今、コミットしている現場から  梓澤和幸

大熊町へ


  5月5日 原発の南20キロのJビレッジ、いわき、北茨城、郡山と車でたどったあと列車で会津の町に着いたのはもう夜遅くのことであった。 ホテルの隣にある居酒屋の前に少年が二人の少女に囲まれて何か誘われていた。
  「あのさあ。アポなしで部屋行ってもいい。」
三人ともべたっと地面にしゃがんでいる。

  もう五月だが、気候も、短いスカートからむき出しの少女たちの下肢も何だか寒々しい。
朝起きてゆっくりと会津若松の城下町の雰囲気をかみしめながらゆっくりと歩いた。 市役所と大熊町仮役場が置かれているという旧葵高校跡を目指した。

  庁舎に着いて明るい陽の射す板張りの廊下を歩くと、「○○中学職員室」という木の札が眼に入った。 町ぐるみ、自治体ぐるみで福島第一原発のある大熊町は100キロ西に向かった会津若松に避難のため移転しているのだ。
  五十過ぎの課長さんからお話を伺った。
──どんなふるさとでしたか。
  ちょうど今頃、白い梨の花が浜から丘、そして山に向かって咲くんです。それは何ともいえない美しさで……。
  地味な感じで白髪の交じった課長さんが、ふるさとの情景を描く言葉は、さながら詩のようであった。課長さんはそれをうたうように語った。
──その先に、地平線まで何が見えましたか。──
  答えは簡潔だったが、悲しいというか痛みを伴う響きがあった。
  「地平線いっぱいに阿武隈山脈が見えたんです。」

  紺色がかったブルーの山脈は、夏は白い雲が高く立ち上がり、冬は全山が銀色の雪に覆われていたはずである。

  もう一人の課長さんから聞いた言葉も、こちらの胸に深く響いた。
  「原発は親たちの世代が受け入れたのですが、──(この現実は私たちが引き受けていかなければいけない)──。」
  親たちを非難しているというのでもなく、迷惑を蒙って困っているというのでもなく、襲いかかってきた全体を何とか受け入れよう、 受け入れた現実の中で生きて行くしかない。それは鉛色のような重たいものだが、その中でとにかく生きていくのだ、というような響きを持っていた。
  この日、三人の方からお話を伺ったが、訪問者の胸をどーんと突くような言葉があった。

  「我々は帰ります。大熊町へ帰ります。線量の低いところだってある──。みんながみんなというわけにはいかないが、 帰れる場所には帰る」 決然とした響きがあった。

  哲学者の高橋哲哉さんも幼いとき、家族と一緒に大熊町に住んだのだという。朝日新聞にのったエッセイで読んだ。
  高橋さんは、被曝労働を強いられる原発労働者の例をあげている。そして原発を 「あらかじめ犠牲を織り込んだシステム」 と定義した。 その脳裏には、幼いころを過ごしたという町の、頃ふるさとを喪失させられた人々のことがあったに違いない。

  ──「あらかじめ犠牲を織り込んだシステム」──原発推進派、反原発派、脱原発派とイデオロギー的に区分けする前に、 生き方の問題としてどうするのか、という問いをこの定義は呈示しているような気がしてならない。もっと大きな全体がある。
  人々は、原発を意識すると否とに関わらず、それが作り出したエネルギーを使い、成長を絶対の前提とし、道路と港湾と巨大な建物と、 二四時間テレビと大型冷蔵庫を使ってきた。街にはいつも明かりが溢れ、都会にはうんざりするほど人が集まり、 飲み屋とバーとクラブは遅くまで賑わい、多くの場合働く男たちは深夜はじめて自宅にたどり着いた。

  福島第一原発の街、大熊町も過疎の悩みから解き放たれ、いっときの繁栄が過ぎても依存から抜け出せなかったのかもしれない。 そこはもっと大熊町の人々と語り合ってみたい。 リアルを学びたい。

  話題の 開沼博著 「フクシマ論」 青土社刊の書は、原子力発電所のある村をさして原発依存の村と書いているらしい (雑誌筑摩掲載 斎藤美奈子氏のエッセイ 「福島は変われるか」 参照)。しかしそれはムラに限ったことでなく、 五四基の原発を抱える日本全体がそうだったのだろう。脱原発デモの参加が決して一挙に多くはならないのも、 日本全体が原子力ムラと化していることと関係があるのかもしれない。依存症のような依存があったのだ。

  ここは運動のやりかたとか、ビラの書き方とか、宣伝の方法とかとは違う角度から問題を解明してみる必要があるのかもしれない。 あえて難しく言おう。哲学がとりくまなければならない深刻な問いがあるのだ。

  そしてこの問いばかりはいつもの一過性の問題とは違って、人々の胸にいつまでも住み続けるはずである。 なぜなら福島第一原発事故は、継続して不安を運び、大人として考えているわたくしたちの次、そしてその次の世代の子どもたちの人生を傷つけ、 その被害の痛みと深さがわたくしたちの胸の中の良心に問い続けてくるからである。

付記 福島民報8月28日版は福島県知事と会談した菅首相が放射性廃棄物の中間貯蔵施設が福島県内になると語ったことを報じていた。 また原発3キロ圏内への帰還は20年単位の時間を要することとなるとの政府側の試算結果を伝えていた。