エッセイ     梓澤和幸

ナイアガラ ──時を忘れる──
(3月13日)

  17年前、学生時代以来はじめて海外に出た。メキシコの首都メキシコシティーには大きな国立のムゼオ (博物館) がある。
  その入口のホールにかかった壁画を私は丹念に観察した。
  左側の壁の手前にアジア大陸が描かれ、ずんぐりした茶褐色の人種が数えきれぬほどたくさん北をさして歩いていく。
  真ん中の壁から右側の壁にかけて、まだ陸続きだったユーラシア大陸とアメリカ大陸をわたるインディアンの祖先が南を指して移動を重ねて行く。現代の版図で言うところのカナダ、アメリカ合衆国、メキシコ、グァテマラ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、チリを何世代もかけて移動を重ねて行ったのだろう。何万年もの時の経過を要したに違いない。思わず深く息を吸いこむ。
  そのままアヤ・アステカの文明の遺跡の陳列をたどっていくと、インディヘナの顔を彫った彫刻に出会った。
  短くて、小鼻が大きく広がった鼻、もりあがったかん骨、張ったえらの男の顔は、実に私たち自身に似ている。
  アジアの私たちと遠く隔たったこの大陸のインディヘナは何万年も前に遡ると共通の祖先をいただいている!
  何か、厳粛な気持ちにさせられる発見だった。

  1991年9月、東京で開かれたアジア太平洋法律家会議にアジア各国からたくさんの法律家が参加してくださった。
  その前の年、つまり1990年9月、この会議の準備会議が開かれた。まだつきあいの浅かった韓国から参加していただけるようにと、先輩の小野寺利孝弁護士と私が渡って会議の案内をすることになった。 (このときの旅の様子はまた稿を改めて書きたいと思う)
  私たちのアピールを真摯に受けとめてくれて、大学の教官の仕事をしている法学研究者2名、それに後で非常に親しい友人となった千正培 (チョン・ジョン・ベ) 弁護士がこの予備会議に代表として参加するため来日された。
  神田のホテルではじめてお会いしたとき、三人ともいま学部の学生を終えたばかりの少年のような表情をしていた。弁護士は91年ソウルの渉外事務所で仕事をしていたのでちょっと違うが、研究者のお二人は立居ふるまいも実に素朴、ぼくとつだった。
  夜ホテルの部屋をたずねた。ベッドの上にあぐらをかいて車座になって議論をしているところだった。中に入れてもらうと、三人の中でももっとも精かんにして素朴、つめえりの学生服を着たら私たちの学生時代 (つまり1960年代) のような雰囲気の研究者が、ボストンバックの中からご持参の韓国製清を出してコップに注いでくれた。味が濃い。ぐうっと飲み干さないと承知してくれない。英語が不自由な人だったから無言のままで、これを飲まなければ話がすすまないという表情をするのだった。
  なかなか笑わない人だった。一番上のお姉さんが日帝時代 (日本が朝鮮半島を植民地としていた時代)、日本の圧迫を避けて中国の東北部に逃れていったまま消息がわからなくなったという家族史を負っている。それに、全国で教師が1500名解雇され、1300名 (当時の数。今はもっと多い) の政治囚がいまなお獄中にいるという現実もその厳しい表情に影響を与えているのだろう。
  終始、日本という国と、その中にある私たち法律家への懐疑の雰囲気を持っていた。
  少し酒がすすんでくると話もすすんだ。

  「梓澤さん、二つの人種民族の相似性を確かめる方法を知っていますか?」
  彼によると、手首からひじまでの長さが近いほど、その二つの民族は人種的に近いのだという。韓国人とアメリカ大陸のインディヘナは最もその長さが近いそうだ。
  「ナイアガラというのは、古代韓国語で、時を忘れるという意味です。我々の祖先が、あの滝を見てあまりの美しさに、ナイア・ガラ、と叫んだのだ。」
と彼は少し不自然な英語で言うのだった。
  そばで弁護士が笑いながら、 「どうかなあ」 「信じない方がいいですよ」
と言うと助教授は学生同士のように、
  「いや、そうじゃないですよ」
と言って真顔で反論し、互いに韓国語で討論し始めた。
  その場で決着はつかなかったが、私はメキシコのムゼオの壁画を思い出しながら、この刑法の助教授の話を信じたい気持ちになっていた。
  それにしても私たちは何とのん気だったのだろう。
  中学2年の英語のテキストの 「ジャックアンドベティ」 の受動態のレッスンでは、 『アメリカはコロンブスによって1492年にアメリカを発見した』 と受動態に直したりさせられたが、その内容について何の疑問もはさまなかった。
  子供の頃、毎週のように見た西部劇では、ヒャホホホ−という叫び声をあげる野蛮な 「インディアン」 がアングロサクソンの騎兵隊と闘って悪者として殺される場面に拍手喝采をおくっていたのだ。
  まだある。
  マゼランと聞けば、私たちは反射的に世界一周の英雄、と言うだろう。彼は世界一周の旅の途上で野蛮な原住民に殺されたのだ、と歴史の授業で習った通りに。しかしフィリピンの人々の常識では、彼を倒した青年がスペインの侵略に身を挺して闘った民族的英雄なのだ。
  世界中で新しく、民族の胎動が始まりつつあるこの時代に、片一方の視点から作られた歴史の記憶をはぎとり、民族の、さらには人種の古層にまで遡って、私たち日本人の生きるべき道を探っていく勉強をしたい。
  しきりにそういう衝動に駆られている。