エッセイ     梓澤和幸

弁護士生活30年
(11月1日)

  1971年4月に弁護士登録をした。新婚五ヶ月目である。
  この年は司法の激動期であった。
  司法研修所の卒業式に7名の修習生の裁判官採用が拒否されたので、 その理由を聞かせていただきたいと発言した阪口徳雄君が罷免される事件があった。
  千代田区の紀尾井町にあった研修所の大講堂に卒業式がおわって数時間修習生が待たされた。 聴聞のために呼び出された部屋から大股で歩いてきた阪口君が、 きっと奥歯をかみしめるような表情で胸のポケットから紙を取り出して低く押し殺したような声でそれを読みあげた。
  「司法修習生を罷免する。」
  この出発の日の出来事はその後の私の法律家人生を象徴するような出来事であったといってよい。
  彼の地位の復活と7名の採用のための仕事、なれない新人弁護士としての仕事でスケジュールがいっぱいとなった。 家に帰るのは早くて12時、午前2時3時ということもあった。
  まだ24歳の妻には申し訳ないことだった。

  私は東京の北の端にある王子の法律事務所に就職した。
  木造2階だての建物に数人の弁護士、三人のスタッフという庶民的な事務所だった。
  この頃にであった人々は、忘れがたい印象を残す。
  もう80歳なのに、雨の日でもカッパをきて何キロも先の赤羽から自転車に乗ってやってくる高齢者がいた。
  事件のうちあわせのため家をたずねた。一人暮らしだったが、 お茶の間いっぱいになった家具や身の回り品の中から急須を出してお茶をついでくださったその手が、 ふしくれだって大きいのに驚くと 「いやあ、あなた。昔の人間はこうやって苦労して働いたんですよ」。 と幼い頃の話をしてくださった。
  私は高齢者のかたの事件を比較的多くやってきたが、この方から教えていただいたことが生きている。 その人生がもたらす誇りの高さ、しかし周囲が正当にそれを認めて対応してくれない孤独──。

  ドーナツ型に広がって行く東京の周縁にあたるこの地区に特別に多かった紛争は、高層マンションと周辺住民のトラブルである。
  普通は建物の北側にある住宅の日照権が害されるのだが私がかかわったある事件は少し変わっていた。 公園の南側に大きなマンションができると、そこで遊ぶ人々の日照への影響が大きいという問題である。
  長い交渉は決裂し、杭うちの機械が強行搬入されることになった。日の出とともに大きなトラックがやってくる。 トラブルがあると逮捕者がでたりするので弁護士も現場に張りこむ。
  ご近所の家にとめていただき、あつい味噌汁とご飯をいただいて現場にたった。 冷えこんだアスフアルトが朝の日差しであたたまると、道路から湯気のようなものがたちあがってきれいに映えた。
  何人か早く出てきた人の手が冷気で赤くなっていた。
  そのうちの一人のリーダーの手も。すると20代の息子がその手を自分の両手でつつんであたためた。 この親子は息子の進路をめぐって深刻な葛藤をかかえていた。背後からさす朝日の光がこの光景をてらしている。 私は緊迫した状況も忘れてこの二人を凝視した。
  この情景は新人時代を追憶するとき必ず記憶の中によみがえる。

  10年後、神田に事務所を開いた。時を経ると、取り組む事件も変わる。 新しく登場した問題の一つは、外国人労働者、難民問題と国際人権問題である。
  1980年代の半ばから短期滞在ビザで入国し、工場労働に従事し、滞在期限後も滞在して働き、 本国に送金する出稼ぎ労働者が増えた。今26万人のオーバーステイの人々、ほぼ同じ人数の日系人労働者がいる。
  フィリピン人の工場労働者がある日、英字新聞で弁護士会の相談窓口の門をたたき紹介されて事務所にみえた。 片方の目をうしないもう一つの目の視力もよわったので、帰国して治療したい。しかし補償もうけていない。 本裁判は時間がかかるので損害賠償仮払い仮処分をおこし、会社側の言い分を聞いて驚いた。 賃金水準からいって、支払うべき損害は日本人の8分の1だという。 今は当たり前のようにこの理屈が展開されるが、はじめてきいたときは反発した。
  それでも労災補償と会社からの支払いで、まとまった補償を手にすることができた。
  それほど大きくはない部屋のドアにむかって、歩きながら中年のその男性は何回もこちらをふりかえって言った。 「これで家族といっしょに雑貨やさんをやってくらします。あなたがたのような日本人にあえてよかった。 こんどマニラにくるときは必ず声をかけてください」。

