資料 関東大震災人権救済申立事件調査報告書 日弁連


  関東大震災朝鮮人・中国人虐殺事件は、過去ではなく現在のことです。
  報告書にあるように国の責任は明らかです。しかるに、国は一切の責任を認めていません。
  梓澤は、五人の調査チームの責任者として調査に参加し、報告書の起案の一端を担いました。
  ここに、厳粛な気持ちをこめて、ホームページにこの報告書を掲載させていただきます。


日弁連総第39号
2003年8月25日
内閣総理大臣
 小泉 純一郎 殿
日本弁護士連合会
会長 本林 徹

勧 告 書

  当連合会では、申立人文戊仙(ムンムソン)による関東大震災時における 虐殺事件に関する人権救済申立事件について調査した結果、下記のとおり勧告します。


第1  勧告の趣旨
  1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、 遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、 その責任を認めて謝罪すべきである。
  2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。

第2  勧告の理由
  別添調査報告書記載のとおりである。

以  上


関東大震災人権救済申立事件調査報告書

2003年7月
日本弁護士連合会 人権擁護委員会

【目次】
第1章 申立の概要
  第1 当事者
  第2 申立の趣旨
  第3 申立の理由(概要)
第2章 調査の経緯
第3章 当委員会の判断
第4章 上記判断に至った理由
  第1 関帝大震災による雁災と戒厳令、虐殺の発生
  第2 虐殺事件の背景となった戒厳宣告
   1 関東大震災における戒厳令
   2 戒厳宣告の手続上の問題点
   3 事件の重大な背景としての戒厳宣告
  第3 軍隊による虐殺
   1 認定と根拠
   (1)認定
   (2)認定の根拠
   2 軍隊による朝鮮人殺害
   (1)政府=の記録に残る事件
   (2)上記以外の事件
   3 軍隊による中国人虐殺
   (1)軍の関与
   (2)大島町事件
   (3)王希天事件
   (4)中国人の虐殺被害者数について
   4 結論
  第4 自警団による虐殺
   1 事実
   (1)新聞報道
   (2)刑事確定記録
   (3)刑事裁判についての新聞報道
   (4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
   2 自警団による虐殺に関する国の関与
   (1)朝鮮人に関する虚偽事実の流布(流言飛語)
   (2)流言飛語の原因となった虚偽事実の伝達一内務省警保局長発の打電
   (3)行政機関による虚偽事実の伝達と自警団の組織
   (4)刑事事件判決に判示された事実
   (5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録
   (6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について
   (7)流言飛語の発生・自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺
   (8)当時の政府機関における朝鮮人に対する考え方
   (9)マイノリティー保護に関する国際的認識
   4 結論
第5章 再発防止の重要性
【資料目録】


第1章 申立の概要
1999年12月10日提出の人権救済申立書によると本件申立の概要は次のとおりである。

第1 当事者
    申立人 文戊仙(ムン ムソン)
    現住所 (略)
    本 籍 (略)
    代理人 (略)
    相手方 日本政府

第2 申立の趣旨
1) 関東大震災時の朝鮮人虐殺は 「集団虐殺」 であり、重大な人権侵害であることを明らかにせよ。
2) 朝鮮人虐殺は、外国人虐殺であるから、国際法により外国人(他民族) に対する集団虐殺行為としての責任があることを明らかにせよ。
3) 集団虐殺の加害責任者を日本の国内法により処罰しなかった日本政府の責任をあきらかにせよ。
4) 日本政府は、虐殺の責任をみとめ、謝罪せよ。在日朝鮮人、在日外国人に対する集団虐殺の再発防止措置をとれ。

第3 申立の理由(概要)
  申立人は、関東大震災発生当時から、日本に在住する在日朝鮮人である。
  申立人は、関東大震災の当時東京都品川区大井に居住していたが、父の知人が関東大震災直後に虐殺されたり、 虐殺をうけた朝鮮人が遺体に残酷な仕打ちをうけているのをみたりして、深く傷ついた。
  申立人は、本件虐殺事件で、政府が責任を認め、あるいは謝罪したことは一切ないと主張している。
  同種の事件を再発防止するためにも虐殺事件の政府の責任をあきらかにしてほしい。

第2章 調査の経緯

  事件委員会は、申立人本人から事情聴取を行い、また、別紙目録記載のすでに刊行された資料集、史料集を閲覧検討した。 とくに、重要な史料については原本ないし現物にあたり、それが現存しない、あるいは、確認困難である場合には、その史 (資) 料の所在を確認した。 さらに、史料を収集した団体及び個人に収集の経緯を確認することにより、資 (史) 料の信憑性の確認に万全を期した。
  史 (資) 料の確認のために、赴いたのは、東京都公文書館、防衛庁史料編纂所、憲政資料室等である。
  また、朝鮮人虐殺の加害者を処罰した刑事事件の確定判決閲覧謄写のため、前橋、横浜、浦和、千葉の各地方検察庁を訪問して、閲覧謄写の申請をした。
  上記各地方検察庁では結局のところ確定記録保存法にもとづき、閲覧を拒まれた。最終的には法務省とも交渉し、 確定記録保存法にいう保存記録ではないとの確認を得たが、結局上記各地検からは閲覧許可を獲得するにいたらなかった。
  このため、事件委員会は元立教大学教授山田昭次氏が歴史研究の目的で収集した判決のコピーを閲覧して、事実認定の資料として活用させていただいた。
  なお、関東大震災の際に発生した殺害等に関しては、朝鮮人、中国人のみならず、 社会主義者と目された日本人あるいは朝鮮人と間違われて殺害された人などが知られているが、申立の趣旨から、本報告書では、朝鮮人、 中国人の被害に限定して検討する。

第3章 当委員会の判断

  次の主文による勧告を日本政府に対して行うべきものと考える。
【主文】
1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、遺族、 および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪せよ。
2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因をあきらかにせよ。

第4章 上記判断に至った理由

  申立人による人権救済の申立を受けて、人権擁護委員会の任命のもとに事件の経過と国の責任を調査した事件委員会は、 国に対して前記のとおり勧告を出すべきとの結論にいたったので、調査の経緯、結論の基礎とした事実認定、その根拠についてここに記載する。

第1 関東大震災による羅災と戒厳令、虐殺の発生
  1923年9月1日午前11時58分、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府、6県を大震災が襲った。 火災もおこり死者99,331人、行方不明43,476人、家屋全壊128,266戸、半壊126,233戸、焼失447,128戸に達した。
  1923年9月2日、政府は、帝国憲法8条に定める緊急勅令によって戒厳令を宣告した。9月3日には、戒厳地境を東京府・神奈川県全域に拡大した。
  東京戒厳司令官は、9月3日、職権によって戒厳令第14条の権利制限の適用について次のように定めた。
「一、警視総監及関係地方長官並二警察官ノ施行スベキ諸勤務。
  1 時勢二妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
  2 兵器弾薬等其ノ他危険二亙ル諸物品ノ検査押収。
  3 出入ノ船舶及諸物品ノ検査押収。
  4 各要所二検問所ヲ設ケ通行人ノ時勢二妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機二依り水陸ノ通路停止。
  5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中二立入検察。
  6 本令施行地域内二寄宿スル者二対シ時機二依り地境外退去。
 二、関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開鍼ス。」
 この震災の直後、朝鮮人、中国人が多数殺害された。

