国分寺の近くに鉄道学園跡がある。何万坪あるのだろう。建物は全部とりこわされて、ただ木と花と草だけが残されている。
いちおう立ち入り禁止なのだが、近所の人たちはけっこう自由に散策を楽しんでいる。
ある土曜日散歩に出かけた。花を見ることの好きな妻南クンと高2の次女と、
自分は人間だと思い込んでいるふしのある柴犬雑種のモモも一緒だ。まだ木々の新芽もふき出したばかりで緑の色はあわい。
山桜、ソメイヨシノ、八重桜とさまざまの桜が、あるものは今をさかりに、あるものは花も地面におち、そしてあるところでは、
ひっきりなしに降るように、それも無限につづきそうな感じで花びらが視界をいっぱいにうめて来る。
ここの卒業生たちが集まったあとではないか。かしの木、かえで、といった緑の淡い木々に囲まれた広場になったようなところに、
ついきのうかおとといたき火を囲んで語ったような場所があった。火を囲むようにおかれたまくら木にすわる。
火の明かりで、ただ燃える火のあかりだけで、こわされた国鉄と、
その下にあった大きな学園の歴史と学生生活のこのときを彼らはどのように語ったのだろう。
私は歌を作ったことはない。しかし、このときの光景だけは短歌型にして、
自然を前にしてめぐらした想像をとっておきたい気持にさせられて、ただ頭にうかぶままに、書き付けた。
作法にかなわぬ、未熟な表現だと思うけれど、読まれる方にこの体験を共有していただきたくここにならべてみる。
1992年4月鉄道学園跡地にて詠める
生 (も) ゆる芽のあおさの胸にしみ入りて
音なき杜に花はふりつつ
太古 (いにしえ) の空よりつづく花吹雪
花びらにまがう 白きてふ一つ
倒れ木の 枝より出づる桜花の
いのちのつよさ わが胸をうつ
ちりしきぬ 桜の花の かたはらに
かけよりつきぬ 吾娘のかがやき
わかふどのうたげのあとの 枕木に
花吹雪さす 学園の跡
二つ目の歌の情景の中で、花びらの中を、それと競うように、そして花びらの動きとは全く逆らうようにとぶ蝶を見ているときに、徐兄弟獄中からの手紙 (徐京植編 岩波書店) におさめられた徐俊植氏の書簡の描く美しい場面の叙述を思い起こした。
徐勝・徐俊植兄弟は、朴政権の下でスパイ容疑のフレームアップ (でっちあげ) でつかまり、獄中19年、獄中17年を余儀なくされた。
徐勝 (ソスン) さんとは日本で何回も、徐俊植 (ソジュンシク) さんとは韓国で2回お会いしてそれぞれの人柄にふれ、多くのことを学んだ。
その弟さんの方にあたる俊植さんが獄中で見た場面。
「……数日前、運動時間に、とんでくる白い蝶をつかまえて、しばらくの間、掌で戯れさせて真っ青な空に放してやった。この何とも言えない歓び! ぼくの、また一つの美しい瞬間として永遠に残ることだろう。……
1973年4月7日
俊植」
(岩波新書 徐兄弟 獄中からの手紙)
自由の拘束はかえって人の感性を研ぎ澄まさせるのではないか。手紙が伝える季節、獄窓から見える風景の簡潔な描写がしみいるようだ。
徐兄弟の手紙。
「この頃は完全に春の到来を感ずるようになった。梢にきらめく陽光、不透明なトルコ石色の空、大地から立ちのぼる陽炎、そして遠い追憶の中から滲み出してくる土と光の入り混じる春の匂い……。すべて再び春がやって来たことを感じさせてくれる。……
英実 (ヨンシル・徐勝氏の妹) は、春に菜の花と桜が咲き、新竹の淡い緑が目にやさしい、奥嵯峨から広沢池を経て鳴滝に来る道を歩いてごらん。京都の春で最も僕が愛した道だから……。
1979年3月8日 兄」
そして次のようなせい絶な空の描写。
「10年前、勝が炎につつまれ地面に倒された時、頭上には高く蒼い空がひろがり 〈さあ、これでこの世のすべての苦痛と決別するのだ〉 という妙な平穏のなかで、空に吸い込まれるような錯覚のうちに、口の中で 「オモニ、済みません。オモニ、赦して下さい」 としきりにつぶやきました。……
1980年5月29日 」
(母呉己順(オギスン) さんへの追悼の手紙末尾の署名には 「不孝子 勝 謹日」 と記されている。 「徐兄弟獄中からの手紙」)
いつはてるのか全くわからない地獄のような苦しみを肯定的な感情を持ってかすかな希望だけをたよりに彼らは生き抜いた。そのことが普遍的な意味をもつことだという希望をたよりに。
勝さんとはつい最近も会った。
1960年代をともに学生として日本に生き、今はもう韓国、日本ばかりかアメリカ、ヨーロッパにも広く知られるこの人から、普通の人がどのようにしてつよさと勇気を育てたのかを私は学びたい。
静寂そのものの自然の中で、おもいはあちこちにとんだ。
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