インタビュー   梓澤和幸


梓澤和幸氏に聞く 「誰のための人権か」
    「報道の自由」 の危機 (2004年4月7日)
      〜強まるメディア規制のなかで知る権利を守れるか〜 (図書新聞2672号より)


  ――梓澤さんは昨年、田島泰彦氏との共編で『誰のための人権か――人権擁護法と市民的自由』を刊行されました。
  梓澤さんはこの間、メディア規制や言論・表現の自由などについて、弁護士の立場から活発に発言してこられました。そこで、昨年に法制化された個人情報保護法などメディア規制三法の問題、国家がメディア規制を強める昨今の状況、また過熱報道、プライバシー侵害といったメディアのかかえる問題をめぐって、お話をうかがいたいと思います。
  梓澤さんはジャーナリズムにおける調査報道の大切さを一貫して強調してこられましたね。メディアの役割や主体性を守っていく上で、調査報道は生命線でもあるのですね。

  梓澤 そうですね。調査報道について、典型的な例として取り上げられるのは、一九八〇年代末のリクルート事件です。調査報道の重要性を考える意味でも、この事件はまさに、現在のメディアを論じる際の論点を提供してくれる事例だと思います。
  朝日新聞の記者だった山本博氏が 『朝日新聞の調査報道』(小学館) を書いますが、この本は非常に重要で、私はもっと注目されていいと思います。リクルート事件発覚の発端は、当時横浜支局にいた山本氏の取材から始まったわけですね。取材では、リクルートから川崎市助役への一億円近くの利益供与が明らかになって話題になりました。
  いちばん最初、山本氏が取材をして、川崎市助役への利益供与問題を取り上げたとき、彼はもうすでに有価証券取引報告書を手に入れていたのです。しかしそのとき、検察と警察からものすごい圧力がかかった。なぜかというと、自分たちが捜査をしないものをなぜ新聞が調査報道するか、というわけですね。
  『朝日新聞の調査報道』 ではあまり展開されていませんが、実は、検察はその有価証券報告書の中に、中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一といった超大物政治家の名前が出ているのを知っていた。つまり、知っていて落とした事件なのです。それを、朝日新聞の横浜支局が拾い上げた。いわば権力側の判断に対して挑戦したわけです。
  検察と警察から最初の圧力がかかったとき、横浜支局は跳ね返した。しかし、本社にまで情報が上がって行ったとき、社内で「やめろ」 とストップが入ったわけです。それはおそらく、政治部と社会部の関係によるものではないかと思いますけれども、結局は跳ね返すバネがあって、取材を遂行できたわけですね。
  リクルート事件は、川崎市助役の利益供与問題をきっかけに中曽根、竹下、宮澤へと伸びていった。そうしてついには竹下内閣の崩壊、中曽根まで自民党を離党させられるという一大事件へと発展した。まさに、これはメディアが権力の中枢に迫った事件です。
  このことはもっと注目されていいはずですが、なぜかまだ、単なる調査報道のスクープとしてしか語られていない。それはメディアと権力という関係の問題として、まだ本当に語られていない感じがするのです。
  元来、メディアはそういう力を発揮できるわけだし、まさにその役割を期待されているわけですね。ところが、こうしたメディアと権力との関係を自民党の中枢部が危険視して、 「メディアがなんとかしなければいけない」 と、逆に規制へと踏み出す動機を与えてしまったというのが、メディア規制三法や人権擁護法の背景にある問題です。
  それからもう一つ、これももっと語られるべき事件なのですが、週刊誌 「FOCUS」 のスクープによって、森内閣の中川秀直官房長官の女性スキャンダルが発覚し、辞任するという事件がありました。これもよく知られている事件ですが、実際には、この事件の分析があまりにも弱すぎると思うんですね。
  「FOCUS」 には、当時現職の官房長官と女性との会話の記事が載った。これは、単なる女性スキャンダルとして人々の記憶に残りました。そして、さらに 「FOCUS」 が会話録音の記録をテレビ局に持ち込んで、生放送で流そうとしたわけです。
  そのとき、各局にものすごい圧力がかかった。生の声が出れば、当然それが中川官房長官だとわかってしまう。ところが、日本テレビとTBS、テレビ朝日は放送した。やらなかったのはフジテレビとNHKです。
  暗々裏にあってあまり語られていないけれども、報道したこれら三つの局は、圧力を跳ね返して放送に持ち込んだわけですね。そして、実は放送されてからではなく、放送されると決まったとたんに、中川官房長官は辞任したのです。
  さらにこの事件で語られていないことがあります。それは、時の官房長官が捜査情報を手にしていたということです。女性から別れ話の話があった一九九五年当時、中川氏はまだ官房長官ではなかったけれども、女性に対する覚醒剤疑惑の捜査情報を警視庁から入手し、それをネタに、女性に対して 「警視庁だって動いているんだ」 というふうに圧力をかけた。テレビ局が放送したのは、その会話内容の電話録音だったわけです。
  しかし、これは大変なことですよ。警視庁が中川氏に捜査情報を洩らしている。いや、もっと言ってしまえば、これはあくまで推定に過ぎませんけれども、もしかして中川氏は警視庁を動かして、女性に圧力をかけたのではないか。実際、九五年七月に、女性は覚醒剤取締法違反容疑で警視庁の家宅捜索を受ています。けれども、何も出てこなかった。