第2 虐殺事件の背景となった戒厳宣告
1 関東大震災における戒厳宣告
  戒厳令とは、一般に、非常時に際して通常の行政権、司法権の停止と軍による一国の全部または一部の支配の実現を意味する非常法をいい、 日本では、軍人勅諭の制定と同じ年である1882年 (明治15年) 8月5日に、太政官布告第36号として制定された。 その第1条は、「戒厳令ハ戦時若クハ事変二際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス」 と規定している。 日本においても、戒厳宣告の実体要件としては戦時もしくは事変を条件としており、対外防備のための非常法として制定されたものである。
  1889年に制定された大日本帝国憲法には14条で天皇の戒厳大権の規定が定められたが、戒厳の要件・効力を定めるべき新法が制定されなかったため、 太政官布告による戒厳令がその法律に代わるものとされた。
  しかし、帝国憲法下の軍事戒厳は日清戦争のとき1件、日露戦争のとき6件宣告されたのみで、日露戦争後は軍事戒厳が宣告された例はなく、 帝国憲法8条の緊急勅令制定権を利用した、もっぱら国内治安のための、いわゆる行政戒厳が行われた。 行政戒厳は、1905年日比谷焼打事件に際して東京市および周辺に、1923年関東大震災に際して1府3県に、1936年二・二六事件に際して東京市に、計3回行われた。
  本件における戒厳令も、帝国憲法8条に定める緊急勅令によって宣告された。

2 戒厳宣告の手続上の問題点
  関東大震災における戒厳宣告は、帝国憲法第8条に定める緊急勅令の形で発せられた。緊急勅令を発するときは、 枢密顧問の諮詢を経るという枢密院官制上の規定が存在したが、本件戒厳の勅令においては枢密顧問の諮詢を受けていない。 また、勅令は官報により公布されて有効となるとされているが、本件では官報に記載されず、号外扱いとなっている。
 このような戒厳宣告が、枢密院 (顧問) の諮詢を経ることなくなされたことは、緊急勅令によって戒厳を宣告する手続の適法性として疑問が残るところである。

3 事件の重大な背景としての戒厳宣告
  関東大震災によって多数の火災が発生し、これによる多くの死傷者がでたことは間違いないが、そうであるとしても、 なお、戒厳令を宣告して軍隊を出動させるべき必要があったかどうかは、疑問の余地なしとしない。 そもそも戒厳令は、「戦時若クハ事変二際シ」という戦争、内乱状態を前提として、敵からの攻撃に対処するために、行政権等の執行を停止させ、 「兵備ヲ以テ」 軍に国民生活を統括させるものである。
  このような戒厳令を震災という自然災害事態に対して宣告すること自体、中央および地方の官憲の危機意識を過剰に募らせるものであった。
  9月3日の関東戒厳司令官命令は、戒厳令にもとづく命令の施行の目的として、「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」 を挙げ (資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文 『関東大震災 政府陸海軍関係資料K巻陸軍関係史料』 139貢)、不逞の挙を行うものを想定している。
  また、戒厳令は戒厳司令部に対して、押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など、 災害時における対処としては著しく過大な権限を与えた (前同書143貢)。
  これらは、大地震という自然災害に際しての救難・復旧などに通常必要な対応の水準を超えて、 騒擾その他の犯罪行為を予防・鎮圧する治安行動的な対応を意味している。このことは中央及び地方の各官憲に、 そのような治安行動が必要な事態が生じているという危機感を増幅させたと考えられる。
  また、このように増幅された危機感と認識は、後述するとおり、行政の指揮命令系統を通じた自警の指示や、 末端の巡査などの巡回等によって自警団などの民衆レベルにも浸透したものと考えられる。

第2 軍隊による虐殺
1 認定と根拠
(1)認定
  被害者の人数を確定するには至らないが、関東大震災において多数の朝鮮人・中国人が軍隊によって殺害された。
(2)認定の根拠
  従来、軍人による朝鮮人虐殺については、被害者側の目撃供述、その伝聞、元兵士による述懐など、 さまざまな記録が残されている (第一師団騎兵第十六聯隊見習士官越中谷利一の手記 (『現代史資料6』 x C)、 全虎岩 『亀戸事件の記録』 亀戸事件碑記念会編・国民救援会、崔承萬 「日本関東大震災わが同胞の受難」 『極熊筆耕−崔承萬文集』 等々)。 しかしながら、当委員会として、供述あるいは述懐する本人と面談することはすでに叶わず、 また、残された記録の裏付を諸事実と照らし合せて確認することも容易ではない。
  しかしながら、陸軍および政府に残る資料から、軍隊による殺害の事実を確認することができる。 また、中国人に関しては、資料収集者に対する聞き取りが実現したことから、これを判断の参考にすることが可能であった。

以下に検討の内容を記す。

2 軍隊による朝鮮人殺害
(1)政府の記録に残る事件
  『関東戒厳司令部詳報第三巻』 所収 「第四章 行政及司法業務」 の 「第三節付録」 付表 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」 (以下 「資料第3の1」 という) および 『震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書』 所収 「第十章 軍隊の行為に就いて」 の 「第四 千葉県下における殺害事件」(以下 「資料第3の2」 という) によれば、軍隊による多数の朝鮮人虐殺事件が認められる。
  上記2つの資料は、同一の事案について共通して記載している事例が多いので、主に資料第3の1に依拠して概観すると、 下表のとおり12件の軍隊による朝鮮人虐殺事件があったことが認められる。その被害総数は少なくとも数十人以上に及んでおり、 この資料に記載された殺害事件だけでも多大な数に上る。
  なお、下表Cの事件については、後述 (3、(2)、エ) するように、被害者は中国人である可能性がある。

【表】
  月日 場  所 概    要
@ 9/1 東京府月島4丁目付近 外泊休暇中の兵士が朝鮮人1名を撲殺 (資料第3の1)
A 9/3 東京府両国橋西詰付近 1兵士が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
B 9/3 東京府下谷区三輪町
45番地電車道路上
1兵士が朝鮮人1名を刺殺 (資料第3の1)
C 9/3 東京府大島町3丁目付近 3名の兵士が朝鮮人を銃把で殴打したことがきっかけで群衆・警察官
と闘争がおこり、朝鮮人200名が殺害された (資料第3の1)
D 9/3 東京府永代橋付近 兵士3名が朝鮮人17名を射殺 (資料第3の1)
E 9/3 東京府大島丸八橋付近 兵士6名が朝鮮人6名を射殺 (資料第3の1)
F 9/3 東京府亀戸駅構内 兵士1名が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
G 9/2 千葉県南行徳村下江戸川橋際 騎兵15連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
H 9/3 千葉県浦安町役場前 兵士1名が朝鮮人3名を射殺 (資料第3の1、2)
I 9/4 千葉県松戸地先葛飾橋上 1将校が1兵士に命じて朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1、2)
J 9/4 千葉県南行徳村下江戸川橋北詰 1軍曹が兵士2名に命じて朝鮮人2名を射殺 (資料第3の1、2)
K 9/4 千葉県南行徳村下江戸川橋北詰 1軍曹が兵士2名に命じて朝鮮人5名を射殺 (資料第3の1、2)

  以上の事実によれば、軍は震災後の混乱の中で、理由なく朝鮮人を多数虐殺しているのであり、 これらの殺害 事件に関する国の責任は重いといわなければならない。また、これらの事件は、 裁判・軍法会議のいずれにもか からなかっただけに、軍隊による朝鮮人殺害の事実と国の責任を明らかにすることの意味は大きい。

(2)上記以外の事件
  軍隊が朝鮮人の殺害に関与したのは、上記事件に限定されるものとは考えられない。
  資料第3の2によれば、資料第3の2に報告されている 「千葉県下における殺害事件」 は、 「千葉地方裁判所管内に於て鮮人を殺傷したる事件を検挙し之が審理中軍人に於て殺害行為を為したりとの密告を為したるものあり。
  又被告に於て其の趣旨の陳述を為したりとて左記事実に付検事正より報告ありたるを以て直に之を陸軍省に移 牒したり。」 という経緯で、 正式に移牒を受けたものを軍として暖昧にすることができないことから、 報告をあ げていると考えられる。そして、資料第3の1が資料第3の2とかなりの程度重複していることから、 資料第3の2に掲げられた事件も、資料第3の1と同様の事情で表面化せざるを得ない範囲に留められているものと考えられる。
  また、資料第3の1は 「兵器」 を使用した事例とされている。 これは、小銃など軍隊が用いる兵器によらずに 殺害した事例は除外するとの意味とも受け止めうる。