  1993年国連が主催するバンコック地域人権会議、ウイーン世界人権会議に出席した。
  政府代表、NGO代表、マスメデイアの取材陣で9500人にもなる大規模な会議であった。 東欧社会主義の崩壊、ボスニアヘルツェゴビナの民族紛争、など世界の枠組みが大変動してゆくこの時期、 人権はどんな意味づけをされるのか。
  各国で危険をおかして活動している弁護士や人権活動家のいきいきした表情、演説、デモ、会話、会議などの体験の中で、 積極的、肯定的な仕事への新しい情熱を培うことができた。 韓国、マレーシア、オーストラリア、アメリカ、イギリスなどに、やあやあと挨拶し、助け合う友人を作ることもできた。
  日本がどう見られているのかも実感した。経済力、それと正比例しない道義的な敬意。
  戦争責任、戦後補償、難民問題での責任を誠実にはたさなければ、 日本と日本人は対等な友人として迎えてもらえないのではないか。瀋陽事件もその思いを強くさせた。

  報道と人権も1980年代半ばから新しい問題として登場した。
  私は日弁連の人権擁護大会実行委員として、1987年の熊本大会、1999年前橋大会の準備に参加した。 また報道被害を受けた被害者の救済活動にも参加した。
  今、名誉毀損やプライヴァシーが喧伝され、ひとつの解決策として、個人情報保護法や人権擁護法案が提案されている。
  このアジェンダの中で語り落とされている論点に触れたい。
  それは、被害者の視点である。
  メデイアは、自らが苦しめてしまった人々の語るところにもっと耳を傾けるべきだ。

  あまり知られていない事件の経験をお伝えしたい。
  その人は、冤罪で逮捕された。40日間の勾留の後、帰宅するとすべてが変わっていた。 許嫁との婚約は破棄され、職を失い、近所でも疎外された。釈放後母が他界し、葬儀が行われたが、参列者は数えるほどだった。
  こうなったのは、逮捕の際警察の情報によって、暴力団の関係者だと書かれたことが原因と思われた。それは事実無根であった。
  事件が検察によって不起訴とされた後、会見をして無実を明らかにし、新聞各社の支局に出かけた。
  ある新聞社の支局でご本人が、誤って報道された内容でどんなひどい体験をしたか訴えたときのことである。 記事の編集にあたったデスクの男性の目の色が一瞬のうちに変わった。無言だったが、それだけ驚きの深さを伝えていた。 訂正記事について合意して交渉を終えた。全部の社をまわったときには時間は12時をすぎていた。

  よく知られた事件では松本サリン事件のことがある。河野義行さんと弁護人の永田恒治さんのところには何度も通った。 深刻な体験からひきだすべきことがあると信じたからだ。河野さんは追いこまれて逮捕されるかもしれないという危機があった。
  1994年6月28日に事件発生、7月30日と31日の事情聴取の際には、 河野さんを犯人だという前提にたって警察から執拗な質問が繰り返された。
  弁護がなければ逮捕がありえたと、永田弁護士は語っている。 その弁護活動とは密室で行われている事情聴取を白日のもとにさらすこと、 それにサリンなど自宅でできないことを河野さんを犯人視する流れの中でも自分の目を失わない記者に接触し、 捜査への監視の目を絶やさないようにすることであった。 この人の人生の難局は打開できなかったというような仕事をできることが弁護士という仕事の栄光なのだと信じている。

  母校への寄附講義に招かれたとき私が強調したことがある。
  COMPASION ── 共感共苦という言葉である。
  「人の苦しみが君のものとなったとき、人権は君のものだ」。 学生の中でこのことばを印象深くうけとってくれる人がいた。
  弁護士という職業を、そのような動機で選択する後輩があらわれることを私は期待している。