「ETV2001番組改変事件」 の現在 最高裁 4月27日口頭弁論 東京高等裁判所は2007年1月29日、ETV2001番組改変事件でNHKらの責任を認める判決を下したが、 この件につき、最高裁判所は、ことし2008年4月24日に口頭弁論を開くことを決定した。かなり早い。 通常、口頭弁論が開かれる際には、高裁判決が見直され、逆転判決になることが多い。 しかし、本件は複雑である。見通しを立てにくい。 というのは最高裁判所は、NHKらの上告受理申立 (判例違反などを理由としなければならない) を受理したが、 同時、に原告バウネットの付帯上告受理申立も受理する決定をしているからである。(NHKの憲法違反を理由とする上告申し立ては棄却された。) この手続きの意味をはじめに理解しておこう。高裁判決は詳しい番組改編にいたる経過を詳細に事実認定した上で、 1、国際女性法廷の取材に応じたバウネットの信頼と期待NHKが反したこと、2、説明義務違反があったこと を不法行為とするNHK敗訴判決を下した。 1、2の点につき上告受理が受理されたのだからこの点ではNHK有利の結論が出るのではないかとの観測もありうる。 しかし一方で、バウネットによるNHKとバウネットとの契約またはそれに近い関係があるとする債務不履行責任 (説明義務違反) を主張した上告受理 (厳格には付帯上告受理申し立て) も受理決定されたのだから、 債務不履行による説明義務違反という理由ではバウネット勝訴の道もあるのではという見方もありうる。 しかし、判決の行方をあれこれ占っても仕方がない。いま大切なことは、 控訴審判決が行った詳しい事実認定とそれが投げかけた論点をこの時機に再考察してみることだと考える。 憲法判断が出ることはありえない。NHKの憲法違反を理由とする上告は棄却されたからである。 しかしことは取材の自由、報道の自由とは何かという根本問題に関わる。やはり憲法論として、原理的な検討を加えるべきだと思う。 控訴審判決の認定した事実と論理の概要 <事実> 1. NHKにおいて国際女性法廷を扱うドキュメンタリー番組を制作することを決め、NHKエンタープライズ (以下「NEP」という)、 ドキュメンタリージャパン (以下 「DJ」 という) と番組制作委託、再委託が行われた。 2. DJの取材申し入れに際しては、NHKの番組提案票が示された。NHKの放送がなされることを前提として、バウネットは代表松井やよりがインタビューに応じ、 リハーサル会場への入場と取材、他のメディアが許されなかった法廷会場1階のビデオ撮影の許可などの便宜提供と協力が行われた。 3. 紆余曲折の末、1月28日NHK吉岡教養番組部部長立会いの試写を経て、規格どおりの44分版が制作された。 4. 1月29日午後、首相官邸においてNHK松尾放送総局長ら3名に対し、安倍晋三内閣官房副長官 (当時) が従軍慰安婦問題についての持論を展開し、 番組につき公正中立の立場で放送すべきと述べた。このくだりのなかで、判決は特に副長官のホームページに言及し、 番組につき、「偏っている」 と理由を付けて同副長官が明言していることも認定している。 5. 同29日夕方、国会担当の野島綜合企画室担当局長という番組制作のラインに関係のない幹部が加わり、松尾放送総局長、伊藤番組制作局長、 吉岡教養番組部部長、永田チーフプロディーサー、長井デスクが参加した試写会後、天皇を有罪とする部分などの削除が決定されて43分ものが出来上がった。 6. 放送当日の1月30日、NHK海老沢会長と協議を経た伊藤幹部による指示で、元日本軍兵士と、元慰安婦の女性2名の証言シーンが削除され、 43分ものが40分ものに短縮されて放送テープとなり、この日の午後10時に放送された。 以上が判決で認定された番組改変についての事実経過の核心である。 取材に協力した人々、特に原告となったバウネットの信頼は蹂躙された。 高裁判決はNHKの法的責任をどう考えたのか。 <高裁判決の論理構成> 控訴審判決は、取材者の言動などで、期待を抱いてしまうやむを得ない特段の事情があるときは、編集の自由も一定の制約を受け、 期待と信頼が法的に保護されるとして、不法行為の成立を認めた (52頁)。 判決はDJのディレクターが事前の説明で番組提案を文書で示したこと、非公開の運営委員会の傍聴や撮影を行ったこと、 代表者に1時間から1時間半にわたるインタビュ一を行ったこと、会場の下見に同行し、非公開のリハーサルを取材・撮影したこと、 開催当日も他のメディアには許されなかった1階での取材・撮影を行ったことを認定している。 そして、バウネットは、NHKで放送されることを前提に、これらの取材活動に全面的に協力したことも認定した。 