3 軍隊による中国人虐殺
(1)軍の関与
  関東大震災時において、朝鮮人の虐殺のみならず、多数の中国人が殺傷され、この虐殺における軍隊の関与も認められる。

(2)大島町事件
  1923年当時、中国からの労働者は、南葛飾郡大島町、南千住、三河島の一帯に居住をしており、60数軒の中国人労働者の宿舎が存在した。 当委員会は、諸資料を調査の上、同年9月3日、この大島町で中国人集団虐殺が行われたとの事実を認めることができるとの判断に達した。 この認定の根拠は、以下の各証拠である。

ア 九月三日の朝、大島八丁目付近の住民は外に出るなと自警団員より命じられ、大島六丁目の中国人宿舎に兵士二名が来て、 中国人労働者たちを屋外に整列させ、八丁目の方へ引き立てて行った。(資料第3の3 『十一月九日丸山、大迫両人大島町中国労働者被害事件調査、 八丁目惨殺の件』 有)、『支那人被害及救済に関する件』)
  そして八丁目広場で軍隊による虐殺がなされた。第1回は朝、軍隊による2名の支那人の銃殺 (資料第3の4警視庁広瀬外事課長直話4行目)、 第2回は午後1時頃、軍隊及び自警団による約200名を銃殺及び撲殺 (前同直話5行目)、 第3回は、午後4時頃、約100名を殺害した (資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』 6行目)。

イ 昼頃、八丁目の宿舎に日本人数百名がやってきて、中国人174人を連れ出した。そして鉄棒、こん棒、斧等を持って、乱打乱殺した。 (資料第3の5在北京立田内務事務官翻訳作成の綜麟祥による大正13年8月14日付け中国人黄子連聴取喜一 『支那人誤殺事件宣伝者に関する件』。)
  この聴取書によると黄子連は、耳辺に負傷を負ったが、死を装い、殺害をまぬかれたのだと供述している。
  黄子連は、1926年に中国で死亡した(第3の6黄子連の姪である黄砕乃 (フアンツイナイ) の証言─仁木ふみこ震災下の中国人178ページ) がフアンツイナイによると黄子連は耳をたちきられ、頭も負傷していて、それがもとで死亡したのだという。 負傷した箇所などという作為の入る余地のない箇所について一致している黄子連の供述の信用性は高いと評価される。

ウ 当時、大島町8丁目146番地に居た木戸四郎 (当時27才、電気モータ販売業) によると 「五、六名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、 二百名ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹槍、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、 中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。 二発の銃声がした。あるいは逃亡者を射撃したものか、自分は当時わが同胞のこの残虐行為を正視することができなかった。」 (資料第3の7目撃者による 「支那人被害の実状踏査記事」)

エ 午後三時ころ、野重第一連隊第二中隊の岩波少尉以下六九名、騎兵一四連隊三浦孝三少尉以下一一名は、 群衆と警官四、五〇名が 「約二〇〇人の鮮人団を連れてきて、その始末を協議中」 のところに行き合わせて全員殺害した。 この点、わざわざ 「備考欄 本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信しいたるものなり」 と記載されている点、 そして、大島八丁目という場所からしても、ここで鮮人としているのは、中国人と推測される (資料第3の1 『戒厳司令部詳報』 震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表 野重一及び騎一四)。 資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』 とも基本的に符合する。

オ さらに、田辺貞之助の 「番小屋につめていたとき、隣の大島町の六丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。 (略) 空地に東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。 数は二百五十ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頸動脈がしらじらとみえているのがあった。 (略) 『こいつらは朝鮮じやなくて、支那だよ』 と、誰かが云っていた。」(資料第3の8 『江東昔ばなし』) という記述も上記を裏付けるものである。

(3)王希天事件
  王希天 (1896年8月5日生) とは、当時、大島3丁目278番地に所在した僑日共済会の会長であった。 当委員会は、王希天も、軍により殺害されたものと認定する。なお、その殺害についての隠蔽も組織ぐるみに行われた疑いが存する。
  この事実を認定したのは、以下の資料による。

ア 国府台の野戦重砲兵第1連隊の中隊長であった遠藤三郎によれば (資料第3の9 『遠藤日記』 後記1967.10.3)、 「野戦重砲第七連隊にて逮捕し亀戸警察署に拘留を依頼す。鮮支人に対する住民の迫害より彼らの保護を同警察に依頼しありしも人員多数にて収容しえず、 予、戒厳指令部に連絡して習志野厩舎に収容するに決す。
  それが実施に先立ち佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て王希天のみをもらい受け、中川堤防上にて垣内中尉、その首を切り死がいを中川に流す。
  王希天は中国の大物と見え、その存否を中国政府より日本政府に問い合わせあり、外交部長自ら捜索に来り、外交問題ならんとす。
  警視庁の調べにより佐々木大尉の王希天受領の証書、亀戸警察より出でしため疑惑の目は陸軍に向けられる。 第七連隊長、中岡大佐も金子旅団長も本間題は全然、関知せずという。やむをえず江東地区戒厳参謀たりし予、責任を取り阿部信行参謀長、 武田高級参謀と図り、軍において受領せるも習志野へ輸送途中、本人の希望により解放し、その後の消息不明ということにして殺害を秘匿するに決したるものなり。
  正力警備課長は、その秘密を察知しありしが如きも深く追及せず (略)」 とされている。

イ そして、これを裏付けるものとして、野戦重砲兵第一連隊第六中隊の一等兵であった久保野茂次の日記には (資料第3の10 『久保野日記』) 次のように記されている。
  「一〇月一八日 (晴) (略) 王希天君は、その当時、我が中隊の将校等を誘い、支人護送につき労働者のため尽力中であった。快活な人であった。
  彼は支人の為、習志野に護送されても心配はないということを、漢文に害して、我が支那鮮人受領所に掲示された。支那人として王希天君を知らぬものはなかった。
  税務署の衛兵に行き、将校が殺してしまったということを聞いた。彼の乗ってきた中古の自転車は、我が中隊では占領品だな、 というて使用していた (略)」 「一〇月一九日 (晴) (略) その真相については逐一、ある者 (欄外に高橋春三氏より聞いたと書き込み) より聞いた。 中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒いでいるから訓戒をあたえてくれ」 というてつれだし、逆井橋の所の鉄橋の所にさしかかりしに、 待機していた垣内中尉が来り、君らどこにゆくと六中隊の将校の一行にいい、まあ一ぶくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。
  そして彼の顔面及び手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の一〇円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。 そして殺したことは将校間に秘密してあり、殺害の歩哨にさせられた兵より逐一聞いた (略)」 としている。 これらは、軍内部の者の証言であり、かつ複数の記録が詳細かつ細部で一致している。

(4)中国人の虐殺被害者数について
ア 王兆澄の調査では、虐殺された中国人は四〇七名 (四二〇名だが一三名だぶり) とされている。
  王兆澄は王希天と第八高等学校時代からの友人であり、ともに僑日共済会を創設した者である。震災後、山城丸で上海へ帰国。 そして、順次、帰国者から聞き取り調査を行った記録を新聞に 『日人惨殺華工之鉄証』 として発表した。
  「調査の手続きとしては、@死者の親族の報告、A死者の友人の報告、B宿舎の主人の報告によった。かれらはみな大島六丁目、八丁目の中国人宿舎にいた者で、 それらの宿舎の名は林合吉、林合発、周進順、夏日豊、張広進、呉元昌、陳意順 (七軒) である」 とする。

イ さらに 『中華民国僑民被害調査表』(1923年12月7日)、『震災時支那人被害状況表』、『中華民国留日人民被害調査表』(1924年2月25日)、 『日人惨殺温州僑胞調査書』(1924年5月5日) 等の調査がなされ、それらの調査の結果につき、重複を省き、合算すると被害者総数は758名となる。

ウ 当委員会としては、これらの被害者数について、実数として確定するすべを持たないが、 200数十名を越え750名程度の範囲の中国人が殺害されたと推定することには相当の根拠があると判断する。

