前文から 「愛」 を削除する自民党新憲法草案
 
内田雅敏 (弁護士)


  憲法に 「愛」 という文字が入っているのをご存知ですか。
  別に奇を衒っているわけではありません。日本国憲法の基本原理を凝縮した「前文」の中にしっかりと入っているのです。

  「日本国民は久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 というくだりです。

  憲法9条 「戦争の放棄」、とりわけ同条2項の 「戦力の不保持」 「交戦権の否認」 によって文字通りの戦争放棄を決意した私達が、国連中心主義による平和の実現を企図したことを表現したものであると思います。

  実はこの文言は、司法の場における9条論議に封印してしまったあの悪名高き砂川事件最高裁大法廷判決 (1959年) においても 【引用】──日米安保条約合憲の根拠付けとされており、 本来の精神に反する引用だと思うのですが──されているほどで判例上も重要なものとなっているのです (注1)

  今、自民党の新憲法草案の前文によってこの 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して──」 が削られようとしています。 同草案が 「戦力の不保持」 「交戦権の否認」 を謳った9条2項を削除しようとしていることに対応したものです。 削られた理由は 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して──」 というのは、余りにも 「他力本願」 だというところにあるようです。 しかし、9条2項の 「戦力の不保持」 「交戦権の否認」 と相俟ったこの前文の規定は武力でなく、友好、信頼などによって平和を実現しようとするものであって、 決して受動的なものでなく、本来能動的なものなのです。

  前文から 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……」 を削るということは、 日本が国連中心主義から脱却してますます 「日米同盟」 という二国間関係──その実体は従属関係──にのめり込んでゆくことを意味します。

  削られようとしているのは 「愛」 だけではありません。 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し……」 と日本国憲法制定のいきさつを述べた部分も削られようとしています。 1931年、中国東北部 (満州) 柳条湖における関東軍による鉄道爆破の謀略を契機とする 「満州事変」 以降の15年間にわたる 「アジア・太平洋戦争」 によって、 日本が国内外の人々に多大な惨禍をもたらしたことを反省し、新憲法を定めて再出発をするという戦後の誓いが否定されようとしているのです。
  中国・韓国など国内外の厳しい批判を無視して強行される憲法違反の小泉首相(当時)の靖国神社参拝、教科書問題、「日の丸・君が代」 の強制、 愛国心教育に見られるような昨今の歴史の改竄、歴史認識の欠如と軌を一にした動きでもありましょう。

  日本国内の一部においてのみ通用する偏狭な自己愛 (ナルチシズム) だと云われても仕方ありません。 愛郷心や愛国心などはそれが愛するに値する故郷や国ならば自然に芽生えてくるものであり、法律や教育で強制したり、注入したりする類のものではありません。 大リーグで活躍する松井やイチローに拍手したり、あるいはサッカーW杯での日本チームの活躍を願うのは、誰かに言われてするものではありません。

  学校現場で 「愛国心」 の程度を評価するなど正気の沙汰とは思われません。誰がどのような基準で判断するというのでしょうか。 声高に 「愛国心」 を語る人々、彼らは愛国心を測る特別な秤を持っているかのようです。

  高石邦男文部政務次官 (当時)、村上正邦自民党参議院議員会長 (同)、西村眞吾衆議院議員など学校現場に 「日の丸」 を強引に持ち込み、 「愛国心」 を声高に語った面々がリクルート疑獄、KSD疑獄、弁護士法違反などで 「塀の内側」 に転げ落ちる姿を見るとき、 「愛国心はならず者の最後の砦だ」 と喝破したサミュエル・ジョンソンの名言を思い出します。

  「滅私奉公」、「愛国心」 を声高に語る連中の好きな言葉です。「減私」 ならともかく 「滅私」 ということはあり得ないことです。 結局、公私の区別なく、私的なこともすべて公になってしまうのです。「滅私奉公」 を言って、東京と選挙区に大邸宅を持つことができるならば、こんないいことはありません。

  漱石の 『それから』 の中に 、「いい歳をして働かないでブラブラしていてどういうつもりだ!」 と、父親に叱られた 「高等遊民」 の代助が嫂と以下のような会話をする場面があります。

  「一体今日は何を叱られたんです」
  「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会のために尽くすには驚いた。何でも十八の年から今日までのべつに尽くしてるんだってね」
  「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」
  「国家社会のために尽くして、金が御父さん位儲かるなら、僕も尽くしても好い」

  2006年暮、「憲法改正」 の前段として準憲法と云われる教育基本法の 「改正」 がなされました。ここでもまた「前文」が槍玉に挙げられたのです。

  「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。 この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
  われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、 普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」

  素晴らしい前文ではありませんか。
  この前文のどこが問題だと云うのでしょうか。憲法憎ければ 「袈裟」 まで憎いというわけでしょうか。

  憲法前文から削除されようとしているものとして、さらに重要な箇所があります。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、 平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」 という、いわゆる 「平和的生存権」 も削除されようとしているのです。 平和とは単に戦争のない状態というだけではなく、「構造的暴力」 がない状態、すなわち飢餓や貧困、 差別や抑圧などのように構造に組み込まれた暴力の解消なしには真に実現しえないということは、今日世界共通の認識となっています。 日本国憲法前文にいう 「平和的生存権」 は、紛争の根源である貧困や差別と闘うことを宣言したものであり、前述した偏狭な自己愛 (ナルシズム) とは異なり、 地球上のすべての人々に対する「愛」によって裏打ちされたものなのです。

  戦争の放棄(9条)や、個人の尊重、幸福追求権 (13条) などは 「平和的生存権」 を実現するための規定でもあるわけです。
  それは当時、起草者らが意識したかどうかは別として、21世紀における地球の有り様を指し示すものとして先駆的な意義を有していると云えましょう。

