●ベルリンで
1996年10月、 「壁」 の街ベルリンを訪れた。朝7時でも外は暗く、夕闇も早くやってくる。
コートやジャンパーの襟を立てて歩く人の速度は速い。
温帯で育った人間には、ヨーロッパの秋は向かないのかもしれない。
壁が残っているチェックポイント、チャーリーに行ってみる。スカーフを巻いた、
目の大きいパレスチナ人女性が、壁で作った石細工を売っていた。
「カベ。ホンモノ。1マルク。ヤスイ」 と片言の日本語で話しかけてくる。
指差す方角に行ってみると、高さ 2.5メートル、厚さ20センチほどの鉄筋コンクリートの壁の跡が、
200メートルほどの長さで続いていた。私が立ったすぐそこは、鉄筋がむき出しになっていた。
人けも少なく、アスファルトの道から冷気が体にしみ込んでくる。
分断の悲劇も、解放の熱気も伝わってこない、荒涼とした光景だった。
壁崩壊後、ユーゴをはじめ東ヨーロッパから増加した難民、1960年代から移住しているトルコ人などの外国人労働者問題は、
実に興味深い展開を遂げているが、それは別の機会に譲ろう。
●「研修」 という名の労働
フィリピン人労働者のオーバーステイ事件を担当した。4カ月前から配慮されている若い女性の修習生と一緒に接見に行く。
警察の面会室で会った。
20代後半、二重まぶたで大きな黒い目をした少年だった。性格が優しいのか、
日本の勤め先で体験した過酷な体験を伝えるときにも、声が小さく、聞き取りにくいほどだ。いつも目元が微笑している。
ジュリアーノ (仮名) は 「研修」 の在留資格でやってきた。日本の進んだ技術を発展途上国に伝える、
という美名だが、実は、 「労働ではない、勉強なのだから」 という名目で、通常の二分の一ほどの賃金で働く口実にされる。
使用者は合法的に安い労働力を調達できる。ジュリアーノの場合はこうだった。
彼には、フィリピンのある島に、父、母、兄2人、姉妹2人の家族がいる。
長兄は、5歳のときにテーブルから落下して大けがをし、それ以来、半身不随になった。
1カ月当たり15万円ほどの治療費がかかる。
父はカリフォルニア、兄はサイパン、ジュリアーノは日本に出稼ぎに出て、障害のある兄を含む家族を支えた。
ジュリアーノは1980年代に中近東のある国で働いていたが、
帰国した際、ある日本の中小企業の社長から、日本で合法的に働く道があることを教えられた。
1年間大工として研修すれば、その後は、マニアにある日本の子会社で働かせてやるというのだ。
しかし東京では、1カ月10万円の約束だったのに、3万円の賃金しか払われなかった。
●やがてオーバーステイに
もっとつらかったのは、日曜日に教会に行くことを許されなかったことだ。
カトリック教徒の多いフィリピン人労働者の多くは、日曜日に教会に集まる。
宗教的な意味はもちろんあるが、同国人同士集まっておしゃべりをする楽しみのためだ。
異国民に囲まれた環境からいっとき抜け出し、母の国の言葉で語り合うときの解放感が、たまらなくいい。
仕事や、故郷の情報も語り合う。親切な信徒宣教師に、労働条件や、労働災害について相談することもある。
ジュリアーノが働いていた会社の社長は、彼が教会に行くことをひどく嫌った。
3万円で働かされていることのひどさに目覚めて、彼に逃げられては困るのだ。
ある日曜日、ジュリアーノは楽しくて会社のアパートに帰らず、友人のアパートに泊まった。
翌日、ジュリアーノが帰ると社長は激昂した。フィリピンのブローカー役をしている女性を電話で呼び出して、
ジュリアーノに説教させた。この女性が、電話の向こうから汚い言葉でジュリアーノをののしった。
「どんな言葉で?」
ジュリアーノは、視線を落として、口をにごし、何も答えなかった。口に出すことができないほどの屈辱を受けたのだろう。
きつい調子で早口のののしり言葉をぶつける女性の表情と、悔しさを飲み込んで電話を無言のまま聞いている青年の姿を、
同時に思い浮かべた。
翌日、彼は逃げ出した。
その後、土工、型枠工、大工と、東京や関東の各県を転々とし、最終的には、月に30万円を超える収入があった。
もうこの頃には、5年のオーバーステイになっていた。
●見えない厚い壁
2年のオーバーステイだと、懲役1年半、執行猶予3年というのが、東京地方裁判所刑事部の通り相場である。
毎年6万人の退去強制処分による出国があるのに、入管法違反で逮捕・起訴されて刑を受けるのは、
1993年の実績で2641人だ。運が悪かった人だけが勾留の憂き目を見て、前科の烙印を押される。
執行猶予でもことは簡単ではない。いったん懲役1年以上の刑の言い渡しを受けた人は、
入管法5条によって日本への再入国を拒否される。それは執行猶予を満了した後でも変わらない。永久追放になるのだ。
このような事情で、適法に働ける労働の現場を抜け出し、しかも、ほかの職場に行ってから、
ジュリアーノは、毎月15万円から20万円送って、家族、特に兄を支えていたのだ。
こうした事情を述べた被告人質問を私が終えたあと、検察官が反対尋問を始めた。
「すると君は、オーバーステイをしたことは悪くないというのか」
「反省していないのか」
煮え湯を飲まされるような尋問の繰り返しの果てに、ジュリアーノは、
「すまなかったと思っています」
と言わされた。
だが、ジュリアーノのどこが悪かったのか。3万円で使っていた社長が責められるべきではないのか。
何の道徳的な煩悶もないまま質問を続ける検察官の表情が、浅薄に見えた。
最終の弁論には、アジア人労働者に依存しながら、適法な在留資格を与えない入管政策、研修制度の矛盾、
本件の特殊な事情を述べて、刑を軽くすべきこと、特に、1年以下の懲役か罰金とすべきことを強調した。
判決は懲役2年、執行猶予3年というものだった。
またも、厚い厚い壁に体をぶちつづけているような体験を味あわされることになった。
この文章は、私が 「外国人問題弁護ノート」 (アルク新書、1999年12月10日発行) に寄稿したものです。
他の弁護士の原稿も記載されていますので、ご興味のある方はぜひご覧下さい。
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