4 結論
  以上のとおり、軍隊によって朝鮮人および中国人が殺害された事実が認定できる。
  なお、これらの虐殺の状況について、資料第3の1には、虐殺が正当防衛にあたるものであるかの如き記載が列挙されている。
  一例を挙げれば、資料第3の1の2例目には、 「鮮人と思わるる者夜警青年団員に追跡せられた結果窮して抜刀し群衆に迫り危険甚しく歩哨之を制したるも肯せす己むを得す…刺突し…射殺」 したと記載されている。 いわれなく自警団に追跡され危険を感じた朝鮮人が、仮に抜刀して身構えたのだとしても、これを刺突した上射殺しなければならない急迫不正の侵害は認めがたい。
  また、同4例目には、「該鮮人は突然右物入より爆弾らしきものを取出し将に投擲せんとし危険極なかりしを以て自衛上巳むを得す之を射殺せり」 と記載されているが、 投擲しようとしたという物体が爆弾であったとは記載されていないから、射殺後もそのような事実は確認できなかったのであろうと認められる。
  このように、あたかも正当防衛その他巳むを得ずに行ったものであるかのように記載されている各殺害行為は、 いずれも軍による朝鮮人殺害を正当化できるものではない。

第4 自警団による虐殺
1 事実
  関東大震災における朝鮮人虐殺の、相当な部分は民間人によるものであった。
  民間人による虐殺行為は、いわゆる自警団によるものであったことは、以下のとおり、様々な資料の示すとおりである。

(1)新聞報道
  当時の新聞報道記事によれば、東京日々新聞 (大正12年10月21日) は、 船橋町の虐殺について 「鮮人の行衛不明にぢれ気味であった船橋自警団初め八栄村自警団など約150名は…全部を殺害し」(資料第1の1、『現代史資料6』 207頁)、 「保土ヶ谷久保山方面で行われた青年会自警団等の殺人事件に関し詳細聴取」(同208頁) 等を報道している。 同様に、読売新聞 (大正12年10月21日) は 「子安の自警団員の多くは日本刀を帯いて自動車を走らせ…五十余の鮮人は死体となって鉄道路線に遺棄された」(同210頁) と報道し、国民新聞 (大正12年10月12日) は 「暴行自警団員及陰謀事件の犯人検挙」(同211頁) を報じるなど、 当時の多数の新聞記事が自警団による朝鮮人殺害事件を報じている。

(2)刑事確定記録
  さらに事実関係の確実性が信頼できる資料としては、刑事確定記録として保管されている刑事事件判決が挙げられる。 以下に、判決文のうち罪となるべき事実として判示された虐殺行為の部分を抜粋する。

@ 本庄事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の1)
  「当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて約三千人に達し同夜中 (注:9月4日夜) より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人三名を殺害し

一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍 (証拠略) を使用し他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四五名を殺害し

一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ (以下略)」

A 神保原事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の2)
  「約一千の民衆は忽ち諸方より来りて該自動車 (注‥保護した朝鮮人を乗せた警察車両) に蝟集し其進路に粗朶を横えて内二台を停車せしめたる上 同日夜半迄に亘り車中の鮮人に対し暴行を加えたる際右群衆に加りたる被告A,B,C,E,F,H,J,K,L,M,N, Sは各粗朶棒又は竹棒等を以て鮮人一名乃至数名を殴打し被告0,P,Q,Rは 『ヤレヤレ』 と叫びて群衆を声援激励し以て孰れも他に率先して該騒擾を助勢し」
  (中略)
  「右取調の終了するや忽ち該鮮人に対し暴行を加え騒擾をなしたる際被告G,J, Lは右群衆に加りたる上Gは粗朶棒を以て該鮮人を殴打しLは小刀を以て該鮮人を突きJは 『ヤレヤレ』 と叫びて群衆を声援激励し以て執れも他に率先して該騒擾を助勢したり (以下略)」

B 寄居事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の3)
  「被告Aは戊 (ママ)(判決63貢確認) 等百余の群衆に対し鮮人は吾人同胞の仇敵なり桜沢村に於ける木賃宿真下屋にも鮮人滞在し居れる筈なれば 何時不逞の所行に出づるや計り知るべからず予め之を襲撃殺害するに如かざる旨を演説し以て群衆を扇動したるより被告B,C,D,E,F,G,J,S,L, M等及群衆は之に応じAと共に各日本刀竹槍鳶口梶棒等凶器を携え前記真下屋に向い
  (中略)
  一、被告Aは前記鮮人甲が畄置場より玄関辺に逃走し来るや同所に於て自己有に係る処携の日本刀 (証拠略) にて同人に対し二回斬付け尚右騒擾中ヤレヤレと叫び群衆の暴行を扇動し

  一、被告Bは右甲が畄置場より分署前の庭に引出され群衆の乱撃を受け死に瀕し居りたる際自己所有に係る所携のイゴの棒 (証拠略) にて同人に対し一回殴打し

  一、被告Cは同所に於て同様瀕死の状態に在りたる右甲に対し自己所有に係る所携の檪の棒 (証拠略) にて二回殴打し (以下略)」

C 熊谷事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の4)
  「一、被告Aは前記八丁地内に於て熊谷町消防組頭乙より鮮人十名の遞送方を託せされ乏が護送中内二人を殺害する目的を以て 故意に当時避難民の収容所なる同町熊谷寺境内に引率し行きたる上同所に於てCD等と共謀の上目本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

  一、被告Bは同日同町熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に手斧を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

  一、被告Cは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Dと共謀の上殺意の下に日本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

  一、被告Dは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Cと共謀の上殺意の下に日本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し尚犯意継続して 同日熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に右日本刀を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し (以下略)」

D 片柳事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の5)
  「鮮人甲が同村大字染谷地内に逃げ入り消防小屋附近に差掛るや折しも同所に警戒し居りたる乙の為に覚知せられて追跡を受け同人方裏手の里道を逃走中圖 (はか) らず不逞鮮人の来襲なりと聞き伝え其場に駆付け来りたる被告A及びBの両名と出会しAは槍 (証拠略) Bは日本刀 (証拠略) を持て右甲を追跡し同染谷字八雲耕地地内に追迫り同所丙方附近の里道に於て甲が後方に振向くや Aは前記の槍にて忽ち同人の胸部を突刺し甲が逃れて附近の薑畑に入り畑構に転倒するや Bは前記の日本刀にて其左肩辺を斬付け同時にAは右槍先にて甲の前頭部辺を殴打したるも同人は直ちに起上がり 更に十数間を距る同所甘藷畑に逃入り再び転倒するや被告CDE等も亦不逞鮮人の襲来なりと聞き其場に駆け付け来り同甘藷畑に於て Dは日本刀 (証拠略) を持て甲の右腕辺にCは日本刀 (証拠略) を持て其腎部辺に各斬付けEは槍 (証拠略) を持って其後頭部辺を突刺し其結果甲は重傷を負い救護の為同郡大宮町萩原病院に収容せられたるも同日午前九時頃死亡するに至りたるもの (後略)」
  また、前橋地方裁判所1993年11月14日判決 (資料第4の6) は、警察署に保護されていた朝鮮人に対する殺人等事件について、 「自警団を組織して各自警戒に努めて居たる」 旨を判示している (同16丁)。
  東京をはじめ、関東近県の裁判所において、同様の刑事裁判が行われている (次項参照)。しかし、残念ながらこれらの刑事確定記録は、 当委員会の調査によっても閲覧・謄写することが認められず、引用することができなかった。

