トピックス   梓澤和幸

大東文化大学法学研究所主催シンポジウム
「激論 part2 裁判員制度はうまくいっているのか?」

−参考資料−

2009年12月14日 梓澤 和幸

 裁判員制度はうまくいっているかということが私に与えられた問いですが、この問いの前提として問題にしなければならないのは、 裁判員制度というシステムがどのような対立する利害、対立する意見の交流の中で生まれたか、です。

 この問題設定について専門的な研究者、例えば柳瀬昇准教授は国民啓蒙の構想と国民参加の構想の妥協と言っていますし、 四宮啓教授は職業裁判官の事実認定能力への批判を棚上げしたうえで制度設計がされている、という整理をしています。 私は職業裁判官の行う裁判への正統性付与と職業裁判官の乗り越え(超克)という構想の妥協と見ています。 短い言葉で言うとわかりにくくなりますが、敷衍して中学生・高校生にもわかるように考えを述べてみます。

 この答えを知るには、なぜ今までの裁判では不足していたのかという議論の出発点を辿ることです。 それは、何より殺人事件という、被告にとって有罪・無罪が人生の運命を左右するような重大な事件で誤った裁判が続いたということです。 代表的なのは地裁・高裁・最高裁の11人の裁判官の目を通したのに死刑の間違った裁判が続いたということです。 今も新聞などに登場して発言しているのは免田栄さんですが、3つの裁判所で死刑判決が続いたのです。 日弁連の再審を取り上げるグループの人たちが死刑判決に待ったをかけながら再審申し立てを繰り返したために、死刑執行は免れました。 裁判所の判断だけでは、死刑が実際に行われたかもしれません。再審で新しい証拠を出してやっと命が助かったのです。 間違った死刑判決が、再審で正されただけを数えてみても4件もあります。恐ろしいことだと思います。

  新しい事件を見ましょう。足利事件の例があります。被告の菅家さんは最高裁まで無罪を争いましたが、DNA鑑定に惑わされ、 裁判官達は誤判にメスを入れることができず、菅家さんは17年半、44歳から61歳まで刑務所で苦しみました。 なぜ裁判が間違うのか、なぜ何回も判断を繰り返しても前の裁判の過ちを直せないのか。 これが謎です。足利事件でみれば古いDNA鑑定がお粗末だったからと誤解しがちですが違います。 やって無くても警察が、此奴がやったと狙えば、別件逮捕で引っ張って長い厳しい取調べを行い、これに降参して 「私がやりました」 と言わされてしまう。 何通もの自白調書ができます。裁判官の前に自白調書が出されると 「やってない人がやったと言うはずがない。」 と嘘の自白を信用するのが職業裁判官のならい、 性となった考え方です。有名な誤判事件は、ほとんどすべて別件逮捕で引っ張り、自白させた事件です。

  弁護士が、この自白は嘘だ、その証拠がある、この自白は無理矢理言わされたといっても、官である職業裁判官は被告よりも警察を信じます。 ギリギリこれはおかしいと思い始めても前の確定裁判をひっくり返すことを嫌います。官だからです。 これではいけない、素人の常識を入れよう、外国には陪審の歴史がある、という提案を弁護士と弁護士会が行ったのです。

 ところが、それを認めると検察と裁判の権威はガタ落ちし、先輩の業績を否定することになるので、制度設計の際に弁護士会の考え方は目の敵にされ、 職業裁判官乗り越え(超克)の考え方は棚に上がり、裁判官の判断につっかえ棒(正統性の付与)と国民を啓蒙するという目的が強調されたのです。

 その結果が、裁判員になることは義務であるとか体験したことは喋ってはいけない(守秘義務)という制度になったのです。 コーディネーターのご質問に裁判員の負担とか守秘義務は良い働きをしているか、という質問がありましたが、この答えは以上の説明の中に表れていると思います。 出席を求められる裁判員候補の人たちにはなぜ制度ができたのか、なぜ義務を負うのか、を理解することはかなり難しいと思われます。 そこから負担感が生じているのです。

 公判前整理手続について
  ここでは公判前手続と言います。公判前手続は本格的否認事件では1年の長さにもなります。 明けて裁判員法廷になったときにせいぜい1週間で終わります。裁判員制度が適切か、うまくいっているかと言う時、公判前手続がどのように行われているか、 も評価の対象としなければなりません。しかし、運営の実態はほとんど報道ではわかりません。 弁護士の体験報告や同僚からの聴き取り等によって断片的な事例がわかるだけです。
  報道される記事の中に、ほとんど決まっていることをやらされただけという裁判員の不満が報道されたことがあります。 つまり、こういうことだと思います。すなわち、有罪か無罪か、どのような刑がふさわしいか、という議論(評議と言う。)と採決(評決と言う。)の直前に至った時、 裁判員がこれこれのアリバイ証人を調べて欲しい、これこれの情状証人を調べて欲しい、これこれの再鑑定をすべきだ、 ということを言っても、自分が参加していない公判前手続で決定された証拠調べの範囲を変更することはできません。 やらされているだけと思わない方がおかしいと思います。公判前手続の拘束性をゆるめなければダメです。

 守秘義務について
  守秘義務を負わされるのはなぜか。理由がはっきりしていないから混乱が起きています。 採決(評決)、協議(評議)の経過を公開しないことによって自由な評決と自由な意見を言えるようにしようとするのが理由です。 裁判員の記者会見に裁判所の職員が出席し、裁判員の発言を制止したり目配せしたりする例が頻発していますが、 非公開の理由である採決や討論の発言者が特定されない感想的な意見でもしばしば止められています。 このことは、つっかえ棒(正統性の付与)か裁判官乗り越え(超克)かという制度設計に関係しているのです。 自由な発言が行われるとこれからどしどし裁判官批判が行われるでしょう。それを押さえ込むための規制の準備が行われているのです。

 量刑について
  事実の認定がされるとどのような刑が適切かという判断をすることになります。これを量刑と呼んでいます。すなわち、刑を量(はか)る、ということです。
  今までの実態を見ていますとプロの裁判官よりも裁判員が入った方が重くなっていると弁護士達は感じています。 例えば東京地裁の第1号事件がそうです。これには原因があります。 量刑とは個々の事件の具体的な事情を知った個人である人間が事実から受ける感情によって判断してはいけないのです。 そうではなくて、次の同種犯罪の予防、当該事件の被告に対する非難・責任追及を抽象的な意思(一般意思)の立場からものさしをあてて当該事件毎に下していくべきなのです。   ところが、犯罪被害者が参加し、裁判員が参加することによって一般意思が掻き消される危険が増えました。 すなわち、個々の事件からわき起こる感情が合理的な判断の邪魔をしている、そういう制度設計になっています。 裁判員制度を続けたいという立場に立つのなら裁判員を量刑判断から解放してあげなければなりません。
以上