エッセイ     梓澤和幸

「集団的自衛権と秘密保護法」 3

君死にたまふことなかれ
2013.11.1


  与謝野晶子という歌人は、戦争、日露戦争のただなかに 「君死にたまふことなかれ」、という情熱を込めた詩を書いた。

  ああをとうとよ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ、
  末に生まれし君なれば
  親のなさけはまさりしも、
  親は刃をにぎらせて
  人を殺せとをしへしや、
  人を殺して死ねとて
  二十四までをそだてしや。

の連から始まる。
第二連の

  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても何事ぞ、

のことばの言い切りのずい分のはげしさを思う。

  鹿野政直、香内信子編になる 『与謝野晶子評論集』 (岩波文庫)には、 この詩を以て危険思想と断ずる大町桂月への一歩も退かぬ反論文に満ちた 『明星』 1904年9月号の 「ひらきぶみ」 と、この詩が掲載されている。

  秘密保全法と日本版NSC法が上程され、のっぺりしたような漆黒の闇が覆う。しかし今日は珍しいほどの晴れた秋の一日、山梨県立近代文学館を訪ね、 与謝野晶子特設展をみた。歌人の家が商家で、母と、母を支えた12歳以降の思春期の晶子が、なりわいを支えたことをあらためて知る。
  旅順包囲戦に向けて兵士たちが品川、渋谷の駅から喚声を背景に送り出されて行く日々の雰囲気の中で、この詩は発表された。

  このような意見の公表を許さない空気≠フ圧力はどれだけのものであったか。
  テロの危険、逮捕、投獄の危険はどれだけのものであったろうか。
  そんな圧力をものともしないほど、そして生命の危険をも感ずる恐怖心を越えて歌人の思いは言葉にたぎったのであろう。
  声に出して読むと、消しても消せぬような、抑えても抑えがたい思いが、謳うものと読むものとで100年の時をこえて共鳴する。

  次の連(文庫P.27)はまた激しい。口語で超意訳する。

  天皇陛下よ。あなたご自身はいくさに出ていらっしゃらないが、民草に、人の血を流して、死ねということを、 けもののようなみにくい道に死ねということを命ずることを、まさかお考えではありますまい。

  この詩にこれだけ心をひかれ、釘付けになったのには訳があった。
  アメリカにはとても抵抗できるはずのない安倍与党と政権が、NSC法を通し、集団自衛権を容認したとき、 戦地に向かう自衛隊ではどれだけの犠牲者が出るのか。その参照事例はベトナム戦争にあった。
  ベトナム戦争に動員された韓国軍兵士の犠牲者数は4968名(2005年韓国国防部発表)。 韓国から50000人の兵士が派兵された中で、約1割にあたるからかなりの高率の死亡者である。
  しかし、ベトナム戦争そのものと、ベトナムに派兵された韓国軍の行ったことを資料にあたって調べていくうち、与謝野晶子が問うた、 兵士が命を失う被害の犠牲だけでなく、「兵士よ殺して、死ぬのか」 という深いテーマに行きあたった。

  次回以降に少し事実関係も調べて書く。


  後記

  君死にたまふことなかれ、を載せた雑誌『明星』1904年9月号の「ひらきぶみ」は、およそ一歩もひかぬ、とはこういうことかという迫力に満ちている。
  岩波文庫 P.19 の段落を超意訳すると。

  桂月様はこの歌をたいそう危険な思想と指弾なさる。しかし、忠君愛国や教育勅語などを引いて論ずる流行は、これこそ危険ではありますまいか。 およそ王朝の時代、源平の時代の書き物には、いまのように人を死ね、死ねといったものはおよそ見かけないが、いかがなものであろうか。
  桂月様に弟がいらっしゃるかは知らないが、兵士が出征する新橋、渋谷に一時間でも立ってみてはいかがか。 そこでは、征つ人々の友人、家族、親類が行く人々の手を握って何と言っていますか。口々に「無事で帰れよ、気を附けよ」。 渋谷のステーションにては巡査も、神主も、村長も、うちの光(兄弟の名か)も、「無事で帰れ、万歳」 と言ますぞ。口々に言う人々の声は、まことの声。
  「私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」(前掲 岩波文庫19頁〜20頁)。
  空気を恐れぬ激情、真率の心をうたえ。ふつうの人がおされてしまうときは、誰よりも激しき共感力をもち、誰よりも通る声と言葉をもつ。 つまり才能に恵まれた芸術家は自分の生命の危険など忘れて、言葉をほとばしらせてしまうのである。そういう使命を負っているのである。
  一歩を踏み出せ。百年の時を越えて歌人は私たちの胸の奥深くを揺さぶる。