トピックス   梓澤和幸


人権擁護法案の現在とメディア規制条項について (2006年9月6日)


  2005年3月7日の各紙報道では、人権擁護法案のメディア規制条項については凍結の方向との記事が流れていた。

  ところが、2006年8月30日の読売新聞gooネットニュースによると、

【引用開始】 法務省は30日、先の通常国会への提出を断念した人権擁護法案について、 旧法案を修正する意向を与党人権問題懇話会の古賀誠座長(自民党元幹事長)らに伝えた。
  取材活動を特別救済の対象にしたメディア規制条項については、メディア側が苦情などを受ける自主的な組織を作る場合、条項自体を削除するとの方針を示し、 メディア側と意見交換をしている状況を説明した。「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」 としていた人権侵害の定義に関しては、 あいまいだとの指摘があったため、「違法な(行為)」との文言を加える方針も示した。
 同省は与党の理解を得た上で、来年の通常国会に法案を再提出したい考えだ。(2006年8月30日23時21分 読売新聞) 【引用終了】

  法務省は、メディアの自主的規制組織の進展次第では同条項を削除するとの意向でメディアと意見交換している状況を、自民党人権擁護問題懇話会 (古賀正座長) に伝えた模様である。
  そこで調べてみると、次のことがわかった。

  杉浦法務大臣は、7月24日午後 日本記者クラブで講演し、来年の通常国会への提出をめざす人権擁護法案のメディア規制条項に関し、 「法案を再度国会に出す以上、凍結ではみっともない。
  改めるとか、はずすとかすっきりした形で出したい」 として、法務省案が凍結としている同条項を修正削除する考えを示した。(共同通信同日配信)

 8月、メディアと法務省幹部との懇談の機会があり以上のような雰囲気、すなわち第三者機関の必要性が法務省側から語られたとのことは確実らしい。

  市民としては、権力から言われてメディアがなんらかの自主機関をつくったという歴史としないために踏ん張りが必要だろう。
  なぜいま、こうした動きがあるのかとても不思議だが。

※ 参照
  人権擁護法案
  『誰のための人権か──人権擁護法と市民的自由』
      田島泰彦 梓澤和幸 編著 (日本評論社)
  人権擁護法案 第四十二条一項四号



  以下、『誰のための人権か──人権擁護法と市民的自由』 167p から引用

 三 人権侵害とされる取材行為

  法案四二条一項四号は、イに記載した者に同意を得ずして行う、次の取材行為を、人権侵害とする。

  1 つきまとい、待ち伏せ、進路にたちふさがること、住居、勤務先、学校、そのほか取材対象者が通常所在する場訴の付近において見張りをし、 またはこれらの場所におしかけること(四二条一項四号ロ、(1))

  2 電話をかけ、ファックス送信をすること (四二条一項四号ロ、(2))

  たしかにここで列挙されている取材行為が一般の刑事少年事件、犯罪被害者らにむかってゆくとき、取材対象者が救済されなくてよいはずはない。 しかし、それは後に述べるような自主的自治的措置によって救済されるべきであって、 そのような場合と公人周辺への取材と報道がまったく何の区別もなく同列に論じられているところが問題なのである。

  また、取材するものが、いかなる取材の意図で行うものか、公共の関心事項か否かを検討する余地もなく、ここにかかげた行為を行うことそのものを、 当然に人権侵害としていることも問題である。取材対象が、公人か否か、公的関心の対象となっているか否かはここでも検討されない。
  犯罪行為を行ったものの配偶者や同居の親族に個々に列挙された行為を報道機関が行うや否や、それは人権侵害とされるのである。

  たとえば、政治家の汚職を報道機関の記者が調査報道の手法で把握し、政治家の周辺にせまるとしよう。その政治家の秘書が夫人であったり、子 供であったりすれば、いかに市民が知るべき公共性の高い事実が対象になっていても、 その取材行為のため電話やファックスをする行為が継続反復して生活の平穏が害されると認定されれば、人権侵害とされるのである。 この認定を行うのは、人権委員会であり、その事務局をつとめるのは中央では人権擁護局を改組した事務局であり (審議会答申第七、1、A)、 地方では地方法務局である (一六条三項)。

