エッセイ     梓澤和幸

ある冬の晴れた日曜日

  急に深大寺公園に行こうということになった。作家にいただいた 「法廷に吹く風」(佐木隆三著) の本をオーバーのポケットに入れて中央線で三鷹の駅に向かう。 なんだか眠気に満ちているのはリラックスしてよいことだろう。

  駅をおりると、いつも乗る路線ではなく、調布行きに乗った。停車場からは、ここぞ深大寺とばかりに格式のたたずまいの大きなおそば屋さんが両側に並んでいる。 人のいとなみが永く続いてきたことを感じさせる通りだ。少しこぢんまりした、だが歴史のありそうな店に入った。 天井と梁が黒ずみ、店内は落ち着いていた。ご家族総出の営業という感じだった。

  次女はなめこそば、妻は野菜の天ぷらざるそば、そしてぼくはざるを頼んだ。そばの味がとても味わい深かった。 そのことをそば湯を持ってきてくださった女主人に言うと、とてもいい笑顔でうれしそうに笑った。本当にうれしいときの笑顔とは、こんなに輝くものだろうか。
  「打ったばかりのおそばって、おいしいんですよ」そう言って笑うのだった。

  お店を出た左手に小さなそば打ちの場があって、脇を通ると、力を入れて打っているのかそば打ちの棒と、台がぶつかり合う音と、台の響きが外まで伝わってくる。 おやじさんが英語放送のラジオに聞き入りながら打ち込んでいる対照も好ましかった。

  深大寺公園では梅の花を見た。寒さや冷たさをのりこえるように、ひとつひとつの花は小さく、紅や白や桃色などそしてそれがいりまじった淡い色などさまざまの輪が開く。 桜が温度の上がった新しい季節の中で華やかにこぼれるように咲くのと異なって、それは何か抑えたような雰囲気で訴えるように咲く。 梅の花の下で飲んだ甘酒も寒さで固くなった体のどこかにしみ込んでやわらげてくれるような味だった。

  帰路、何回か行ったことのある喫茶店に入る。カウンターが厚い一枚板で広く、柱と梁が太い。西側の窓のむこうは、小高くなっていて、 古い木造家屋の縁側と白い障子が見え、それが独特の背景になっていた。

  妻は濃厚なシーンを演ずる隣席の男女にしきりに腹を立てていたが、ぼくはそれとは反対側、入口に近いテーブルに座った老年のご夫婦のことが記憶に残った。
  量の多い白髪と、しっかりとした肩、桑和な横顔に特徴のある男性が優しい口ぶりと視線を向けるその先には、はにかむように、 だがうれしそうにていねいにみつ豆を食べている女性がいた。

  ぼくは思わず何十年も前、この男性が女性に愛を告白するときの光景を想像した。きりっとした目と、理知的な引き締まった若い女性の顔がうかんだ。
  だが歳月が経ったのだ。
  ひとはし、ひとはし、女性は大切そうに、上品な食べ方を続けていた。

  やがて、二人は立ち上がって会計カウンターの方に向かった。
  髪が黒く、立派な体格をして、だが表情がごく善良な店のご主人が笑顔で対応している。

  先ほどの女性は、足元がどこか弱々しく、男性が心配そうに歩行を支えていた。入口のドアの開閉のときもその気遣いは続いていた。

  ドアのところに九条の会の大きなポスターが貼ってあった。代表世話人の鶴見さんも、沢地久枝さんも笑っているのだが、 憲法学者の奥平康弘さんの顔はぐっと歯を食いしばって、怒っている表情だった。厳しいいきどおりの表情であった。