  このように今、憲法前文から 「愛」 「歴史認識」 「21世紀の指針」 など日本国憲法の真髄ともいうべきものが削られ、逆に偏狭な自己愛 (ナルシズム) や国民主権、 基本的人権の保障原則に抵触し、その一員となった者に失語症や適応障害を招来してしまうような天皇制という不合理なもの──憲法学者の或る人は、 これを憲法の “飛び地” と呼んで憲法原理とは異なる論理の通用する処といささか苦しい説明をしています──が入れられようとしています。 天皇元首化への一里塚です。

  しかも前文の冒頭、国民主権、基本的人権の保障などの基本原理の前に入れられようとしているのです。天皇制は憲法の基本原理ではなかったはずです。

  「押しつけ憲法」 論とか、「60年間1度も変えたことがないのはおかしい」 とか、何とはなしのムード的改憲論が声高に語られています。 今、社会のグローバル化が声高に語られ “勝ち組” “負け組” の語が氾濫しています。“格差社会”、それが憲法から 「愛」 をなくした社会です。 憲法から 「愛」 をなくしてしまうような非人間的な社会、そして時代錯誤な天皇元首化に突き進むような 「大日本帝国」 への「先祖返り」を許してはならないと思います。

  作家高見順は1945年9月30日の日記にこう書いています。

  「昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の司令を下した。
  これでもう何でも書けるのである!これでもう自由に出版できるのである!
  生れて初めての自由!
  自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、 ──かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分るが、 逆に自由を保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、──ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、 そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。」 (高見順 「敗戦日記」 中公文庫)

  「自由、権利」を空気のように呼吸してきた私達戦後世代は、そのことの有難味が本当に分っていないのかもしれません。

  戦争に敗けて新憲法を 「押しつけられた」──誰れにとって? 日本の民衆はむしろ歓迎した──ことが問題ではなく、戦争に敗けて、 新憲法を 「押し付け」 なければ変わることのできなかった日本の有り様こそが問題であったのです。

  私も真底から先の大戦で日本が敗れたことを歓迎します。 もっとも、敗戦によって得られた自由及び権利は自ら戦い取ったものではないことから来る限界を有していたのは当然でした。 高見順日記10月3日には、「東洋経済新報が没収になった。これでいくらか先日の 『恥かしさ』 が帳消しの感あり。 アメリカが我々に与えてくれた 『言論の自由』 は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。」 と、「占領軍」 の本質を知らされた旨の記述もあります。

  私は敗戦の年、1945年4月5日この世に生を受けました。私が生れる5日前、父が出征しました。 軍の糧秣を扱う精麦会社の熟練工であった父は出征が遅かったのです。 幸い無事帰還しましたが、当時の状況からして、出征に際してはもとより生還を期しておらず、私の生れたことを知った父は私宛に 「遺書」 を書いたようです。 小学校中学年の頃、タンスの引出しの奥にしまってあった粗末なワラ半紙に鉛筆書きされたこの 「遺書」 を見つけ盗み読みしたことがあります。 ほどなくして、「何を見ているか!」 とやや気色ばんだ父に取上げられてしまいましたので詳しい内容は覚えてませんが、 「雅敏よ、父が帰らなくても母を助け、日本男児として立派に……」 といった類のことが書いてありました。 父が気色ばんで 「遺書」 を私から取上げたのは、きっと気恥ずかしかったのでしょう。

  ずっと後に自我に目覚めた頃、私はこの出来事を思い出し、生れたばかりのわが子に対し、 父にあのような 「遺書」 を書かせた世の中を再び招来させてはいけないと思うようになりました。

  もちろん、戦後の歩みを振り返ったとき、この憲法の基本原理をよく実現して来たかと問われれば、私達は胸を張ることはできません。 しかし、それは憲法の基本原理に責任があったからでなく、それをよく実現してこなかった私達自身に責任があったのです。

  「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」 という憲法12条の規定を目にするとき私達は、 忸怩たる気持を禁じ得ません。

  東西冷戦という憲法の理念を実現するには、いささか厳しい環境下にあったこともあります。しかし、冷戦構造が崩壊した今こそ出番です。 世界各地で噴出している暴力の連鎖に終止符を打つために日本国憲法の基本原理を再認識する必要があります。

  2001年に作成されたドイツ国防軍改革委員会報告書は、「ドイツは歴史上はじめて隣国全てが友人となった」 という書き出しで始まっているといいます。 「隣国全てが友人となる」、これこそ究極の安全保障であり日本国憲法の目指すものではないでしょうか。

  「大日本帝国の実在よりも、戦後民主主義の虚妄に賭ける」 とは政治学者故・丸山眞男が吐いた名言ですが、今この言葉を噛み締めようではありませんか。


【注1】
  判決は憲法前文中に 「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。」 とある点に注目し、 日本は憲法第9条2項によって 「戦力」 を持つことができないが、しかしとして、以下のように述べます。

  「われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、 これを憲法前文にいわゆる平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。 そしてそれは、必ずしも原判決 (一審伊達判決・筆者注) のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、 わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、 国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、 憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

  そこで、右のような憲法9条の趣旨に則して同条2項の法意を考えて見るに、同条項において戦力の不保持をも規定したのは、 わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、 同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、 わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、 外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」 と。

  在日米軍は日本政府の指揮管理下にないから、憲法第9条がその保持を禁ずる 「戦力」 に該らないというのです。

  何故指揮管理下になければ、憲法の禁ずる 「戦力」 に該当しないというのか全く理解できません。 また 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」 というのも、伊達判決が指摘するように国際連合を指すと解するのが無理のない解釈だと思います。