エッセイ     梓澤和幸

五〇年ぶりの再会
(2005年6月11日)

  君は、あの梓澤君ですか、というメールと同窓会のお知らせメールが入ったのは二ヶ月ほど前のことだった。

  水戸五軒小学校で同じクラスだった級友からの五〇年ぶりの便りである。同窓会の呼びかけであった。
  私は小学校六年の九月、生まれ育った群馬県の桐生から、水戸の五軒小学校に転校した。
  父の仕事の関係で、一家は水戸に移ることになった。六年の夏、 仲のよかったF君に、桐生の渡良瀬川の河原で、九月から水戸に行くことになったと告げた。
  水遊びからあがり、気持ちよく冷えた顔と体に、午後の夏の陽があたっていた。 右手の、川の上流の方角には、足尾線の赤い鉄橋がかかり、時折り、のんきな音をたてて四両つなぎの列車が走る音が聞こえた。 雨上りの増水で、いつもは青い川が少し白く濁り、絶えることのない音をたてていた。
  F君は背が高く、その頃、その地方のどの子供もそうだったように、 母親が手で縫ってくれた棉のランニングに似たシャツに、着古したズボンをはいていた。
  「うそだい。うそだ。そんな遠くに行くなんてうそだ」
  強い調子で、突然の別れの話、を受け入れなかった。F君には父親がいなかった。 ローラースケートにもよく行った。お金が少しでもかかる遊びだと、お母さんからお小づかいをもらうまで少し時間がかかった。
  少し早熟で、恋愛ものの映画の看板が貼ってあると、同学年の小学生たちにはわからない、 あやしくひきこまれて行きそうな魅力をもった解説をするのだった。
  「お母ちゃんにこういう話をすると、この映画には行かせてもらえねえからな」 と、解説をさらに深めるコメントがついた。

  桐生の駅から出発するときは、母と、見送る女性たちの涙に困った。 小学校六年の私と三つ下の弟は、当時の汽車で三時間はかかる、はるか遠く離れた土地への、 憧れと期待のようなものがあって、心の奥底のほうでは、このひっこしをよろこんでいた。
  しかし母はそうはいかなかった。隣の酒屋のおばさんが、列車の窓から、 目を真っ赤に泣きはらして、 「奥さん、遊びに行きますからね。元気でね」 と、とぎれとぎれの言葉で母に声をかけていた。
  子供は親の涙を受け入れられない。私は母の方を見なかった。
  隣の酒屋のおばさんも、私の母ももういない。

  同窓会の会場は五軒小学校をとりこわし、敷地の上にたてられた水戸芸術館であった。 会場にある水戸室内管弦楽団のポスターを見て、この建物の由来がすぐわかった。
  正面入口向かって右に、勢いのある太字の筆書きの案内が貼られていた。
  上手下手というより、実にはげしい意思を感じさせた。六年前他界した義父大野三留の書を思った。
  中に入って受付の女性に名をなのった。
  そのとたんに、五〇年前の教室の風景がよみがえった。

  転校して来た生徒は、異文化の輸入者である。一方で受け入れる水戸の子供たちは、 独特の、歴史に裏付けられた独自性、より厳しく言うと排他性をもっていた。 だが、必ず、 「ここ (水戸) はこうなっているんだからあ」 と尻上がりのことばで解説をしてくれる親切な子供もいた。 同時に、出すぎると、たしなめることも忘れないのだった。
  水戸の独特のなまりで、 「来たばっかでえ。くぉのう。でっかい面 (つら) すんでねえぞ。くぉのう」 とも言われた。
  私は、顔が真ん丸で、背が高く、太っていてエネルギーがはちきれるような子供だったらしい。 自分ではこの体型が好きでなく、高校では水泳部に入ってひきしめたが、子供たちにはこの体型と、 それに似合った性格が好ましかったようだ。
  今でも一六五センチの身長で六八キロといえば、肥満に属する方だが、同級生たちには、やせた、とか、 顔が丸くなくなった、とか言われた。
  考え方の体系──性格まで変わったのだろうか。あの頃もっていた志まで変わったのだろうか。 表情や、体型の変化をたくさんの旧友に言われながら、私はそのことを考えていた。