  次の事例に即してこの二つの条項が「市民の知る権利にとっていかに有害かを考えてみよう。
  リクルート事件調査報道の功績などでアメリカ調査報道記者協会賞を受けた朝日新聞の山本博記者らの中曽根元首相周辺の株疑惑取材の体験である。 記事は一九九〇年一月一日朝日新聞の一面トップを飾った。

  「中曽根元首相側近名義で株取引」 「一億二千万円の差益」 という見出しである。中曽根元首相の秘書が、一九八八年九月二一日に、 一ヶ月前に五億一千万円で買った国際航業の株一〇万株を一ヶ月たったところで、六億三千万円で買い戻してもらったという記事である。 記事の中に「巧妙な政治献金であったとの疑いは消えない」とのくだりがあった。これをとらえて元首相側が、 元首相が金をうけとっていたとの印象をあたえるがその事実はないとして訴訟をおこした。 東京地裁は一九九三年三月一九日、元首相側の請求を棄却する判決を言い渡した。

  判決理由で藤村啓裁判長は、「この株の相対取引は、 中曽根元首相とその政治団体への政治献金として行われたのではないかとの疑いを生む客観的事情があった」 と認定。 その根拠として、(l)リクルート事件の際も、この女性職員の名義で三千株が譲渡されていた  (2)小谷元代表は中曽根元首相やその政治団体と政治献金などを通じ密接な関係にあった  (3)この相対取引はわずか一ヶ月間で約一億二千万円の差益が女性職員側にもたらされるという極めて不自然、不公正な形態をとっている──などの点を挙げた。 記事の中で 「巧妙な政治献金ではなかったのか、との疑いは消えない」 などの表現で論評したことについて、 「一般人が当然抱く疑問についての論評として合理的根拠がある」 と述べた。

  政治家の配偶者、子供、兄弟姉妹などの家族が秘書であれば、前述の四二条一項四号イで、その名誉穀損は、事実の真否、公共性の有無を問うことなく、 人権侵害とされる。

  そして、四二条一項四号ロでその秘書への取材目的のためのアプローチも人権侵害とされ違法とされる余地がある。

  実際、山本記者らのグループは有価証券報告書のコピーを入手したあとも、秘書と株取引の相手方となった株の仕手である光進の小谷代表に肉迫し、 ようやくこの二人の間の取引についての直接のコメントを得たのである。このコメントなしには記事そのものが成立しなかった。

  山本博記者はコメントを得るための努力についてこう書いている。
  「まず太田氏だが、都内のマンションの居場所はわかったが何度訪問しても応答しない。留守かと長時間の張り込みをしたところ、在宅とわかったが、それでも応答なし。 ドアの隙間からインタビュー要請の手紙を入れたがなしのつぶて。

  そして小谷代表だが職場でも住居でも応答なし。長時間張り込み、ようやくあえたら振り切って去って行くばかり。一時は取材陣ともみあいにまでなった。」 (山本博 「朝日新聞の調査報道」 小学館文庫、二四ページ)。

  この事例では秘書は元首相の家族ではなかったが、そういう事例は少なくない。今後は政治家が献金を受けるときは、家族を秘書として任命し、 この秘書を通して献金を入金しておけばこの条項で報道機関の取材攻勢からは守られるということになろう。また四二条一項五号は、 四号イ、ロに準ずる場合も人権侵害としているから、家族でない秘書への取材と報道も人権侵害とされる余地は残されているのである。

  四二条一項四号イ、ロ、同五号の規定は、政治家や高級公務員への調査報道取材と報道の抑圧に強力な効果を発揮する条文になっていることに注目すべきであろう。