(3)刑事裁判についての新聞報道
  上記のとおり、浦和地裁と前橋地裁における裁判以外は、刑事記録の閲覧謄写ができなかったが、上記のような刑事訴訟の内容は、 当時の新聞によって多数報道されている。
  判決謄本を見ることができなかった地域においても、元立教大学教授山田昭次氏の調査によれば、 当時の新聞報道等によって以下のとおりの判決が出されていることが分かる。
@東京地方裁判所管内
  花畑事件        (被告人10名)
  西新井村与野通り事件 (被告人2名)
  千住町事件      (被告人1名)
  南千住町事件A    (被告人2名)
  南千住町事件B    (被告人7名)
  巣鴨町宮下事件   (被告人1名)
  千歳村烏山事件   (被告人13名)
  平塚村蛇窪事件   (被告人3名)
  世田谷町事件     (被告人1名)
  五反田事件      (被告人9名)
  荒川放水路事件A  (被告人1名)
  荒川放水路事件B  (被告人1名)
  吾濡町亀戸事件   (被告人2名)
  吾滞町大畑事件   (被告人1名)
  吾滞町請地事件   (被告人5名)
  亀戸町遊園地事件  (被告人5名)
  亀戸事件        (被告人6名)
  南綾瀬村事件     (被告人11名)
  寺島村事件      (被告人12名)

A千葉地方裁判所管内
  小金町事件      (被告人1名)
  馬橋事件A       (被告人6名)
  馬橋事件B       (被告人2名)
  馬橋事件C       (被告人6名)
  浦安町堀江・猫実事件 (被告人10名)
  流山事件        (被告人6名)
  船橋事件A       (被告人14名)
  船橋事件B       (被告人7名)
  中山村事件      (被告人8名)
  千葉市事件      (被告人1名)
  佐原事件        (被告人9名)
  滑川事件        (被告人14名)

B宇都宮地方裁判所管内
  間々田駅事件     (被告人8名)
  石橋駅事件      (被告人7名)
  小金井駅事件     (被告人7名)

C横浜地方裁判所管内
  鶴見町事件      (被告人4名)
  横浜市公園バラック事件 (被告人1名)

(4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
  陸上幕僚総監部第三部署 『関東大震災から得た教訓』(資料第4の7) は、「震災発生直後の状況」 として、 「鮮人の暴動、津波の襲来などの流言、飛語が流布されたので、期せずして隣保相寄って自らを守り、生きるために物資を奪う等一時騒じょう化した」 とし、 続いて 「じ後の状況」 として 「引続き自警団の暴行、食料倉庫の襲撃等混乱を極めた」(同3頁) と述べており、 当時の騒擾的状況が自警団によって作り出されたことを強調している。
  自警団の実態について、以下同書から引用する。「自警団の組織は必ずしも一様でなく、おおむね各区、町村の青年団、在郷軍人、消防団等を中心とし、 これに町会、夜警、親睦会を加えたもので組織された」(同14頁)。 自警団の目的は、「当初においては各自の生命、財産、自由の防衛及び相互扶助並びに罹災者の救護にあったが、 流言が一度出るともっばら鮮人の来襲に備えるのをもって最大の目的としたようである」(同書14頁)。 「9月16日の調査による団体数は、市部526、郡部583である。」(同書14頁)。
  警視庁警備部と陸上自衛隊東部方面総監部による資料でも、同様の記載がある。「9月16日の調査によれば市部に562、郡部に583団体が組織され、 多い団体は110名、少ない団体30名であったが、逐次その数を増し、10月20日ごろには市部774、郡部810、合計1584団体の多数に上り、 また1団の数も多いものは750名という大きな組織をもつものもあり、これがため統制も乱れ、過激粗暴の行動に出るものも少なくなかった。」 (資料第4の8、警視庁警備部、陸上自衛隊東部方面総監部編『大震災対策研究資料』70頁)。
  「団員は各自刀剣、木刀、こん棒、竹やり、銃、とび口、くわ、玄能、かま、のこぎり等あらゆる凶器を携帯し、町村の要所および出入口に非常線を張り、 通行人に対し、厳重な尋問を行ない、朝鮮人の疑いあるものは警察署に同行し、あるいは迫害を加え、中には勢をたのみ暴行、 りゃく奪、殺傷事件をひき起こすものもあり、また、団体加入を強要したり、寄付金を強要するなど、専横をきわめる団体も現れるにいたった。」(同書同頁)。
  「民衆は自警団を組織して朝鮮人に対して、猛烈な迫害を加え」 た (同書67頁)。
  震災後の犯罪発生数については、「9月、10月に殺人犯が激増して漸次減少している9月中の殺人は、震災直後の9月1日から3日までに多発しており、 これらの原因は、鮮人来襲に対する自警団の凶暴的行為がその最たるものであった。」(同書72頁) としている。

2 自警団による虐殺に関する国の責任
  自警団による朝鮮人虐殺の事実は、民間人による犯罪行為ではあるが、その背景と原因を精査するならば、国の責任に言及せざるを得ない。

(1)朝鮮人に関する虚偽事実の流布 (流言飛語)
  そもそも、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不逞行為をおこなっているという喧伝は、 客観的事実ではない流言飛語であった。少なくとも、各所で多数のそうした行為が行われたり、組織的な行為が行われたという形跡はない。 これが流言飛語であったことは、以下のとおり当時の警察文書の記載からも明かな事実である。
  例えば、警視庁編 『大正大震火災誌』(資料第1の1『現代史資料(6)』 39頁以下) は、「鮮人暴動の蜚話に至りては、 忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く」 「流言蜚語の、初めて管内に流布せらりしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、 最も甚しく、其種類も亦多種多様なり。」(同39頁) と記載し、以下時々刻々の流言飛語の状況と内容を摘示し、 その取締状況と朝鮮人保護の状況に至るまで詳細に記録している。 これは、鮮人暴動・不逞行為などの言説がおよそ客観的事実にもとづかない流言であったことを直截に物語るものである。
  また、警視庁編 「大正大震火災誌抄」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 49頁以下) は、 警視庁管内の各警察署における朝鮮人に対する殺害などの犯罪行為を詳細に記録した史料であるが、この記録においても、 「鮮人暴動の流言熾に行はれ」 「鮮人暴挙の流言行はるるや」 「流言蜚語の初めて管内に伝播せらるるや」(同49頁) 等と記載されており、 一貫してこれらが流言に過ぎなかったことを明らかにしている。
  後述のとおり、海軍省船橋送信所から打電された内務省警保局長発の打電は流言飛語の大きな原因になったのであるが、 船橋送信所は、当時それだけはでなく、遭難信号や応援依頼の送信を繰り返して、 「鮮人暴動」 「来襲」 等の打電を連送したことによって流言飛語の各地への拡大・伝播に大きく寄与したことがあきらかになっている。 そして、この一連の打電の顛末を報告する軍関係文書、 東京海軍無線電信所長の大正12年10月1日付横須賀鎮守府参謀長宛 「船橋送信所無線電報に関する件」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 20頁) は、 「情勢不明にして騒擾の真相を確かむるを得ず避難者より或は青年団より誇大な情報」 と記載し、 「不逞鮮人来襲」 が客観的事実に基づくものではなかったことを認めている。 同様に、この船橋送信所の所長である大森大尉自身の報告書 「送信所にて採りたる処置並びに状況」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 23頁) は、 「警備に関しては送受両所間の聯絡杜絶せしため種々の錯誤を生じ遺憾の点多かりしも・・・終始不安に堪へざりし為如斯失態を演じ・・・ 結果より見れば徒に宣伝に乗りたる事となり慙愧に不堪」 と、これらの打電の内容は客観的事実に基づくものではなかったこと、 それにもかかわらず流言に乗ってしまったものであることを率直に述べている。

  内閣総理大臣山本権兵衛の残した 『戒厳令に関する研究』 と超する文書 (資料第1の3 『政府戒厳令関係史料J巻』 578ページ) 以下では、 朝鮮人に関する流言事例を具体的にとりあげて検討し、それを事実に反することとして否定している。
  たとえば、次の例があげられている。
○9月2日午後3時ころ自警団員が駒込警察署に同行した爆弾毒薬所持をしている朝鮮人がもっていたものは、砂糖であった。
○9月2日午後9時ころ、土木作業員18名を貨物自動車に乗せ、進行中自警団7、80名は朝鮮人の襲来とあやまって朝鮮人を車からひきおろして暴行して、 多数の負傷者を出した。
  以上、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不退行為をおこなっているという事実はなかった。 それにもかかわらず、次に述べるとおり、内務省警保局および船橋送信所は、虚偽の事実認識を広範に伝播した。

