコンピュータを並べて仕事をしていた。町はそのままここにきているのである。 ここで寄付をさせていただき、どなたかに町の様子を教えていただきたいと申し出た。 一人の女性に案内されてパレットの建物の中をかなり歩いて富岡町役場のもう一つの執務場所に行く。 はじめ訪問の趣旨が良く飲み込めずいぶかしむような顔で応対していた課長が小さな会議室のようなところに案内してくださった。 東北地方の人々に共通するおだやかな表情と語り口で避難がはじまてからの苦難を説明していただいた。 初め、緊急の国→県→市町村と経由した指示で隣の川内村に避難。とるものもとりあえず2、3日のつもりでの移動である。 しかし川内村もともに避難ということで郡山まで移動させられたという。何が起こっているのかほとんど説明のないままだという。 人々は東電への怒りでいっぱいである。この先どうなるのかという不安もある。気持ちのやり場がない。 大変だったでしょうね、といいながら言葉を待った。 「住民のみなさん。要求がきつくて───。わたくしたちも被害者なんですがあ。 2週間くらいは寝る時間は1、2時間でした。それもみなさんは床、わたくしらは我慢してせいまいところで──」 そういう言葉が続くうちに言葉がとぎれとぎれになった。ふと見ると目を真っ赤に泣きはらしている。 「1日2日で急に故郷を捨てろと言われても──。いつ戻れるんだかわからないままですから。 6か月から9か月の工程といわれても信じて大丈夫かわかりません。」 「20キロ圏内にもどれるのかわかりません。でも戻りたいですね。」 そばから井桁弁護士が苦しかったと思いますが逆に励まされたときはと尋ねた。 全国の自治体の人たちが応援に来てくれたとき、と言いかけるとこみあげるように白髪の課長は嗚咽の声をもらした。 このようにして原発にふるさとを奪われた人たちの数は71,000人に及ぶという。 |