『報道被害』 図書新聞 書評 (2007年2月10日)
報道被害とは、市民的自由の問題である
報道被害という問題は、被害の当事者だけでなく、市民的自由の今後に関心をもつすべての人々にとっ
て、避けて通ることのできない課題となっている──。本書のモティーフはここに集約されている。本
書を一読して、報道被害とは何より市民的自由の問題であり、知る権利と表現の自由の問題であること
を再認識させられる。
本来、ジャーナリズムは市民的自由と対立するものではなく、市民的自由を広げていくものでなけれ
ばならないはずだった。しかし目下、報道被害が引き起こしている問題が、表現の自由を危機にさらし
ている。それはジャーナリズムの問題であるとともに、それ以前に、ジャーナリズム性を喪失したメディ
アのかかえる病理であるともいえる。
市民にとってメディアは、警察や検察など、公権力に並ぶ力をもっている。「第四の権力」といわれ
て久しい所以である。著者は、ジャーナリズムの本来の役割は権力監視であり、人間の社会環境の監視
であると述べる。しかし報道被害が引き起こす重大な事態は、その役割を果たしていないメディアの構
造的問題を露呈させる。
とりわけ、犯罪報道に見られるように、メディアの宿命である警察情報への全面的依存体質は、本書
でも再三指摘されるとおりだ。すでに一九八三年から翌年にかけて、免田事件、財田川事件、松山事件
と続いた死刑囚の再審無罪判決は、そのことを思い知らせたはずだった。死刑台からの生還者たちの経
験は、警察・検察と司法の問題とともに、メディアの加担を明らかにした。そこにはすでに、報道被害
をめぐる基本的な問題が出揃っていた。
逮捕イコール犯人と見なす心証報道は、被疑者に対する警察・検察の取調べがそうであるのと同様に、
指弾の様相を強めていく。メディアはすでに「ペーパートライアル」によって、裁判すら先どりしてし
まうかのような報道に走っていく。しかも報道の自己検証がなされにくい点で、それは冤罪の再審の難
しさにも似た性質をもっている。無罪推定の原則は、メディアにおいても知る権利とともに、往々にし
て空文に帰しかねない危うさのなかにある。
それがいかに深刻な被害をもたらし、被害者に致命的な
打撃を与えるかを、本書は具体的な事例を挙げながら論じている。たとえば、報道被害の典型例として
これまでしばしば検証の対象となってきた、松本サリン事件の河野義行さんや桶川ストーカー殺人事件
がそうである。とりわけ、二〇〇三年六月に起きた福岡一家四人殺害事件をめぐる記述は、報道被害を
引き起こすマスコミの体質を顕著に物語る。
マスコミによって「逮捕近し」と目された梅津知敏さんは、殺害された一家の妻の兄だった。ある記
者は「早く本当のことを話したほうがよい」と手紙を送りつけ、梅津さんに肩を強く寄せるように近づ
いて「どうなんだ」と迫った。ところが、被疑者が逮捕され、事件の全容が解明されて梅津さんの潔白
も証明されると、「はじめから自分はそう思っていた」と何の気なしに言ってのけた。これは一記者の
問題であるのみならず、事件報道に携わるメディアの体質を雄弁に物語るエピソードである。
「私たちは、犯罪被害者遺族の体験を身近にひきよせ、隣人の体験として、その被害と精神的体験を
想像する力をもたなければならない」。著者はそう述べる。そうした想像力と共感の感度を高める上で
重要なのは、本書で指摘されるとおり、メディア企業には基本的人権が所与のものとしてある、という
発想から自由になることである。それは知る権利を行使すると称するメディアに対する不信とは別に、
メディアが市民的自由に貢献し、公権力に対してのみならず、個人の尊厳に対してもジャーナリスティッ
クな感度を保っているかどうか、つねに内外から検証に晒されねばならないことを意味する。
「マスメディアは、あくまで市民個人が享受する表現の自由に貢献するかぎりで、反射的に、結果と
して表現の自由の行使を許される」と著者はいう。それは、市民に貢献するためにこそメディアはその
存在を憲法上保障されているのであり、為政者の擁する情報と、市民の知っている情報に格差をつくら