かくしてバウネットの、期待の度合いは具体的となり順次高められていった。その上で特段の事情があると認定した (52〜56頁)。 そして上記の突然の番組改変を期待と信頼の侵害とし、加えてその際の説明義務違反をNHKらの不法行為として損害賠償を認容したのである。 NHKには200万円、NHKから委託を受けたNEP及び再委託を受けたDJには 100万円の責任が認定された。 判決中、NHKが政治家の意向を過度に忖度 (そんたく) した結果バウネットの自己決定権を侵害したとし、法的責任を認めたことは、 報道の自由への政治家の干渉に敢然と立ち向かわなかった放送局幹部の責任を指弾する判断として歓迎された。 しかし一方において、取材される側の 「期待」 によって編集の自由が制約されることを懸念する声も上がった。 判決を検討しつつ、今後の取材者と取材される人々との関係の方向性を、憲法上、法律上の論理として検討してみよう。 <判決の評価> 高裁判決のたてた信頼と期待という規範にメデイア側の一部で戸惑いや違和感があるのだが、次の点に留意して、論ずるべきであろう。 第1に判決のいう特段の事情論である。 本件はニュース番組でなく、ドキュメンタリー番組であり、しかも紆余曲折を経て、NHKから再委託を受けたDJの取材者に特別の便宜、恩恵が与えられ、 かつまた女性法廷主催者を代表する松井やより氏 (故人) ほか関係者のインタビューの機会が与えられた。 信頼と期待というよりは、むしろNHKら番組製作者側から出演依頼契約があったとみるかそれに準ずる契約類似の関係があったともみられるのである。 高裁判決の事実認定は入り組んでいて詳細を極める。それは特段の事情という要証事実の存否の判断に際して、複雑な物語を整理しつつ、 論理の中核部分に接近する努力だったのであろう。 そうだとすると、報道関係者による論評では判決の事実認定と論理構成に即した批評が要請される。 面倒ではあっても、特別の関係 (特段の事情) があったのか否かにつき、判決内容に即して観察すべきだと考える。 判決が絞りに絞って、ある特定の場合に信頼と期待を保護すべきだとしている点に着目したい。 この点に関連して言うと、NHKは番組改変と説明義務違反により、 契約上の義務に反したから債務不履行だとするバウネットの上告受理申し立てが最高裁で受理決定されていることは興味深い。 取材した人すべてに拘束されるのでは、取材の発展性や取材の自由への足かせとなるが、 現場の関係が、出演依頼契約やそれに準ずる社会的関係にまで高まっているときには、何らかの説明義務が生ずると考えてもよいのではないか。 特別な関係が契約関係にまで高まっているときは信義則により、突然の番組変更に際して法律的な説明義務が生ずると見てよいのではないか。 こういうバウネットの問いかけに最高裁がどう答えるかが注目される。そしてこの問いかけは取材にあたるメデイアの人々にも向けられた問いでもある。 第2に編集権概念と憲法21条の報道の自由とを峻別すべきである。 編集権という概念は直ちに報道の自由とイコールで結ばれる言葉ではない。それは、メディア産業の労使関係の角逐の中で生まれ、 ジャーナリズムの使命と経営の利益のバランスをとる責任と権限は経営者に属するというメディア経営者の論理である。 最近この概念は相対化され、編集権が現場のメディア労働者にも享有され、 編集企画に反映されてこそメディアが市民のものに近づくというメディア内部からの声もあがっている (藤森 研元新聞労連委員長 原 寿雄編 「市民社会とメディア」)。 この考え方は、次に述べる知る権利に奉仕する報道の自由という考え方の基礎ともなり、かく考えてこそ報道への公権力干渉に完全と立ち向かえるのである。 NHK最高幹部は編集権概念を、本件放送直前の番組改変を正当化の根拠としたいようであるが、 最近の議論の発展や次に述べる報道の自由に関する憲法論から見てそれは妥当しない。 報道の自由、取材の自由は憲法21条から導かれる。憲法21条の条文を目を皿のようにして読んでも報道の自由、取材の自由の文言はない。 しかし、数々の報道の自由をめぐる論争の中で解釈上報道の自由、取材の自由を憲法21条に根拠をおくとの解釈が憲法学説の通説となり最高裁判例ともなっている。 (最高裁昭和44年11月26日 博多駅取材フィルム提出命令事件ほか) さて表現の自由 (憲法21条) は基本的人権であるから、放送局や新聞社、雑誌社などの法人の利益のための保障規定ではない。 それは尊厳をもった存在である個人のための市民的自由として保障根拠を持つ。 