  ――現職の政府高官が捜査当局の情報を自由に引き出したりできる、さらには個人の欲得によって捜査当局を動かせるという問題を、メディアの力が抉り出したわけですね。

  梓澤 その意味でも、 「FOCUS」 の記事はものすごい内容を持っていたわけです。残念ながら、我々には女性スキャンダルとしてしか記憶されていないけれども、その背景にはメディアと権力をめぐる非常に緊迫した関係があったわけですね。
  メジャーなメディアも、いまお話したように、リクルート事件における検察、警察からの圧力と、いわゆる捜査疑惑洩れに対するものすごい圧力を突破できる力を持っていた。しかしその後は、生き馬の目を抜くような調査報道によるスクープは、ちょっと出ていないですね。記憶に残るのは、 「噂の真相」 の則定衛・東京高検検事長の女性スキャンダルのスクープぐらいでしょう。
  しかし、まだ週刊誌には独自の取材力がある。新聞や放送のメディアは記者クラブによって捻れるが、週刊誌の方はそうはいかない。だから、雑誌メディアに対しても、法律によって刑事弾圧できるような規制がどうしてもほしい――。こうして出てきたのが、個人情報保護法などメディア規制三法だったのです。
  つまり、メディアは権力の中枢に迫り、権力を揺るがすような力を持ちうる。しかも選挙制度があるわけですから、権力にもひびが入る可能性がある。いまなら、民主党との政権交代が起こりかねないでしょう。そういう時代の中で、やはり法律的な規制、特に刑事弾圧ができるような規制がどうしてもほしい。それが、メディア規制三法や人権擁護法などを考え出した、官僚と与党中枢の狙いではないかと思います。

  ―― 一メディアによる過熱報道やプライバシー侵害の問題が、この間ずっと指摘されてきました。むしろ官僚や与党中枢は、そうした世論を利用するかたちで、メディアに網をかける法律を出してきた。それによって調査報道や、権力を監視し、権力中枢の不正を追及するメディア本来の使命が規制されてしまう事態が出てきたわけですね。この問題をどう考えればいいのでしょうか。

  梓澤 メディアというのは、もともとどこの国のメディアを見ても、耳目竦動的な、センセーショナリズムで成り立っています。そういう生理を抱え込んでいるわけですね。ところが日本の場合、それに輪をかけて深刻な状況を生むのは、警察の情報独占と、長きにわたって築き上げられてきた県警記者クラブ、東京では警視庁記者クラブとメディアとの、癒着といっても過言ではない関係です。
  スウェーデンやアメリカでは、人間が一人逮捕されたり身柄を拘留されたりすると、まず情報公開の対象になります。情報公開法でそのことが定められていて、今日拘留された人が誰かという情報を、市民の誰もが裁判所に行って手に入れることができる。さらにスウェーデンでは、拘留された人の、裁判所による拘留決定一覧が手に入ります。
  権力がいま誰を拘束しているかということは、非常に大切な権力情報ですね。あるいは、あることについて捜査をしていたけれども、それを中止したという情報も、情報公開の対象になる非常に大切なものです。
  警察が握っている情報とは、独占ではなく市民の知る権利として、憲法上の権利の対象になっています。ところが、日本ではまだその部分は警察にとっての聖域ですから、公安委員会で情報公開の対象除外になっている。県の情報公開条例でも、国の情報公開法でも、国家公安委員会の持っている情報というのはぜんぶ対象除外ですね。
  しかも警察は、独占している情報を、記者クラブにいるメディアにだけ、しかも自分の好きなときに流す。これは権利としてアクセスしてきた人たちに提供するのではなく、恩恵的に与える関係になっているわけです。さらにその特殊な日本的状況に加えて、ただでさえ少ない情報をめぐって、情報を寡占しているところに群がる。
  たとえば、松本サリン事件では、第一報の警察発表のとき、記者が長野県警にワーッと集まった。もともとジャーナリズムは耳目●(立に束) 導的なところに集まるんだけれども、さらに加えて、独占情報を持っている警察の所に行かざるを得ないわけです。

