梓澤和幸著 『リーガルマインド』(リベルタ出版刊)を読んで  
山梨学院大学法学部法学科2年 深澤伊吹己

  この本は、リーガルマインドを獲得するための哲学と、法律家としての覚悟・生き方を問うたものである。 私のような法学の分野に足を踏み入れたばかりの人間にとっては難しい部分も少なくなく、 梓澤和幸先生が示そうとしたものの全てを獲得できているとは到底思えないが、私なりに学び取ったことについて書かせて頂くことにする。

  まず本の内容自体とは少し離れるが、先生と初めてお会いしたときについて話を進める。 先生に初めてお会いしたのは、今から1年以上前のことである。私はまだ高等専門学校という工学系の5年制学校の3年次に在学していた。 弁護士になって人権擁護のために戦いたいと考えていたが、踏ん切りがつかず悩んでいたときに私から先生にメールさせて頂いた。 直接お会いさせて頂くことになった時も私の拙い話に耳を傾けて下さり、 法律家にとって大切なのは共感共苦する力であることを丁寧に話して頂いたことを記憶している。 先生のような弁護士になることを心に決め、法学の道へ飛び込み今に至る。

  この話をさせて頂いたのには理由がある。それは私が先生を尊敬している理由の一つとして、共感共苦することを大切になさっていることがあるからであり、 本書からも学び取ることができたからである。P.32からの 「共感する心」 を中心にその真髄は多くの箇所から感じることができる。 弁護士の方の中でも本来的に弁護士になれる人は恵まれており、弱い立場に置かれた依頼者を理解することはできないとする方もいるようだ。 確かに腰縄を打たれ自由を奪われる感覚を、本当に苦しい立場に置かれている人のことをただ少しの時間、 思いを馳せるだけで共感できたなどと思うのは驕りだと思うし間違っていると考える。 しかしながら、もし自分は上の立場におり救ってあげているなどと思うのであれば、それこそ驕りだろう。 あなたの全てを理解することはできないのかもしれない。けれど同じ向きを向いて、一緒に戦いましょう。という姿勢こそが共感共苦の意味するところだと考える。

  一度先生に憲法における公共の福祉と表現の自由について口答で試験して頂いたことがある。
私は学説を丸暗記することに走り、先生から放たれる本質を問う質問に何も答えることができなかった。 (本書で用いられている表現をお借りすれば、口をもごもごさせて頭が白くなっている状態だった。) もちろん今もなお、私は学習の道半ばにも達しない初学者の域を出ないが、 このとき先生に指導頂けた公共の福祉の概念については内在的に実感を持って理解することができたと感じている。

  公共の福祉とは 「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。 (芦部信喜 『憲法 第5版』 岩波書店、2012年) これは正に人権は人権によってしか制限されないことを意味する。 私はこのことを学んだとき、高専時代化学を専攻していた頃に学んだ無機化学の講義を思い出した。 基本的にダイヤモンドはダイヤモンドによってしか削ることはできないように、人権もまた人権によってしか制限できないと。 文言の暗記ではなく、法律学の言葉を不完全ではあるが内実を伴って理解できた初めての経験であった。 ダイヤモンドと人権について、他にも似ている点があることを現在も化学を学んでいる友人に話している際に発見した。 それは、確かにダイヤモンドは硬く美しいが、ハンマーを一振りすれば粉々に破壊することはいとも簡単にできるということである。 人権は確かに人が生まれながらにして持つ 「人間の固有の尊厳に由来する」 (国際人権規約前文)ものであるため、 それを剥奪し破壊できることはできないとすればそのようにも考えられる。 しかしながら、やはり我々人類の歴史を振り返れば人権は著しく蹂躙されてきており、破壊という言葉を用いて捉えてもおかしいと私は思わない。 即ち人権はダイヤモンドと同じく光り輝く価値あるものであり、人権そのものによってしか制限されない。 しかしながらその実体は脆く、破壊しようと思えば簡単に破壊することもできてしまうものである。 だからこそ法はこの人権を守り、多くの先人はこれを守るために命がけで戦ったのではなかろうか。

  最後に、今の私たちの世代とこれからの社会について、読んでいく中で感じたことがあったので書かせて頂く。 私たちの世代は 「ゆとり世代」 や 「悟り世代」 などと巷では称される。そもそも世代により名称を付けステレオ的な判断がなされることは、 世代間の対立を煽ることにしかならず例外を無視することになり実益に乏しいと思うが、この名称には確かに言い得て妙の部分がある。 (この後、私自身も世代をひとくくりにした話をするが、例に当てはまらない人も多くいることは先に述べておく。) 私たちの世代は常に今日と同じ明日が来ることを望み、また同じ明日が来ると確信している。今日より明日が良いことは別に望まない。 即ち向上心、強い欲求を持ち合わせていないのだ。政治はろくなことをしないと考えてはいるが、関わることも避けたい。 選挙に行くことさえも億劫であると考える。とにかく身内が守れればよく、自らが所属するギルドには強い関心を持ち、いいね! やリツイートに精を出す。 以上のような状態を指し、「ゆとり」 や 「サトリ」 と称されているのだろう。私のような少し “アツい” タイプの人間には確かに生きにくい部分がある。

  私が思うに、私たちの世代は一言で表わすとすれば、対立は好まずに優しい、その反面打たれ弱い。というところに集約されるところがある。 私たちの世代が持つ身内を大切にする感覚を共同体に広げ、相互扶助の社会に向かうことは私はいいことだと思う。 しかしながら国家権力は現に存在し、私たちが戦うことをやめれば一瞬にして人権を破壊することができる。 即ち人権や自由とは、戦い続けることでしか守れない存在であり儚くて脆い存在なのである。にも関わらず、 特に何もせずとも人権や自由が守られる社会であると妄信している。 私たちの世代に足りないのは、人権や自由はいつ何時奪われてもおかしくないものであるという危機意識なのかもしれない。 上の表現を用いれば、明日が良くなることには期待していないが、逆に悪くなるとも考えていないのである。 私たちが今、こうして平穏な生活ができていることは当たり前のことではなく、多くの先人が命懸けの戦いで手に入れ、守ってきてくれたものに違いない。 私たちにはこれを守り抜くために戦っていく責任がある。本の前書きにも示されている 「この時代閉塞を克服して進む青年」 の一人として。 この本を通してその覚悟を持つことができた。