(2)流言飛語の原因となった虚偽事実の伝達─内務省警保局長発の打電
  海軍省船橋送信所は、9月3日午前から正午にかけて、各地方長官宛、朝鮮総督府警務局長宛、山口県知事宛に、 内務省警保局長を発信者とする下記の打電を行ったことが記録されている。当時、震災による被害のため首都圏と地方の間の通信手段は大きな打撃を受け、 中央政府から地方宛の通信は、全て海軍省船橋送信所からなされていた。

@ 呉鎮副官宛打電 9月3日午前8時15分了解
    各地方長官宛  内務省警保局長 出
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。」
A 鎮海副官宛  9月3日午前8時30分了解
    朝鮮総督府警務局長宛  内務省警保局長 出
「東京付近の震災を利用し、在留鮮人は放火、投擲等、其他の不逞手段に出んとするものあり。既に東京府下には、一部戒厳令を施行せるを以て、 此際朝鮮内、鮮人の動向に付ては厳重なる取締を加えられ、且内地渡航を阻止する様、御配慮を頂度。」
B 呉鏡副官宛打電 9月3日午後0時10分了解
    山口県知事宛  内務省警保局長 出
「東京付近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢えてせんとし、現に東京市内においては放火をなし、 爆弾を投擲せんとし、頻に行動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、 貴府に於いては内地渡来鮮人に付ては此際厳密なる視察を加え、?くも容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、 殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては十分警戒を加えられ、適宜の措置を採られ度。」(以上3件について、 資料第1の1 『現代史資料6』 18頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 158ないし159頁)
  なお、右の@の打電の記録については、欄外に 「此電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」 と記入されている (資料第1の1 『現代史資料6』 18頁、 及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』158頁)。 当時、都心の中央政府から船橋の送信所への伝令は伝騎による使者を走らせるしかなかったことも併せ考え、内務省警保局長からこれらの打電の指示がなされたのは、 9月2日午後より以前のことであったものと判断される。
  これらの内務省警保局長発の打電は、いずれも客観的事実に基づくものではないことは、前述のように、当時の警察文書が記載しているところからも明らかである。
  当時の警察組織の体制からすれば、かかる打電による情報連絡は各府県の知事ないしは内務部長に到達していたことは十分に考えられる。 右伝達により各府県はつぎにみる埼玉県のように各市町村に同様の情報を伝達し、これが自警団を組織する下地となり、 また自警団をして虐殺にかりたてる結果をもたらした可能性を否定できないのである。

(3)行政機関による虚偽の事実認識の伝達と自警団の組織
  内務省警保局の上記のような命令は、船橋送信所からの打電を待つまでもなく、電報や担当者等による協議によって隣接近県に対して伝達された。 そして、内務省警保局長から各地方長官等宛のこのような命令を受けて、各地の地方行政庁は、これを管下の各郡役所・町村に伝達して、 「十分周密なる視察」 と 「厳密なる取締」 の対応を取らせた。

  この経緯については、大正12年12月15日の衆議院における、永井柳太郎の質疑に、 以下のとおり取り上げられている (「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 104頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 477頁以下、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 65ないし72頁所収)。 「斯う云うような電報が其当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、 又、其命令を管下の郡役所に伝え、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」

  埼玉県については、以下の事実が指摘されている。「埼玉県の地方課長が、9月2日に東京から本省との打合せを終えて、午後の5時頃に帰って来まして、 そうしてそれを香坂内務部長に報告をして、其報告に基いて香坂内務部長は、守屋属をして県内の各郡役所へ電話を以て急報し、 各郡役所は、其移牒されたるものを、或は文書に依り、或は電話によって、之を各町村に伝えたのであります。」 (上記永井柳太郎の質疑 「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 106頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 480頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 67頁所収)
  その移牒の内容は、永井柳太郎によれば下記の内容であったという (その経緯については後述する)。
  『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、 而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、 一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』
  この質疑における事実摘示は甚だ具体的であり、かつ上記電報の内容・性格と整合性を有するので、その指摘する内容は信憑性が高いと評価できる。

(4)刑事事件判決に判示された事実
  このような経過は、朝鮮人に対する虐殺行為について検挙され、公訴提起された自警団員らの刑事事件判決 (資料第4の1ないし5) においても明らかにされている。

(ア)片柳事件判決外の浦和地裁判決
  前掲の浦和地方裁判所大正12年11月26日判決 (資料第4の5) は、 当時の埼玉県北足立郡片柳村における朝鮮人に対する殺人被告事件 (いわゆる 「片柳事件」) である。 前記のとおりこの事件は、自警団が日本刀や槍等を携帯して警戒に従事中、被害者である朝鮮人が差し掛かったところ追跡し、槍で胸部を突き刺し、 転倒したところを日本刀で左肩辺を斬りつけ、頭部を槍先で殴打したが、被害者は起きあがって逃げようとしたのでさらに日本刀で右腕や腎部を斬りつけ、 後頭部を槍で突き刺して、その結果死亡に至らしめたという残虐かつ酸鼻なものであるが、当時の朝鮮人虐殺の典型的な事件ともいえるものである。
  この事件の判決は、その理由中に、このような虐殺行為に至った経過について以下のとおり判示している。 「不逞鮮人が過激思想を抱ける一部の内地人と結託して右震災に乗じ東京市等に於て盛んに爆弾を投じて放火を企て或は井戸へ毒物を投入する等残虐の所為を敢てし・‥ との流言浮説頻に喧伝せられ同村地方民は痛く之に刺激を受け興奮し居れる折柄県当局者に於ても咄嵯の間当時誤風説の根拠たる帝都における鮮人の不逞行為に付き 其裏偽を探究するの術なかりしより万一の場合を慮り翌二目の夜所轄郡役所を介して夫々管内の町村役場に対し 予め消防手在郷軍人分会青年団等の各首脳者と協議し警察官憲と協力の上叙上不逞の輩の襲来に備うべく自警の方策を講ぜられたき旨の通牒を発したるより 被告等居村民も亦同月3日夜より各自日本刀槍等の凶器を携帯し居村内に於て之警戒に従事中‥・」(同第3丁)。
  このように片柳事件の判決は、「県当局者」 が9月2日夜、 東京等で朝鮮人が放火や井戸への毒物の投入などの不逞行為を行っているという風評について真実かどうかの確認の時間もなかったため、郡を通じて町村に対し、 在郷軍人会、青年団、消防団等に警察等と協力のもとに不逞の輩の襲来に備えるための 「自警の方策」 をとるようにとの 「通謀」 を発したことにより、 自警団が日本刀などで武装して警戒し、朝鮮人に対する無差別的な殺人に及んだことを事実認定しているのである。
  この経緯は、浦和地方裁判所における前掲の神保原事件、寄居事件、熊谷事件、本庄事件、妻沼事件 (いずれも大正12年11月26日判決) の各判決においても、 いずれも同様の事実認定がなされており、これが埼玉県内の各地における朝鮮人虐殺事件に共通する背景事実であることを示している。

(イ)国会質疑にあらわれた 「通牒」 の内容
  なお、判決において判示されている 「通牒」 の内容は、次のようなものであったと伝えられている。 すなわち上記永井柳太郎の質疑 「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 106頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 480頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 67頁所収) によれば、「現に浦和地方裁判所に於きまして、 大里、児玉両郡々書記が陳述致しました証書に依ってもその移牒電話は大体次の如きものであったのであります。 『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、 各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、 至急相当の手配相成りたし』 と云うことであります。」 との事実が指摘されている。このように、この通牒文は当時書証として残っていたことが明らかであり、 その内容は上記判決に判示された通牒の内容とほぼ同じである。