  ――その警察による情報寡占状況が、メディアスクラムにも拍車をかけるのですね。警視庁記者クラブで警察官の家に夜討ち朝駆けした経験から、私も身に沁みて感じるのですが、警察ぶら下がりの取材体制とメディアスクラムとの因果を断ち切るには、どうすればいいのでしょうか。

  梓澤 その状態を解くには、情報の独占構造を解いて、警察も情報公開法の対象にすることをやらなければいけないですね。
  たとえば、一九九九年一〇月に起きた桶川ストーカー事件では、年を越した二〇〇〇年になって初めて弁護士がつきました。それまで二ヶ月以上も、遺族宅を包囲するメディアスクラム状況が続いたのです。ところが、弁護士会のルートで弁護士がついて、人権侵害に対して法的手段に訴えるという貼り紙を貼った。そしたらとたんに、取材人は翌日からいなくなった。
  このように、メディアは弱者の所にワーっと押し寄せる。強者のところに押し寄せるならわかります。たとえば、かつてロッキード事件のところに行って、児玉誉士夫邸をずっと囲んだことがありますが、そうした取材は大いにやってもらいたい。ところが、弱者の所で行われる包囲報道に対しては、多くの民衆も 「何をやっているんだ」 と苦々しく思っている。だから、メディア規制についても、 「それは当然だろう」 と支持してしまう。
  こうした、日本的な特殊状況の中で起こっている過剰取材包囲状況に対する民衆の怒り、メディアに対する憤りを利用して、 「それは規制されても仕方がない、法的な規制だってある程度やむをえない」 といった土壌を作って、法的な規制を持ち込んでいく。それが、メディア規制法を支える基盤になっているわけですね。

  ――その矛盾を解く打開策はあるでしょうか。

  梓澤 一つは、調査報道を徹底することにより、 「あの人たちは我々のために真実を解く仕事をやってくれている」 というシンパシーを広げていくことが一つです。それによって、メディアに対する法規制を許さないという連帯を、メディアで働く人たちと民衆の間に作っていく必要がある。二つ目には、メディアが弱者を苛めないという自主的な倫理によって、問題を克服する努力をすることでしょう。
  数としては多くなくとも、市民とメディアの間に、血の通ったそういう連帯の基盤を生み出す状況を作らなければいけないですね。しかし現実問題として、そうした紐帯は極めて弱いですね。それが、メディアの深刻な危機を生み出している要因になっている。
  たとえば有事立法で、NHKは指定公共機関として挙げられています。その他、民放メディアや新聞はどういう役割を果たすかといった議論がなされています。これは大変なことで、報道の自由に対する大変な危機であるわけでしょう。しかし、じゃあ人々の中に、メディアに対する規制反対のプラカードが一枚でも出てくるかというと、ほとんど出てこない。
  その意味でも、個人情報保護法反対運動で、一昨年に小泉首相の地元である横須賀までデモに行って、小泉事務所を取り囲んだでしょう。フリージャーナリストや作家、メディア労働者が一緒になって盛り上げた 「個人情報保護法拒否! 共同アピールの会」 の運動はすごいもので、小さいけれども非常に質的な運動だったと思いますね。

