エッセイ     梓澤和幸

小説を読むということ
(2003年8月27日)

  私は何人かの作家のフアンである。
  その人の小説が出るとすぐ買う。普通書店での買い物はあれこれ吟味するものだが、この人のものなら、と思って手を出す。
  そんな作家の一人として間違いなくあげられるのは、加賀乙彦先生である。
  呼び捨てにできないのは、ひそかに師匠筋だと勝手にきめているせいである。先方はご迷惑かもしれないが。
  「宣告」 がはじめてふれた作品だった。主人公が処刑される日の朝、その朝が空けてゆく情景の描写は、ことばでは記憶していないのだが、何度か美しい朝を見た記憶のある読者としては、そうだ、ことばで表現されるべき朝とはこんなものだ、と納得しながら読んだ。

  加賀さんによると、小説の持つ力、小説のあたえてくれる楽しみとは、物語ではなく人物にあるという。物語は人間を描き出す舞台にすぎない。作家がいかなる人間を創造できるか、その人間を複雑な存在としていかに実在性をもって描けるかが作家の力なのだという。そのようにして文学に接するということを学んでから、トルストイの 「戦争と平和」 とか 「復活」 とか、いう長大なものもはじめて鉛のような味ではなくなった。

  人物をみる、人間のふくざつさをそのままに受け取るということを繰り返しているうち、ことばにならない言葉のもつ意味のようなものに気がつくようになる。またその表情が作り出された場がどんな奥行きをもっているか、ということの大切なことがわかる。そんなことは、大学の文学部の学生のいうことではないか、と笑うなかれ、学生運動に忙しくて文学方面にはからきし勉強が行き届かなかったのである。
  ことばにならない言葉に興味が行くと、音楽、絵画のメッセージに興味がわく。

  というわけで何事も初心者であるから面白い。
  そういう所為のひとつとして今年の夏、永山則夫の 「異水」 (河出書房) という作品を読んだ。
  貧乏と孤独、特に孤独という感情をこの作品は執拗に細部にわたって描いたと思う。こちらの胸にこの人物の少年の日の悲しみが伝わってくる。
  そこから脱出したくてもできない孤独。そしてときおり現れる美しい空の描写。
  あたたかな人々も登場するのだが、この主人公にとってはついにそれは一時的なものでしかない。むしろ、孤独はいっそうまして行った。
  帯には、この作家の最後の日が記されていた。