  五人の担任の先生のうち、四人の先生がお元気でかくしゃくとして、ある種抑揚に満ちた話をされた。 人が一生を語るとき、そこにはきっと激しさがあるものなのだろ。
  中でもことし八〇歳になられたという女性の先生がひときわめだつお話をされた。
  五〇年前の卒業生が訪ねて来たときは、まことにびっくりしたこと。 申しわけないけれど訪ねてくれた子のことは覚えていなかったこと。 一〇〇〇人もの卒業生を送り出している以上、一人ひとりの顔を覚えきれない、 まして担任でない子のことをおぼえていることは不可能だということ、を前おきしたあと、次のように言われた。

  ここに来られたというみなさんは、幸せな人たちです。来たくとも来られない人、 何かの事情があって来られない人、ここに顔を見せていない人たちのことを思って下さい。 みなさんは、幸せなのよ。そのことを考えること。
  その言葉のひびきは、教師の職にある人の、教え子にさとすようなそれであった。 八〇人ものの人々は、しんと静まって耳を傾けた。
  先生はさらに続けた。

  九〇歳を過ぎた川上先生 (私たちの担任だった) も、私も、人は年を経ると (いや年を経ても)、 こういう風になるということを身を以て示すのも、教師の職にあったもののつとめだと思って来たのです。
  これからのみんなの行く手にはいろいろのことがあるでしょう。それをこえて行くのは、 あなた方一人ひとりの、あなた自身の力なんですよ。エゴイストになれ、という意味でなくて、ヴォランティアなどは多いにやるべし。 でも生きてゆくのは、あなた方一人ひとり。自分の力なのです」
  五〇年前に水戸市立五軒小学校を卒業した子どもたちが、再会する機会をもつ。 そのことを二年前に思いたったのは、私の級友丸山洋史君だった。 個人情報保護法のため、五軒小学校の同期卒業生の名簿コピーも相当にむずかしかったという。 この人は、という人にそっけない返事をされたときの落胆も聞いた。
  友だちに会って見たかったから、友だちに会って見たかったから、と丸山君はこのことを思いたった動機を語った。 五〇年前の旧友に?
  なぜだろう。

  この日、いろいろな人の人生の変転を聞いた。ガンの告知を受けて、 担当のドクターにむしゃぶりつくように慟哭したが、やがて、そのクライシスを克己した話も聞いた。 一流の芸術家になった人がどのようにして、自分のもつ資質をふるいたたせたのか、という話にも耳をかたむけた。
  このアーティストの心の奥底に何かをひびかせたある体験を聞いた。
  中学の美術の先生のことである。ある日、学校の美術室の廊下の窓から中をのぞいた。 すると先生がキャンバスに向かって何かを画いていた。
  いつも生徒たちにみせる顔とは違う表情の厳しくひきしまった表情を、中学生の少年は発見した。
  私もこの先生の作品を県の美術展で見たことを思い出す。 人がたち、つるはしのようなかっこうの工具を前にたたせた、人を想像に誘う作品だった。 何百点もの作品の中で、たった一枚だけ、輪郭ははっきりしないが、こちらの心の動きを記憶からよみがえらせてくれる絵だった。
  いまは一流の、だが当時は少年だった子供の魂を揺り動かした人がいたということを忘れてはならないだろう。
  人はこのようにして、生きたことを伝承し、歴史を刻んでゆくのである。

  少なくともこういうことはいえるだろう。
  人は生まれ、学校で友だちに出会い、勉強し、結婚し、職業を得、子どもを生み、育て、人と出会い、そして別れる。
  成功し、失敗し、絶望も、希望もある。
  だが、そこに誰の人生にも何かつらぬいているものがある。 つらぬくものの出発となる不思議な力を、人は、幼い頃に獲得するのだろう。

  アメリカの弁護士の手びきに、同窓会は何よりも大事にせよ、という教えがあったのを思い出す。
  それを功利的な手びきのように読んだ記憶があるが、もっと深い意味があったのかも知れない。
  それは、 「君がこのように生きよう、と思ったように、弁護士の仕事をつらぬけ」 という意味なのかも知れない。
  あの丸顔の太った男の子の魂にはじぬように。私は仕事の中に、直線のように何かをつらぬいてゆこう。