  ――個人情報保護法は、規制を芸術表現の領域にまで及ぼす致命的な法律で、センシティヴな、作家の表現そのものにも網をかけてしまったわけですね。
  その一方で、梓澤さんは柳美里氏の 『石に泳ぐ魚』 に対する出版差し止め訴訟の弁護をしてこられました。昨年九月、最高裁で差し止め判決が確定しましたけれども、表現の問題を考えるとき、法的には芸術表現まで規制する状況が現実のものとなり、他方では、表現者のプライバシー保護に関する人権感覚が問われている。その双方のバランスにおいて、極めて深刻な問題が生じていると思うのですが、梓澤さんはどうお考えですか。

  梓澤 私は日本ペンクラブの人権委員会に所属して、よく作家の友人たちと話すのですが、作家の小嵐九八郎さんには 「『石に泳ぐ魚』 の出版差し止めは許さんぞ」 と言われたこともあります。
  この裁判は、まず出版差し止めの仮処分から始まったのですが、当初は、裁判所がフィクションに対する差し止めを出すところまで行くのかな、という不安は確かにありました。けれども私としては、作家といえども、筆で人を殺すというところまでやる権利があるのか、と思うのです。つまり比喩的にではなく、精神的な死をもたらすという危機感を、私たちは持ったんですね。
  『石に泳ぐ魚』 は最初、雑誌 「新潮」 に載った。そうして単行本になるとき、モデルとされた本人が精神的な危機感を持った。私は倫理や道徳などということを言うつもりは毛頭ないし、何のために書くかという問いは発しませんが、作家が何かを書くときに、それを書いたことによって、相手に精神的な死をもたらすことがある。だから、それをもたらされる側は、少なくとも自分を防衛し、自己の尊厳をかけた闘いをすることが許されるのではないか。そして、その闘いの場として裁判所があったということです。
  しかし一方において、裁判所も大きな意味では権力です。そして個人情報保護法では、行政権力が作家、つまり著述業を管轄するように定められている。著述業は適用除外だということを条文に入れた結果、著述業ではない人には条文を適用してもいいのだということになれば、主務官庁なるもの、この場合は文部科学省が、その人が著述業かどうかという判断をすることになるわけです。
  文科省の東大出の官僚が、ある人物は著述業かどうかを決めるんですよ。 「この人はたくさん書いているからいい」 「あの人はまだ著書が少ないから著述業ではない、単なる一般市民である」 と決める。あるいは、書いたものを見せろと呼び出して、呼び出しに応じなければ逮捕だということになる。
  そういうことが現実に起こりうる。個人情報保護法とはそういう法律ですよ。いくらなんでも、あまりに酷すぎるでしょう。

  ――まさに表現者の許認可制ですね。

  梓澤 まさにそうです。どうしてこんなことになってしまったのか。そして極めて問題なのは、この法律がただちに刑事弾圧ができるような仕組みになっていることです。
  よく私が法律の分析をすると、梓澤さんは最大限の危険を煽っていると言われたりする。だけれども、そういう危険をもたらさないように作るのが立法者の役割であって、もしその危険があり得るとしたら、そんな法律は除外しないといけないわけです。だいいち危険があり得るとしたら、それは憲法違反ですね。
  そういう法律を作ってしまう責任は、立法者およびそれを許している同時代の我々にある。しかし我々には、後世に対する責任もあるでしょう。ならば、法律的にその危険性を指摘し続ける必要がある。
  それは、最大限の危険を煽っているなどということではまったくない。実際、たとえば石原慎太郎がその法律を使って、自分について表現した人間をしょっぴくことだってできるわけですからね。
  私はその点を指摘しているのであって、政治的なアジテーションと法律的な分析とは全然別です。しかし残念ながら、個人情報保護法反対運動の中でも、 「梓澤さんの言うことは極端だ」 と言われたりする。
  弁護士も学者も、やはりまだまだ研究が足りないですね。私が言っていることが、ふつうの通説にならなければいけないのです。

  ――やはり、そうした法律の危険性に対する感度がまだ弱いのですね。

  梓澤 そうですね。いま私はホームページに 「リーガル・マインドを獲得するために」 という連載を一九回まで続けているのですが、それは法律を勉強している司法試験の受験生のためだけではなくて、労働組合で運動をしている現場の人たちや、平和運動に取り組んでいる人たちが、新しい法律が出てきたとき、その条文を自ら解いて 「これはこういう枠付けを持っている。こんどはここまで拡がった」 「この点で自分たちにとって危険である」ということを、自ら解いて分析できるようにすることを願って続けているものです。そういうリーガル・マインドを自分で獲得しなければ、いくら少数の弁護士を呼んで勉強会をやっても、まったく役に立たないですよ。
  ですから、一人でも多くの人たちがリーガル・マインドを官僚の手から取り戻して、自分が法に対する感覚を持ってほしい。私の連載は、そのための問題提起になることを願っています。