(5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録
  千葉県八千代市で発生した自警団による虐殺については、八千代市が1979年に編集・発行した 「八千代市の歴史」(資料第4の9) に記録されている。 同書549ないし550頁によれば 「村の各区では自警団が組織され、鳶口、槍、日本刀、猟銃などを持って部落の入口の警備にあたりました。 また、高津廠舎に軍の命令で朝鮮人を引き取りに行って殺害したりしました。大和田地区では数人が殺されたといわれています。」 と記載されている。 この調査結果を裏付ける貴重な資料として、当時の地域住民の日記 (資料第4の10) が保存されている。
  大正12年9月の部分、3日の欄に、次の記載がある。「区長の引続ぎ (ママ) をやる。(中略) と決定。一切を渡す。 夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」 (資料第1の6、資料第4の10 『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 6頁)。
  これは、自警団を組織して不逞鮮人の警戒に当たることになった経緯が、役所からの通知によるものであることを示している。 その結果、軍の指示により、拘束されていた朝鮮人を、地域の自警団貝が引き取って殺害するという事態が引き起こされるのである。 この事実も、自警団による朝鮮人虐殺が、内務省警保局からの命令と、これによる地域 (村役場) 毎の指示に基づくことを示している。

(6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について
  前述のとおり、震災発生直後の9月3日、戒厳令が発せられた。この勅令第401号戒厳令に基づく関東戒厳司令官告諭 (大正12年9月3日) は、 次のように述べている。
  「・・・本職れい下の軍隊及び諸機関 (在京部隊のほか各地方より招致せられたるもの。) は、全力を尽くして警備、救護、救じゅつに従事しつつあるも、 この際地方諸団体及び一般人士も、また、自衛協同の実を発揮して災害の防止に努められんことを望む。
(ア)不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加するの不利を招かざること。」(資料第4の7 『関東大震災から得た教訓』(陸上幕僚総監部第三部)9頁)。
  また、戒厳令司令官令(大正12年9月4日)は、次のように述べている。
「軍隊の増加に伴い、警備完備するに至れり、よって左のことを命令する。
(ア)自警のため、団体若しくは個人ごとに所要警戒法をとりあるものは、あらかじめ、もより警備隊、憲兵又は警察に届出でその指示を受くべし。
(イ)戒厳地域内における通行人に対する誰何、検問は、軍隊憲兵及び警察官に限りこれを行うものとす。
(ウ)軍隊、憲兵又は警察官憲より許可するにあらざれば、地方自警団及び一般人民は、武器又はきょう器の携帯を許さず。」 (資料第4の7 陸上幕僚総監部第三部著『関東大震災から得た教訓』 15頁)

  これらの告諭及び命令は、「不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加する」 事態の存在を前提にしており、 こうした状況が生じてしまっていたこと(ないしその懸念が生じていたこと) を示している。 そして、自警団を初めとする一般人による、通行人に対する誰何、検問、武器・凶器の携行が行われていたところ、 軍隊による警備完備に伴って、そのような事態を変更しようとしたことを示している。
  このように不逞団体蜂起の流言飛語の流布という状況は自警団による虐殺行為の前提として存在していたのであり、 戒厳司令官はこのような事態を認識したうえで、その転換を図る挙にでたのである。
  これは、こうした事態が国家的関与と国家的政策の支配の下におかれていたことを示しているともいえる。

(7)流言飛語の発生・自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺
  朝鮮人の不逞行為云々はまったく事実ではないにもかかわらず、国 (内務省警保局) は、 朝鮮人が放火・爆弾所持・投擲・井戸への毒物投入等をおこなっているという誤った事実認識および 「周密なる視察を加え、 鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加え」 るべきであるという指示を、海軍送信所からの無線電信により全国に伝播させ、 また、電報や県の担当者との会合において各県担当者に伝達した。これにより、各県の地方長官は、通牒を発して管下の各部役所、さらに管下の町村に伝達した。 すなわち、内務省警保局と県の地方課長の打合せの下に、朝鮮人による不逞行為の発生という認識と、これに対する監視と取締りの要求が、 県内務部、郡長、町村長のルートを通じて伝達され、消防、青年団を通じて自警団を組織し、自衛の措置を講ずることを指示した。 これが各地における朝鮮人殺害等の虐殺行為の動機ないし原因となったものである。
  上にみたとおり、埼玉県においては、『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、 而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、 一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』 との通牒により、各町村において自警団が結成され、 また、朝鮮人は東京において暴行をなし、埼玉県下においてもいかなる蛮行をなすやもしれないとの誤った認識を自警団はもちろん地域住民に広くひろめた。 そして、これが自警団員等において朝鮮人の殺害行為等の動機を形成する重要な要素となったものである。
  内務省警保局との打合せに基づいて県内務部長から各部役所、各町村へと通牒が伝達指示されたことが現在はっきり確認できるのは埼玉県の場合にとどまるが、 同様にして、内務省警保局長の打電は各町村の末端に至るまで徹底されたと考えられ、これにより、朝鮮人の放火、爆弾所持などの 「不逞行為」 の存在は、 中央政府の治安当局の指示・命令として確認された事実として周知徹底され、各地において朝鮮人に対する監視と取締りの体制が採られたのである。 「武装」 という指示は具体的に示されているわけではないが、当時の状況からすると、それが前提とされていたと考えられる。
  各県庁に県知事の掌握する警察部があり、市と郡役所所在地に警察署、その他の町に警察分署、村には巡査駐在所が置かれた。 さらに警察だけでは力が及ばないときには、自警団が補助警察として出動した。なお首府の警察としては警視庁があり、これは警保局と並び、内務大臣の直轄であった。
  このように、各県の警察部は上記のように内務省警保局長の下に位置し、その指揮下にあったのであり、警保局からの指示によって、 警察組織はその指示どおりに動いた。

(8)当時の政府機関における朝鮮人に対する考え方
  なお、政府機関において朝鮮人に関する虚偽の事実を伝達させ流言蜚話を生じしめた背後には、朝鮮人を危険視する考え方があったことを留意すべきである。
  1910年の日韓併合以後、韓国国内において反日独立運動は根強く存在し、1919年3月1日を期して始められた三・一独立運動は、全国土に広がり、 200万人以上の朝鮮人が参加した。この運動は7500人を越す死亡者、15000人を越す負傷者を出して終わったが、日本の為政者には強烈な印象を残した。

表一 運動参加者数と被害状況
          【参加者数]  [死亡者数】  【負傷者数】   [逮捕者数]
京畿道         665900     1472     3124       4680
黄海道         92670      238      414       4218
平安道         514670     2042     3665      11610
咸鏡道         59850      135      667       6215
江原道         99510      144      645       1360
忠清道        120850       590     1116       5233
全羅道        294800       384      767       2900
慶尚道        154498      2470     5295      10085
懐仁・竜井・奉天・  48700       34      157         5
満州・その他
総計         2023098      7509    15961      46948

注−朴殷植《韓国独立運動之血史》(上巻)による。朴殷植の統計では道別統計と総計が一致しないが、郡別統計に空欄が多いため、総計をそのままとった。 被害にはこの他にも教会の毀焼47や、毀焼民家715が数えられている。
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  日本においても、朝鮮人の参加する労働運動、反日運動は、規模の大小は別として存在し、 関東大震災の直前にあたる1921年から1922年にかけて東京朝鮮労働同盟会や大阪朝鮮労働同盟会が結成され、 1922年5月のメーデーには在日朝鮮人がはじめて参加するという状況があった。
  これに対し、1922年刊行の内務省警保局編朝鮮人概況では 「最近内地在留鮮入学生中漸次共産主義に感染して内地社会主義に接近するものあり」 とされ、 同1923年5月14日付内務省警保局長の 「朝鮮人労働者募集に関する件依命通牒」 は、 在日朝鮮人は 「往々にして社会運動及労働運動に参加し団体行動に出んとする傾向の特に著しきものあり」 と、各庁府県長官に警戒を促している。 また、この年の5月1日の東京メーデーに際しては、警察は会場入口に 「鮮人掛」 「主義者掛」 などを置いて彼らを理由なしに検束するなどした。

