ナッツという映画のラストシーンが記憶にのこる。
精神障害があって心神喪失とされれば、主人公は一生自由を奪われる運命にある。
バーバラストライザンド扮する主人公は、弁護士とともに闘いぬいて、やがて無罪判決を得る。
風船がたくさんとんでいる青い空の下に、大きく左右に手をひろげて彼女は大きな通りを走りぬける。
空は青い。青い空に風船がつぎつぎととんでゆく。
自由という価値が人間にとってどれだけ大きいものか。
エンディングシーンに “彼女はロースクールに通い、やがて司法試験にパスして弁護士になった” という文字がならんだ。
15年ほど前に見たのだが、いつまでも記憶にのこる映画だ。
“永遠のマリアカラス” もきっと15年先に思い出すだろう。
音楽家の力、才能について人々は、本当は真実と違った理解をしているのではないか、とひそかに思っている。
声の美しさとか、指がよくまわるとか、目にも止まらぬ早さで弾く、とか。それより、もっと不可欠なもの、
つまり、不思議なほど人の魂をゆさぶり、日常の中では感じられないほどの心の動きをもたらしてくれる演奏、
それを伝えてくれる人を人は期待しているのではないか。
たとえば、激情の愛のはてに殺しあってしまうほどの愛とは、憎しみとはどれほどに、深く苦悩に満ちたものか。
目の前にあらわれた愛すべき青年とともに新しい生活を築こうとする女性が父に告げる別離の感情とはどのようなものか。
このような感情と想像力によってみずからの身体に行きわたらせ、それを自らみがいた声や楽器の音などを通じて、
言語をはるかにこえる力で伝えることのできる力、それを才能と呼ぶのだろう。
永遠のマリアカラス、という映画は、
才能にめぐまれたこの歌手の絶頂期 (この表現と本当は使いたくない、理由はのちに) の歌声をふんだんに聞かせてくれる。
だがその歌声は、ただその美しさ故に配置されているのではない。映画は55歳のカラスを登場させている。
日本公演は失敗だった。人々は絶賛したのだが、カラスは、あまりに満足できない自分の声に落胆し、
もう公の席に出ることを断って自室にこもっていた。しかも、もっとも美しかったときのレコードをかけては、
一緒にそれをうたい、いま歌えない現実になげき、苦しみ、その現実を呪うのである。精神安定剤のようなものを大量にのみながら。
ある日、舞台監督、プロデューサーをつとめる永年の親友が、その苦悩の場面をみてしまう。親友はカラスを励ましたかった。
救い出したかった。ビデオを作ろう。オペラ 「カルメン」 のビデオを。
若いときの歌声を流しながら、オペラの画面を作ってアテレコでやればどうだ。ためらうカラスを説得し、
レコードへの投資家たちをくどいて企画は大成功にむかうはずだった。
撮影の対象となるオペラの場面に奥行きがあって実に存在感がある。
レングラントの絵画のように、影に力をもたせているからなのであろう。
オペラの名場面の一つ一つもこの映画の魅力である。
ビデオ撮影にむかうカラスが55歳の女性の素顔から、ほりの深い力のみなぎった美しさをもってあらわれ、
人々の賞讃の声を浴びる場面は印象的だ。
だが、背景に流れる活躍した時代の魅了する歌声も、この輝くような顔も、実は、本当の結末へむけての伏線だった。
どのようにエンディングをむかえるのか、そのストーリーを語ることは控えておこう。
だが、彼女が最後に親友の監督に向かって言う言葉とラストシーンこそは、この映画によってみる人に極めて多義的な、
しかし、実は共通する深い命題を投げかけているのではないか。
音楽家に例をとれば一つ一つの公演、一つ一つの曲の仕上がりと評価、その栄光と想惨に問題があるのでは決してなく、
また私たちにすれば一つ一つの仕事の成功と失敗、達成が問題なのではなく、それらをずっと一本の芯のように貫く筋。
それを一言で言うと、人生、ということになると思うのだが、人生、人生こそが問題なのだ、ということなのだ。
ラストシーンに長く、長く流れる 「トスカ」 2幕目のアリアと消えていくマリアカラスの孤独な後姿に胸深く揺さぶられぬ人はいないと、
私は思う。だが、この孤独には力があった。苦悩と呪いを超えて、静かに運命を迎えるような。
人々に喜びを、深い魂の動きを与えたこの女性は、もう一度彼女が築き上げてきた一筋の道を確かめ、
その先にある一大事を迎える覚悟に到達したとでも考えさせるラストシーンだった。
青年期、壮年期は、老いや、死というテーマは忌み嫌う。だが、どのように老いるか、
どのように死ぬか、ということは、実は、どのようによく生きるか、ということなのである。
まだ人生が無限大の長さでしか感じられないときにこういうテーマのものにぶちあたっておくこともよいのかもしれない。
「永遠のマリアカラス」 は日比谷シネシカンテ2で上映中。音楽好きだったらお薦めだ。
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