ないために、報道の使命があるということである。ところが、犯罪報道と警察情報の関係に顕著なよう
に、その格差はあまりに大きく、メディアは圧倒的に公権力の情報源に依存し、しかも、それに対する
検証を行なうことが難しい構造的矛層を抱えている。
そこにメディア企業を貫く、速報性という過当競争の現実があることは、再三指摘されてきた。たと
えば、数社あるいは十数社の寡占状態にあるメディア企業の報道現場は、「特ダネ」もさることながら、
その反対の「特落ち」に戦々恐々としている。つまり、横並びを構造的に、報道の本質に関わる問題と
して抱えているのである。それは記者個人のルーティンワークにも貫徹されている。護送船団方式は往
時の銀行のみならず、記者も同じであり、公権力や公人、ときには市民に対してぶら下がり取材をし、
メディアスクラムなどの弊害を生み出してきた。
差異のない報道は、いっそう独自検証を少なくし、報道を平板化していく。その問題は本書で例示さ
れるように、警視庁記者クラブ記者の夜回りの現実を見ても明らかである。郊外の警察官宅から引き揚
げ、夜一二時頃にクラブに戻って原稿を書き、深夜二時半に帰宅して朝五時には朝駆けの車が迎えに来
る。こうしたルーティンワークの日常で、しかもデスクやキャップ、「仕切り」なども同じ道を経た人
間である以上、警察情報を検証するのは現実的に不可能である。さらに各社がわずかな警察情報のリー
クに群がっている以上、少ない当局情報に集中する傾向にいっそう拍車がかかる。
ジャーナリストの取材と報道の基準は、「人類益(ヒューマニズム)」であるべきである、しかし終
身雇用で採用し、夜回りから記者修業を始めさせる現行の体制のなかでは、会社益を優先する記者は出
ても、ジャーナリストらしい記者の輩出は期待できない──。本書にはそうつづられている。こうした
取材現場の日常で、もっとも殺がれるのが人文的な要素であるというのは、あまりに皮肉である。 警
察などの公権力は、人文的な世界からほど遠いところにある。しかも「サツ回り」の取材で養成される
記者が、ヤドカリが既存の貝に身を合わせるように、警察の体質を模した取締的、成敗的、安手のヒュー
マニズムを会得して取材対象にのぞむという現実は、実は報道被害を引き起こす根底にある、きわめて
本質的な問題なのである。人間に対する想像力が及ばないという点で、そこには機構改革だけでは変化
しない社会病理がひそんでいる。たしかに、長年の蓄積によって形成された情報構造は、マスメディア
の自主改革だけでは変わらない。公権力がコントロールする情報構造を変えるという課題は、公権力を
監視する私たち一人ひとりの問題であるといえる。
しかしいま、メディア不信に乗じるように、個人情報保護法や人権擁護法案など、知る権利と報道の
自由を制約するメディア規制が強まっている。「個人情報」と「プライバシー」の混同に気づかぬまま、
過熱報道やプライバシー侵害などの規制を公権力に求める、倒錯した事態に陥ってしまっているのであ
る。
プライバシーと表現の自由をめぐっては、北方ジャーナル事件と小説「石に泳ぐ魚」事件を例に、公
人と市民、事前出版差止めと訴訟の現実が本書に紹介されている。人格権(個人の尊厳)と、表現・報
道の自由とをどう両立させるか。そこには、規制如何の問題と同時に、メディアや作家・表現者たちが、
追及(追求)する対象やテーマが何であるかをめぐって、人文的な感度と想像力を高めるという、現代
社会の抱える普遍的な課題が待ち受けているように思われる。
市民社会におけるメディアは、それが表現の自由を標榜するのであるかぎり、市民とともに、そして
市民のために歩まなければならない──。著者はそう説く。高給で優遇されたメディア企業の会社員に、
市民と歩むジャーナリズムは可能なのか。もしその望みがないならば、ではいったい誰がジャーナリズ
ムを推進するのか。報道被害の問題は、人間の想像力に関わる、こうした喫緊の課題をも提示している。
(Y)
▼梓澤和幸著 『報道被害』 1・19刊、新書判二二四頁・本体七四〇円・岩波書店
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