  ――メディア・リテラシーのみならず、私たちにはリーガル・リテラシーが必要だということですね。
  いままでたびたび指摘されてきましたが、メディアの事件報道では、逮捕、起訴、拘留から裁判まで、無罪推定の原則が貫かれねばいけないところが、実際には警察情報に依拠するがゆえに、極めて偏向しています。また一方で、捜査当局とは別に、メディアと権力との関係のなかで、捜査権を持たないメディアが、独自に取材して調査報道するためには、無罪推定をめぐって非常に微妙な問題を抱えざるを得ないように思います。
  権力を持つ人間がメディアの追及をかわすために、メディア規制の法律を利用することが起こりうる一方で、法律的な無罪推定の原則をどう貫くか。問題の真実を追及する上でのグレイゾーンを探るメディアにとって、それは単に手続き的な問題ではなく、事実と表現にかかわる本質的な問題だと思うのですが、その点に関してはどうお考えですか。

  梓澤 実はいま、裁判員制度の導入がさかんに議論されていますけれども、私は声を大にしてメディアの人たちに向かって言いたいことがあるのです。
  わざと単純化して分り易く言うと、第一点として、無罪推定というのは非常に大事である。しかし、これは私人に対する無罪推定であり、私人は無罪推定を受ける権利を持っている。国際人権規約にも、世界人権宣言にそのことはちゃんと明文化してある。ですから、私人である限りはメディアも無罪推定を尊重するべきである。
  第二点に、市民は真実を知る権利を持っている。よって、公人に対して知る権利がある場合には、無罪推定を上回って書くべきだし、追及すべきときがある。その知る権利というのは誰のものかというと、メディアのものではなくて、市民が持っている人権なんですね。だから、その場合にはメディアが知る権利を代行する。また、ある場合には情報公開によって、市民が自分で真実を見せてもらう。
  そのことは、リーガル・マインドですぱっと分けることができます。だから、公人に対しては、ガンガンと真実を追及する必要があります。
  なぜ裁判員制度との関係で無罪推定論の問題が出てくるかというと、裁判員が入ってくると、無罪推定なのに、有罪視報道で事前に書かれたら困るというわけです。たとえば、中曽根にせよ竹下にせよ、推定無罪なのに自分の賄賂の問題をメディアに書かれる、無罪推定なのにそんなことは許さないと主張する。公正な裁判の実現という、新しい理屈で圧迫をかけてくるわけですね。実際、偏見報道の禁止規定で、いま自民党が主張していることなんですが、裁判員制度がある限り、それは必ず出てくる口実です。
  けれども、そのときに無罪推定と何が対立するのかを考える必要がある。無罪推定は誰にも及びますが、しかし知る権利というのも人権である。両方とも人権だ。それならば、知る権利が無罪推定を上回る場合がある。そういうふうに問題を分けて考えて、公人からの圧迫に抵抗していく必要があると思います。

  ――そのためにも、建前だけではなく、メディアが市民の知る権利を代行しているという内実が必要ですね。

  梓澤 いまお話ししたのは理屈ですから、それを実行するための実体的な支えは、やはりメディアが果たす必要がある。けれども現実問題として、メディアの人たちは非常に給料が高くて、特権として聳え立っているでしょう。はっきり言って、年収二、三千万円で、たいした仕事もしていない人が、調査報道もしないということでは、それは麻痺してくるでしょう。他人の懐の中ながら、ご心配申し上げますよ。
  やはりそうした惰性を凌駕するのは、メディアに関わる良心的な人が、ジャーナリスト精神を髣髴とさせるような取材と紙面と画面を作ることです。たまにでもそうした報道があれば、量的には少なくても、少しずつ連帯は生まれてくるはずです。
  それを私は、松本サリン事件の中で痛感したことがあります。実はあまり知られていないけれども、最初に河野義行さんが容疑者にさせられたとき、月刊「文藝春秋」の記者が出かけて言って、河野さんの弁護人であった永田常二 (名前はこれでよろしいでしょうか) 弁護士とそこはかとない連帯を通わせ、初めて河野さんの手記を紙面に載せたことは大きな意味を持ちました。
  松本サリン事件のあの包囲状況の中で、永田弁護士の目から見てもそういう記者がいたわけです。だから、ジャーナリスト精神をもった人は必ずいますよ。それを顕在化させ、報道被害者や人権抑圧の犠牲者と触れることが大切だし、それをまた評価することが必要ではないかと思いますね。

