市民メデイア News for the People in Japan (NPJ) は4月20日 「どうなる日本! どうする日本!」 とのタイトルでシンポジウムを行った。
エコノミスト植草一秀氏と東京新聞記者半田滋氏をパネラーに招き、私がコーデイネーターをつとめた。
その内容は別の機会に紹介するが、以下は準備のための勉強と当日の討論の中から考えたことである。
普天間返還を実現できる主体を (2010.4.25)
梓澤和幸
普天間基地は海兵隊の拠点であり、それ以外の機能は付け足しである。防衛問題に詳しい半田滋氏(東京新聞編集委員)から、シンポの席上で確認した。
海兵隊はイラク、アフガンにも派遣され、世界の津波地震被災地などの軍事外交、
民生支援などの機能をも併せ持つ軍隊である(砂上の同盟 屋良朝博 沖縄タイムズ社)。
すなわち、日本の安全保障のためでなく、アメリカの世界戦略のために機動する部隊なのである。
海兵隊が日本列島にいなければならない軍事上の必然性はない。
アメリカから見て、北朝鮮のミサイル射程2000キロの外にあるグアム島の方が防衛上も有利であろう。(半田氏のコメント)
もともと普天間移転の合意は、海兵隊の部隊員による少女暴行ほかによる沖縄の反基地感情への対策という意味をもって浮上した。
沖縄国際大学へのヘリコプター突入事故もこれを加速した。
アメリカの沖縄基地維持、在日米軍基地維持の要求からアメリカの利益をも考慮して普天間移設の日米合意が成立したのである。
その移転先候補の辺野古の自治体首長に反対派が選出され、他の国内移設候補地徳之島も拒否。その他国内のどこもだめというのなら、
グアムかテニアンしかないではないか。
鳩山政権は外交上アメリカに対して、この提言をすべきなのは明らかである。
ただし、これが現与党の有力な支持基盤を構成する保守的な世論の反発をうけ、メディアも心配する日米同盟維持にとってのリスクになるというのであれば、
政権は動けない。主観的な好悪をこえてリアリテイーを見ればそうなる。鳩山首相の発言の迷走の真実はこの辺への危惧なのであろう。
社民、共産支持者以外の多数の人々が、あるいは、社民、共産の支持者も含めて内面がはっきり固まらないのは、
「そんな破天荒なこと言って通りっこないよ」 「言うだけなら簡単だが、外交には相手があるのだから」 という論調も多いのかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。ここは基本的なところを疑う問いを立ててもよいのではないか。
アメリカも中国、台湾、アジア政策上、日本の基地は維持したいはずである。日本の基地はアメリカにとっての好条件を備えている。
横須賀、佐世保などの軍港周辺には基地の機能をメンテナンスできるマンパワーと設備の蓄積がある。
世界で一番アメリカを優遇している受入国経済支援もある(思いやり予算)。
そもそも2005年に行われた米軍再編(全世界規模)では、反基地感情が多い箇所の基地は廃止し、コストのかかる在外基地は縮小する、
という思想が基本に流れていた。この考えに着目すべきである。普天間基地(海兵隊)をどうしても沖縄におかねばならぬという軍事的な理由や価値はない。
日本列島におく不可避の理由もない。
アメリカにとってそれほどの価値もない普天間(海兵隊)を海外に移転させなければ、日本全体の基地を維持すること自体がリスクにさらされる、
という利益衡量にアメリカを追い込むことが大切なのだ。そのバランシング思考によってはじめてアメリカは重い腰を持ち上げるのだ。
だとすれば、日本全体が沖縄と同じように海兵隊はどこにも来ても受け入れない、というように意思表示すること、
つまり、基地維持の基盤の不安定性を示すことが大切なのだと思う。
徳之島の動きはその意味で注目された。
その背景があるとき、政権の 「グアム、テニアンへ」 という要求は迫力をもち、堂々の外交交渉が実現できるはずだ。
覚悟と実践なくして鳩山キャップを批判するだけでは、足りない。ノムヒョン政権を実現した韓国の友人たちの経験が想起される。
あの昂揚感とその後の大統領選挙の敗北、前大統領の悲劇的な死、大葬列行進(50万人)の実現という短期間におこった衝撃的な出来事の連鎖が思い起こされる。
次の例を考えてみよう。
長期にわたる国労争議に解決の兆しがある。各省庁の記者会見も公開の動きがある。
沖縄密約訴訟は勝利したが、これをもたらした要因に吉野文六証言があり、さらにその背景に外務大臣の証言許可(民事訴訟法191条)があった。
新政権の岡田外務大臣が外交官であった吉野氏の証言を許可しなければ密約の証明は実現しなかったのである。
民主党連立政権はジグザグを描く戦後の系譜の中でみるとき、やはり民衆にとっての果実なのである。
その果実をまもりながら同時に沖縄の人々の不退転の要求を実現する。――この一見、二律背反、実は一つのものを仕上げる芸術を達成しなければならない。
私たちは賢くならなければならない。メディアに働く友人たちは民衆が自己鍛錬をできるよう踏ん張るべきときだろう。