前記博多駅事件の判例が、「報道機関の報道は民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供し、 国民の知る権利に奉仕するためのものである。」 と述べていることが改めて銘記されるべきであろう。また次の学説にも注目したい。 すなわち 「〔言論報道機関は〕 言論報道機関であるという一事によって、個人の自由と同じ性質、 内容の表現の自由を無媒介に語るべきではない」 「これらの機関といえども他の集合体、制度と同じように、 個人の自由やそれを行き渡らせるための社会的な効用と関わるから、 そのかぎりで、派生的にあるいは反射的に表現の自由を共有すると考えるべきなのです」 (奥平康弘東大名誉教授 民放連研究所編 「放送の自由のために」) (マスメディアは) 「自分の生き方を自ら考え、決定する個人と同様の意味における表現の自由を共有しない」。 「(その) 表現活動が、国民の知る権利に奉仕し、 その既決として民主的政治過程の維持や受けてとなる個人の自立的な生を支える基本的情報の提供など社会全体の利益を実現すること」 を根拠として表現の自由を共有する (長谷部恭男東大法学部教授 「憲法第3版」 弘文堂2004年)。 本件の経過に即すると、表現の自由は、DJの取材者、放送前日である1月29日、上部からの4分の削除の指示、命令と対抗したNHKの現場の政策責任者、 それに法廷実行委員会代表松井やより氏、インタビューを受けた兵士、従軍慰安婦当事者らの出演予定者ともいうべき人々にあり、 そしてその背景には国民の知る権利があった。 これと対立したのはNHKという組織の報道の自由ではなく、経営政策としての編集権だった。 しかもその編集権たるや政治家の放送前日の干渉発言を受け、国民の知る権利に奉仕する報道機関の役割にそむく方向にたった編集権の濫用的行使だった。 くどいようだがここを繰り返すと次の利益、価値の衝突が問題となっているのである。 一方において国民に真実を知らせようとする現場の人々とこれに協力する被取材者の表現の自由があり、 憲法上これは個人の尊厳と国民の知る権利に根拠を持つが故に最高の価値とされる。 一方は政治家の意向にそむくと、国会対策がうまくいかなるという経営上の価値である。経営判断と報道の本来の使命とがぶつかり合ったのである。 この衝突の中で選択された経営上の判断が政治家の意向の忖度なのであった。 そしてそのことにより出演契約またはそれに準ずる関係にたったものの表現の自由とその行使の手段としての放送の機会が奪われたのである。 ならばせめてそのことの事前説明はなされるべきであり、そうすれば番組への協力者たちは自己の発言、肖像の提供の撤回も可能となり、 または事前の差し止め、対抗言論も可能となったのにその機会は奪われた。 つまりNHKは政治家のほうには顔をむけたが現場のスタッフ、取材協力者、そして国民には背を向けたのである。 高裁判決はこうした特別な事実関係に着目して限定的な規範を定立し、慎重に結論を導いたのである。 <まとめ> 最高裁の口頭弁論、ならびに判決に向けて ──メディアに望みたいこと── 本件は放送前日の有力政治家の介入発言があり、すでに完成された四四分の放送パッケージから核心ともいうべき旧日本兵の発言、 従軍慰安婦体験女性の発言、など四分分が放送パッケージから削除され、 その番組改変が政治家の意向を忖度して行われたことがすでに裁判所の事実認定によって確定しているレアなケースである。 高裁の認定した事実の経緯を前提としつつ、 取材した人々と取材された人々との関係を規律する規範はどうあるべきかについての最高裁の判断が示されることは必須である。 そしてその際、衡量される対立法益、価値が何なのかが重要である。 政治家の意向を忖度したNHKの上層幹部の編集権の行使の優越性 (編集権概念の確定と限界) と、 現場の編集スタッフならびに取材された人々の発信の価値 (表現の自由) とが、正しく比較衡量され、 表現の自由保障は何のためにあるか (憲法二一条の保障価値) という上位概念に照らして判断されるべきなのである。 このように考えるとき、期待と信頼が報道の現場を萎縮させるから、報道側としては支持できないなどというメディアセントリックな論評、報道ではなく、 国民の知る権利に奉仕する報道はどうあるべきか、その使命に照らしてNHK経営幹部の対応は、いかなる歴史の審判を受けるべきか、という、 より広く、より次元の高い論議のアジェンダをメディアに設定していただきたい。 そのような議論こそが、四月二七日の口頭弁論と判決の結論を真の自由、個人の尊厳の保障にとって意義あるものとし、 心ある裁判官たちの共感を呼ぶことになると信ずるのである。 放送レポート 212号 (2008年5月)
|