拙著報道被害をきっかけとして講演依頼や感想文が引き続き寄せられています。その一例のご紹介です。──梓澤和幸


『報道被害』 を読んで
 
伊藤 朝日太郎

  先生の 『報道被害』 を、遅まきながら拝読いたしました。

 自分の漠然と持っていた報道被害についてのイメージが変わりました。単に 「つらいだろうな」 ということではなく、 自分のアイデンティティーを覆される、 「昨日に続く今日を私は生きていくことができない」 ということが、がつーんと飛び込んできた思いでした。

(以前に河野義行さんの手記を読んだこともあったのですが、河野さんが非常に冷静な筆致で書かれていたこともあったのか、 「偽りの自画像が広がってゆく、もう自分は生きてはいけない…」 という状況まで思いが至りませんでした。)

  考えてみれば、少数の他人から誹謗中傷されただけでも 「自分はこんな風に人から見られていたのか。ひょっとして自分は人格破綻者ではないのだろうか。」 と深刻に思い悩むと思います。

  私自身、とても弱い性格なので、ちょっとした非難を受けただけで数ヶ月間落ち込みつづけたこともあります。 ましてや、虚偽の批判がメディアを通じてなされ、自分の周囲の人もそれにふりまわされたならば到底正気ではいられなくなるでしょう。 このような気付きを与えていただいたことに感謝します。 (「石に泳ぐ魚」 事件についての見方も少し変わりました。)

  それとともに、『報道被害』 は、報道機関へのバッシングではなく、 むしろ、「桶川ストーカー」 事件のフォーカス記者の記事など、 報道が、市民とともにある姿勢を貫くことによって報道被害も減り、 同時にジャーナリズム本来の使命を果たすことが出来るという希望・展望を描いていることが印象的でした。

  「坂本弁護士事件」 でのメディアとの交渉の際に 「会社の利益ではない、公共性を担うジャーナリストとしての高次の視点で対応してほしい。」 と交渉し、 訂正記事を引き出されたことにも、強い感銘を受けました。個々の記者やメディアを敵として非難するのではなく、非を質しつつも、ジャーナリストとしての良心に、 その公共性に訴えるというまさに理にかなった姿勢を貫かれていることに、こういう場合の交渉の筋目の通し方を感じました。

  刑事事件の報道についての提言にも共感しました。

  この点で、私は、弁護士会が、刑事弁護の意義について、社会に対してもっと効果的に広報できないのだろうかという思いを持っています。

  光市事件の報道については、BRC勧告で是正が図られましたが、それも死刑判決前後という手遅れの時期であったように思います。 光市弁護団がまるで悪の権化のように扱われているようすに歯噛みしていました。

  メディアが刑事弁護の何たるかをわきまえていれば、このような状態にはならなかったのではないかと思えてなりません。

  典型的な冤罪の場合はメディアも飛びつきますが、部分冤罪も生じうること、 被告人の事情を汲まずに判断するのは不当であることは意外と等閑視されているように思います。

  検察サイドの言い分のみならず、被疑者・被告人側のものの見方もきちんと聞き、理解した上で判断することこそ公平な裁判であり、 公正な事件の理解なのだ、ということを意識的に広報したり、高校生にたいする法教育を行うなどして市民に広めていかなければならないのではないか、と思います。