エッセイ     梓澤和幸

市民と公共圏 ―― 2009年 日本の初夏
 (2009.4.19)


  土曜日の午後、私鉄の電車に乗って座席に座った。親子四人連れの一人の五、六歳の女の子が反対側のドアのところで母親に向かって、 「ああ座りたいよう。」 とむずかっている。ここでゆずってやるのは女の子の将来にとってよいことなのかどうか、と考えているうち、それは瞬間の迷いで、ゆずった。
  三〇代半ばの母親は、座っていた人間が立って空席となったのを見かけると、視線を空席に向けて数歩、歩いた。 女の子は 「パパと座りたい」 とねだり、幼い子を抱っこした父親とひとまとまりになって座った。父親も母親も一切あいさつしなかった。何の会釈もない。
  こういうネグレクトのされ方ははじめての体験だったのでとまどった。
  よほど社会は変わりつつある。
  25年ほど前、いじめという社会現象をはじめて体験事例として聞いたとき、これは新しい憲法問題だとして関心をもったがそれと似ている。
  こんなことを考えていると、ごく親しい人の目撃として聞いたことを思い出していた。

  東京駅で中央線の下りを待つ人々がごったがえしていた。まだ寒いころだった。人々が列を作ってまっている箇所で電車のドアが開いた。 席をとるために並んだ人が殺到する。一瞬の呼吸の違いで席は埋まってしまう。若い母親は二人のこどもをつれて必死に席をとった。 ほっとした表情だった。そこに疲れきった顔のお年寄りが入ってきて親子3人連れの前にたった。 小学校高学年の男の子はおずおずとそのお年よりに席を譲った。うれしそうにお年よりはその男の子に礼をいって座った。

  そのときである。
  男のこの母親は力任せに男の子の頭をたたいた。
  「あなたねえ。どれだけ大変な思いでこの席をとったと思ってんの。馬鹿だねえ。あなたっていうひとは」
  男の子はなんともいえない困惑した表情をして泣き出しそうだった。
  という話である。この話を聞いた記憶が一瞬にして思い出されたのである。

  こんな風にして他者と自己の関係が築かれるのであれば、環境とか戦争とか貧困とかに市民社会がどうして対応、克服できるだろう。 いわんや権力の座にある人々が公共の財産を簒奪したからとて対抗構想など誰かが語っても受け止めることなどどうしてできよう。
  ではどうやって、どこから……などとも考えた。

  二〇分ほどしてめざす駅に降りた。初めての街である。あてもなく商店街を明るい方向の方に向かって歩く。自分に向かって聞いてみる。 どうしたいのか。そばを食べたいのだ。落ち着いたタイプの喫茶店でもいい。
  五、六分歩くと、入口の柱、はりが太く、黒光りしたおそば屋さんがあった。
  広くはないお店だが、厨房の中で働く四、五人の人々が何だか一心不乱に作っているところが見えた。 とにかく表情といい、物腰といい、他のことには目もくれず、話もせず一生懸命であった。
  やがて帽子をかぶった年配の男性が入ってきて、咳き込むようにおかみさんに聞いた。忘れ物がなかったか、というのである。
  かすかに笑うような、だが固さがのこったような、確かめるような独特の表情をして、おかみさんが答えた。きれいな笑顔で笑った。
  「ありましたよう、ほらこのバッグでしょう」
  おかみさんはきれの手作りのバッグをとりだした。

  「ああよかった」。男性はため息をつくようにいって、おばさんと笑いあった。
  何ともほっとする善良な雰囲気が流れた。
  おかみさんはすがすがしい表情になって、こんどは夫婦二人と幼い男の子二人の四人の客席に向かって、微笑みながら機嫌良く話しかけた。
  「いま、一番いいときだよね。そうだいまが一番いいんだ」
  いまが一番いい? それじゃこれからの人生は下り坂ですか、そんなことないんじゃないかなと考えていた。 すると突然、四人連れの家族の下の男の子が悲痛な声をあげて母親の助けを求めた。
  おかみさんがとんできた。座っていた椅子の後ろ側にある隙間に、男の子のひじがすっぽり入ってしまって抜けないのだ。
  いかにも痛そうに男の子が助けを求めて悲鳴をあげる。母親はきっと抜けるから大丈夫よ、と言いながら男の子を励ましていた。 椅子の向こう側をゆっくりとまわった父親の表情は意外だった。落ち着いて微笑んでいる。「どうしたんだ」と声をかけた。
  おかみさんがスポッとはさまったひじのこちら側を力いっぱい押した。だが抜けない。
  「痛いよ、ママ、痛いよ、抜いてよ」
  「あれえ、おかしいなあ、抜けないなあ。うーっと」
  男の子のいたそうな声が続く。
  だがどうやっても抜けない。息をはいて緊張を解けば抜けるはずだ。遠慮していたがもう助けなければと思って腰を浮かした。
  すると、男の子のひじはするっと抜けた。
  「血が出てる」そう言うと母親は「ええ。大丈夫よ。」
  その声がなんともやさしいいたわるようないい響きをもっていた。

  けがはなかったようだ。おかみさんは気を遣って、湿布のためのウェットティッシュを出してあげたりした。しかし、ねんざも、擦過傷もないようだ。
  男の子が出て行くとき私は声をかけた。
  「よかったね。大丈夫?」

  男の子は、にっこり笑うかと思ったのだが、困ったような固い表情をした。とくに目がそう語っていた。 いままで後ろむきになっていたのだが、会計をすませた母親の顔が初めて見えた。 鼻筋が高く、瞳が大きく理知的で、表情に余裕があった。小さなクライシスではあったが、危機に及んでも声はあくまで落ち着いていた。 小さな男の子への声もやさしかった。
  母親は、少し笑顔となって会釈すると 「ご心配をかけまして……」 と小さな声で言って入り口にむかった。

  まだ三歳くらいの男の子は、この日の出来事を記憶しないまま、思春期を迎えるのかもしれない。
  だが、人は記憶に残らない時期に、何か謎の受容をするのだ。自分自身では統御することのできない環境と体験──。

  この文章を記す今日も晴れた日曜日である。
  大学どおりの並木道は、桜の盛りがすっかり過ぎて、高い銀杏の樹に小さな葉が淡い緑をつけ、 一枚一枚の小さな葉は先が鋭くとがっていてどれもまっすぐ天空に向かって立っていた。 気がつくと、そういう姿の銀杏の樹が幹の太く黒い桜の木の緑にまじって、石畳の道が遠く向こうで交差するところまで続き、淡い緑は陽の光の中にどこまでも続いていた。
  ふと見上げた。空は明るく雲はないのだがブルーの色には白くうすくかすみがかかっていた。