  ――マスメディアに対するジャーナリスト精神の問題についていえば、梓澤さんが指摘しておられた、昨年の日本テレビの視聴率操作の問題は象徴的な例として、メディアが抱える現実の難しさを見せ付けた気がします。

  梓澤 視聴率操作問題についていえば、新聞は実に鈍くしか対応できていなかったことがあります。これは報道されていませんが、実は日本テレビの社内調査報告書の中に、こういう一くだりがあるのです。 「いろいろ工作した上で、日本テレビの経理係が直接に、追跡する探偵事務所への支払いを行っていた」。
  これは、追跡する六件分、六十数万円の支払いです。つまり、 「社員個人が……させていた」 と読める部分も、よく読めば、実際には日本テレビが会社として直接に、調査事務所に金を払っていた。これは何だ、と思いましたね。メディアはこの部分をなぜもっと追及しないのか。個人の責任に帰してしまうのではなく、少なくとも日本テレビには、それを見逃した責任があるでしょう。
  支払いを起こさせるには、おそらくプロデューサーからチーフ・プロデューサーに上って、それから請求が行くか、あるいはその上の局長まで行って局長から行くかという経理の流れがある。そこに何か経理の特徴があるはずですね。たしかに、共謀の上にやったとは断定できないけれども、私はまだ、あの調査結末は甘いと思っています。
  この問題には、やはり禁句のように言われていない、電通が寡占以上に支配している広告商品の流通の仕組み、つまり視聴率という物差しがある。これは誰も抗えない現実としてあるわけです。いくら 「視聴率に代わる物差しを」 と言ったところで、その点に触れないで、周りをぐるぐる廻っているだけでは問題は解決しない。
  それから、日本テレビなど民放テレビ各局は商業テレビであり、商業放送であるわけだから、それ自体をただ言挙げして攻撃しているだけでは全くだめです。むしろ、商業放送だけれども、一方において公共電波を使っているという公共的職業であるという意識があるかどうか。医者や弁護士もそうですが、お金をやりとりしているのだけれども、公共性は医者からも弁護士からも奪えない性質のものですね。それと同様に、メディアからもその性質は奪えないはずで、本質的に内在して持っているものです。

  ――公共性つまり、メディアに関わる人たちが良質なジャーナリズムを作っていこうとする、職業倫理が問われているのですね。

  梓澤 私は民放連の番組評価の審査会員を三、四年続けているのですが、中には非常にいい番組が出てくるんですよ。ところがそうした番組は、なんと夜中の二時、三時に放送される。もう、どうやって見させないようにするかを考えているような時間帯にしか放送されない。たしかに、視聴率は一パーセントとかその程度だけれども、それによって賞をとって、局としての箔付けをやっている側面もたしかにあるでしょう。
  しかし、それでもテレビでしかできない真実の掘り起こしと伝達力がある。ですから、そういう力を引き出して、広げていくNGOがもっと育つべきだと思いますね。さらに、テレビが内在的にもっているそうした性質を、メディアが殺さず、生かしていく責任もある。
  やはり、それを育てていくような仕組みをつくる必要があります。それから、さらに必要なのは番組に対する評論でしょう。文芸評論があるように、テレビ評論も本質的に成り立つことで、番組を質的に育てていくような世界が生まれていく。市民の中にテレビを評価したり批判したりするNGOを作ることが大切ですね。
  当面は、日弁連の役割が大きいだろうと思います、さらにこれから、番組に対する批評を公共性という観点から行い、検証ができる社会的な対抗システムを作っていくことが、少なくとも今回の視聴率操作問題については必要ではないでしょうか。
(了)