(9)マイノリティー保護に関する国際的認識
  本件の虐殺に関する国の責任を論ずるにあたって、当時の国際的認識は次のようなものであった。

 @日本政府は、国際連盟規約を検討する場で、アメリカに移住した日系人への差別を批判し、日系人を保護する目的で、 国際連盟規約に人種平等条項を含ませるべきことを主張していた。(大沼保昭、国際法、国際連合と日本427ページ所収「はるかなる人種平等の思想」)
  朝鮮人、中国人に対する大規模、深刻な虐殺被害がおこった背景には人種差別があったことは否定できないところであり、 かかる国際的な場で差別防止を主張していた日本政府が国内においてマイノリティー保護の責任を負っていたことは否定することはできないことは見やすい道理である。

  A常設国際司法裁判所は、ドイツがポーランドに返還した領域におけるドイツ系定住者事件 (1923年) アルバニアの少数者学校事件 (1935年) などにおいて実質的平等についての原則を発表した。
  これは、後に国連憲章1条3、55条に盛り込まれる人種差別の防止という国際規範が、すでに古くから人類共通の規範として確認されていたことを示すものである。
  このように、国のマイノリティー保護責任、および、人種差別を規律する国際規範は、この当時から無視できない規範として存在していた。

4 結論
  以上の事実および背景事情から、少なくとも埼玉県においては、国 (内務省警保局) が地方長官 (各県内務部) を通じて通牒を発し、 これにより各郡ないし各町村に至るまで、震災に乗じた 「不逞鮮人」 による放火、爆弾投擲、井戸への毒物投入などの不法行為や暴動があったとの誤った情報を、 内務省という警備当局の見解として伝達・認識せしめたこと、これに対する警備と自警の方策 (自警団の結成) を講じるように命じたことが、 民衆の朝鮮人への暴力と虐殺の動機になったことが認められる。
  したがって、自警団による朝鮮人虐殺について、戒厳令宣告の下、殺害の実行主体である自警団を結成するよう指示し、 また、朝鮮人に対する殺意を含む暴行の動機づけを与えた点で、国の責任は免れない。

第5章 再発防止の重要性

1 以上検討してきたように、軍隊による国の直接的な虐殺行為はもとより、内務省警保局をはじめとする国の機関自らが、 朝鮮人が 「不逞行為」 によって震災の被害を拡大しているとの認識を全国に伝播し、各方面に自警の措置をよびかけ、 民衆に殺人・暴行の動機付けをした責任は重大である。
  しかるに国はその責任をあきらかにせず、謝罪もしていない。そればかりか、国として虐殺の実態や原因についての調査もしていない。
  虐殺の規模、深刻さにかんがみると、長期にわたるその不作為の責任は重大であるといわなければならない。
  国のこれら亡くなられた被害者やその遺族に与えた人権侵害行為の責任は、80年の経過により消滅するものではなく、 事実を調査し、事件の内容を明らかにし、謝罪すべきである。

2 最近でも在日コリアン、特に朝鮮学校の児童・生徒に対するいやがらせがなされた事実がある。 1994年の 「北朝鮮核疑惑」 の際、あるいは1998年の 「テポドン報道」 の際に、 民族服であるチマ・チョゴリを着ている朝鮮学校の女生徒に対する多数の暴行や脅迫事件が起きたことは記憶に新しい。 そして昨年来、朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) による日本人位致事件を同国政府が認め、位致事件の実体が明らかにされるにつれて、 在日コリアン、特に朝鮮学校の児童・生徒に対する暴行・脅迫、いやがらせや危害の予告等が続いている。 例えば、朝鮮学校に通う子どもが、登下校中、駅のホームや電車の中で腕を捕まれる、民族衣装のチョゴリを引っ張られる、 「植民地時代に朝鮮人を全員殺しておけばこんなことにはならなかった」 ・ 「朝鮮に帰れ」などと言われる、 すれ違いざまに「拉致」と言われるなどの被害を受けている。あるいは、朝鮮学校のホームページの掲示板への書き込み・手紙・電話などにより、 朝鮮学校の子どもに対する危害の予告が行われ、そのために一時的に休校せざるを得なかった例もある (資料第5の2、日弁連会長声明、同緊急アピール)。
  このような出来事を考えれば、予測できない大きな事件や災害が起きたとき、今の日本でも流言飛語などの影響で在日外国人に不当な民族差別と嫌悪感、 排斥的感情を引き起こす可能性があることを自戒すべきである。
  事件発生80周年の今こそ、国が事件発生の原因を事実に即して究明すべくただちに調査に着手すること、事件発生にかかわる重大な責任をみとめて謝罪すること、 そのことを通じてかかる重大なあやまちを再発させないとの決意を内外に明らかにすべきときである。

  以上の調査た基づき、主文に記載したとおり、
  第1に、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人虐殺に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、遺族、 および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪すべきである。
  第2に、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。
  
  との頭書の勧告に及んだ次第である。
以 上

【資料目録】
第1 関東大震災の罹災と虐殺の発生について
資料第1の1 『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』 みすず書房1973年
資料第1の2 『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料K朝鮮人虐殺関連官庁史料N』 緑陰書房1991年
資料第1の3 『関東大震災政府陸海軍関係史料J巻 政府・戒厳令関係史料』 監修松尾章一編集 平形千恵子・大竹米子1997年 日本経済評論社刊
資料第1の4 『関東大震災政府陸海軍関係史料K巻 陸軍関係史料』 監修編集発行年度 前書に同じ
資料第1の5 『関東大震災政府陸海軍関係史料L巻 海軍関係史料』 監修編集発行年度刊行社 前書に同じ

第2 戒厳令の発布について
資料第2の1 『戒厳令』大江志乃夫著 岩波書店1978年
資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文『関東大震災政府陸海軍関係資料L巻陸軍関係史料』 139頁

第3 軍隊による虐殺について
資料第3の1 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」(『関東戒厳司令部詳報第三巻』 所収 「第四章 行政及司法業務」 の 「第三節 付録」 付表。 資料1の4所収)
資料第3の2 『震災後に於ける刑事事犯及之に閑聯する事項調査書』 「第十章 軍隊の行為に於いて」 の 「第四 千葉県下における殺害事件」(資料1の1)
資料第3の3 『十一月九日丸山、大迫両人大島町中国労働者被害事件調査、八丁目惨殺の件』
資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』
資料第3の5 在北京立田内務事務官翻訳作成の綜麟祥による大正13年8月14日付け中国人黄子連聴取書−『支那人誤殺事件宣伝者に関する件』。
資料第3の6 黄子連の姪である黄砕乃 (フアンツイナイ) の証言 (仁木ふみこ『震災下の中国人』 178頁)
資料第3の7 「支那人被害の実状踏査記事」(仁木ふみこ 『震災下の中国人』(仁木ふみ子氏はこの目撃者の氏名を特定しているが、 プライバシー保護のためこの報告書では、氏名をふせた。)
資料第3の8 『江東青ばなし』
資料第3の9 『遠藤日記』
資料第3の10 『久保野日記』

第4 自警団による虐殺について
資料第4の1 本庄事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の2 神保原事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の3 寄居事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の4 熊谷事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の5 片柳事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の6 藤岡事件判決 (前橋地方裁判所1923年11月14日判決)
資料第4の7 『関東大震災から得た教訓』 陸上幕僚総監部第三部 (1960年)
資料第4の8 『大震災対策研究資料』 警視庁警備部・陸上自衛隊東部方面総監部編
資料第4の9 『八千代市の歴史』 1979年八千代市編集・発行
資料第4の10 『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 青木書店1983年6頁

第5 国の対応と責任
資料第5の1  共同通信配信記事 (1999年4月7日)
資料第5の2  2002年12月19日付け日弁連会長声明、同緊急アピール