群馬県桐生市から、海に出るのは遠い。その頃は汽車で4〜5時間は必要とした。
両国までついても、まだその先2時間の行程があった。
本納という駅に降りると、まだ経験したこともない独特の陽の明るさが目を射た。
バスにゆられて宿の近くまでたどりつくと、浜辺に続く砂の道は、がさっ、ごそっと音を立てて歩く爪の赤いカニでいっぱいだった。
父は、10代の頃、ここで2ヶ月ほど過ごしたというのだが、もう何十年も経っているのに、
海に注ぐ川のわん曲も堤防も、松の木も、白い砂浜も、
そしてどしーん、どしーんとうちよせる波も変わらない、と、遠くを見るような眼をして語った。
ただ、深く、突き刺さるような砲撃の音が不快な響きと振動をときどきよこす。
アメリカ軍の演習だった。ここは九十九里浜のちょうど真ん中あたりにある一の宮の近く、
白子浜という海水浴場近くの小さな宿だった。
素朴な作りで、部屋は2間しかなく、戸はいつも開けっ放しになっていて、
昼は、湿気を含んだ浜の風が強い磯の香りをのせて、ときおり部屋を通り抜けて行った。
3歳下の弟と私は、裏の川下の杭につながれた、竹のさおでこぐ和船にのって楽しんだ。
海はあつく、ただその灼熱だけを身に浴びて楽しむものと思っていたのに、夕方のさらっと軽くなでて行くような、
ときには、体の冷えさえ感じさせるほどの風も伴っていると、感ずることができるようになったのは、
好奇心だけがいっぱいだった少年時代を少しすぎてからだったかもしれない。
その夏、もう60歳をこえていた父、母と妻、それに幼かった娘を連れて、
私はこの浜に遊んだ。夕方の風にさそわれるように、父と私と妻は、散歩に出た。
氷屋さんがあった。どんなきっかけであの話になったかわからないのだが、父は、5歳でなくなった長兄のことを話し出した。
「きりっとした、利発な子だった」。
私は仏壇にいつもかざられていた、おもちやの馬に座って、口を結んだ利口な額をした幼い男の子の写真を思い浮かべていた。
「兵隊にいっているときに、あの子を死なせてしまった」。
30歳を過ぎていた父は、桐生から招集されて、千葉県佐倉の連隊で兵士となっていた。
リンチを受けた体験は、いつも面白おかしく語っていた。そばで聞いている母は、それをとてもいやがった。
兵士たちが、中隊長の部屋に呼び出されて行くときはろくなことはない。
家庭の不幸を聞かされるとき、卒倒するもののために後に、ささえの要員が立ったのだという。
父に届いた電報が読まれた。長男の急死である。真後ろに、本当に真後ろに父は倒れたという。
「アルバムにせいいち兄貴とおやじがうつっている写真がはってあったよな」
「よろこんでな。とてもよろこんだんだよ」
動物園に行った記憶を呼び戻したことが新たな悲しみを誘ったようだ。
鼻から下をぐずぐずにして父は泣いた。「かわいそうなことをした」。
自分が悲しいというより、命を落とした子どもの痛みを思うことばなのだ。
人の前で涙を見せることなど、明治の男にはまれなことだ。
私は、少しあわてて、黙ったまま、父の顔から視線をそらした。
よしずばりの小屋のような氷屋さんではそれぞれの家庭が楽しそうに話していた。
エピソードもう一つ。 「聞けわだつみのこえ」 という岩波文庫本がある。
その一番はじめに収録されている上原良司学徒兵の物語だ。
特攻隊に志願した兵士は帰宅を許されたのだろうか。
故郷に帰ったときの彼の言動を妹たちと友人が語ったことがあった。長野放送の番組で見た。
友人とよく語り合う場所だった山の中の太い松の木があった。
その木に背をもたれると、夕焼けが雲に映える情景が見えた。
死の直前に22歳の青年とその友人が夕焼けを黙ったまま見ている風景を想像してみよう。
友人─もう80代のはずだが、その場面を回顧して語った。
「この日のようなきれいな夕焼けでした。彼はじっと見ていましたよ。松の木に背をもたれて」。
「ふとこちらを見たのです。」
「彼の目が、何とも言いようのないほど、怒って、憤っていた。あの目だけは忘れられないんです」 憤り。
特攻隊兵士の残した表情で憤り、というのははじめて聞く表現であった。
上原学徒兵の残した文章を読んでみたくなった。
上原良司さんは1922年9月27日長野県に生まれた。テレビ番組から見ると、安量野だろう。今もしご存命ならまだ71歳である。
1945年5月11日沖縄湾のアメリカ機動隊の軍艦に突入して戦死した。
22歳だったという。死の前日に書かれた 「所感」 という遺書には、原文にあたってほしい。
「思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理念万能の道理から考えた場合、
これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが、自由の勝利は明白なことだと思います。
人間の本性たる自由を減らすことは出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、
座においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、
彼のイタリアクローチェ (イタリアの哲学者1866−1952) も言っているごとく真理であると思います。
真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく、
未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます」。
こんな卆直なイデオロギー告白がどうして家族のもとに届くことが可能だったのか目を疑うのだが、
とにかく遺書は、文庫版にのっているのだ。
ドイツ、イタリアなどの全体主義国家の敗北にふれ、 「祖国にとっては恐るべきことかもしれませんが、
吾人にとっては嬉しい限りである」 とも続けている。
このように、彼の内面の表白にふれると、松の木の根元で友人に見せた憤りの目は何を意味したのか。
私たちはそれを遡及する責任を負っているのではないか。
いまここに記した2つのエピソードは、NGOピースボードの吉岡氏の東北アジア市民による平和構築を聞いて記憶の中から立ち上った。
次のような話である。
国と国が対峙することによって生まれて来た戦争や武力行使の時代からNGOの交流、
イニシアチブによって論争の予防をしよとする国際的構想がある。コフィーアナン事務総長の提唱によって、
2005年には国連もコミットしてNGOも含めた大規模な会議も開かれる。
いま、間違えば、イラクと同じように、あるいは、それ以上に大規模な惨禍が東北アジアを襲うかもしれない危機が目の前にある。
国家は、政府は、国家益、政府益、リーダー益を考えて行動するのであろうが、
民衆は市民の立場からNGOとして行動し、論争をおこさせない行動のイメージを作り出して行きたい。
日弁連は、この地域で信頼の厚い存在感のあるNGOです。民衆の手による東北アジアの平和構想を下から、
グローカル (グローバルとローカルの合成語 glocal) つくりあげて行く中心に立ってほしい。
2月7日1時から日弁連でアニファゾフィー国連NGO局長を迎えて行なわれる集会をそのようなものとして、
とりくんでほしいのです。
これは、100%以上に、私を共振させる力強い呼びかけであった。
私は、60〜70年代を回顧するある出版記念会の席上、次のように述べたことがある。
後世昭和デモクラシーと呼ばれるかもしれない1960〜1980年代の民主主義の闘志たちの人物を形象化したこの作品群の功績は、
小さくない。
しかし同時に、大切なことは、今は、回顧し、懐かしむだけでなく、展望し、希望をもつことの出来る時代でもあるということだ。
希望とは、若者たちの中にある。新しい人々は、ほれぼれするような魅力と誠実さをもっていると主張した。
吉岡氏の話しぶり、雰囲気、そこに示された構想は私の話したことにピッタリと即するものであった。
今この小文を読んで下さっている人の中にも、きっと、この希望と魅力を形作る人がいるに違いない。
そのような人々へ。2月7日午後1時半、東京霞ヶ関日弁連会館への参加を呼びかけたい。
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