  同窓会呼びかけの中心になった丸山君の家のことを書こう

  父の仕事場であり、我が家族の住んでいた場所、十字屋水戸店 (泉町) から、 五軒小学校にむかって五〇〇メートルほど歩き、学校の裏手にまわると丸山君の家があった。
  長身のすっと鼻筋の通った父上、庭先の花、門から家まで長く入った路地状の敷地、白壁で木造の平屋の家が思い出される。
  日曜のたびに丸山君の家に通った。お昼ごはんをいただいてから、すぐにとび出す。
  丸山君の家の庭先には卓球台がおかれていた。近所の子が五人、六人と集まってピン、ポンと下手くそにうちあっていると、 時々それを見ていた兄上が笑いながら親切にコーチをはじめた。額が広く、聡明な表情をしている兄上だった。
  コーチは徹底していた。フォアハンドの構え、立つ位置をきめ、ロングをうちかえすことだけを覚えさせた。 バックスでうちかえす位置にボールが来ると、体をそのボールの左にまで持って行かせ、 それをフォアハンドのフォームでうちかえすよう要求した。
  バックハンドのフォームは教えなかった。きまった型で、きまったように球をうつ。 するとボールはコントロールよく相手のフォアの位置にかえって行く。 この練習をくりかえしているうち、ぼくは卓球にすっかり自信をつけた。
  気がつくと、薄暮はやがて、闇になっていた。
  丸山君の家の隣には、鼻が高く、唇の形がきれいで、細目で背の高い同学年の女の子がいた。 その子のことが気になって卓球に通ったわけではない。

  排他的な文化と書いた。維新の水戸、天狗党を生んだ水戸、武家の町水戸という文化はたしかに子供たちにも浸透していた。 街辻には剣道の道場があって、外からいつものぞきこむことができた。
  かなり高齢の、道具をはずすとよろよろしているような老人が、ひざから下に竹製の防具をつけ、 面、こてをつけて構えをすると、しゃきっと姿勢をただし、ものすごいいきおいの気合いをいれる。 相手をするのは、けいこ着に竹製のけいこ用なぎなたを低くかまえる、四〇歳前後のご婦人であった。
  その女性の気合いの声は覚えていないのだが、ひろい道場から聞こえてくる大勢の門弟たちの気合いは、とても厳しかった。 スポーツのかけ声ではない。この武道を通じて命がけで相手を倒すための訓練をしていることを感じさせるものであった。
  中学になってから、同学年の剣道場に通っている女の子が、同学年の男の子にからまれ、 ちょうどもっていたかさでたたきふせた、という話を聞いたこともある。

  私はデブの体型で、 「じゅっかん」 とも言われた。走るとどたどたしてマラソン、百メートルいずれもびりだった。
  さかあがりもなかなかできない。しかし、すもうには自信があった。
  背がいちばん高く筋肉質の体型をしたK君と対戦することがあった。誰も絶対に勝てない。
  ぼくの得意技はひきおとしである。四つに組み右肩口で相手の胸を強く押す。 意識的に強く押す。相手は反射的に押しかえしてくる。その力を利用してひき、 その瞬間に左の腕で相手の右脇を左の方向に押してひねる。
  K君は上背があって力も強く誰もかなわなかった。ぼくの番が来た。 少し低くあたってあごがあがらないような組み手にした上、左手の平で相手の右脇をもち上げ、 得意技をかけた。かからない。相手のがっしりしとした大きな体はびくともしない。だめか。
  次の瞬間、相手の大きな体に圧倒される自分を想像した。
  だが歓声があがった。K君は左ひざをついていたのだ。 表情をあまり出さないK君の、わずかに残念そうな表情が思い出される。
  このときから級友たちのぼくを見る表情がかわった。

  水戸のもう一つの思い出はかぼちゃの煮ものと花札。それに、びんづけという魚取り、性へのめざめである。
  それはまた別の機会に書こう。

  こうして、何かのできごとへの回想がきっかけとなって、一つひとつの場面がよみがえって行く。 これは、もしかすると自分を知っていくプロセスなのかもしれない。
  無欲の動機で、五〇年前の旧友と、そして何より、そのころの自らとの出会いに誘 (いざな) ってくれた丸山君、 幹事の人たちに御礼を申し上げたい。