エッセイ      梓澤和幸

薄暮の下で
(2006年8月31日)

  炎暑の昼が去り、暑さが丁度心地よいような頃合いになったこの日、私は、地下鉄丸の内線新宿御苑の駅から新宿に向かって歩いていた。

  「石に泳ぐ魚」 事件の弁護団会議は、よくこの近くのK弁護士の事務所で行われた。終わったあと、 向かいのお蕎麦屋さんで食べる蕎麦の味と仲間の談笑は、忘れがたい絶品であった。
 
と、そんなことを考え、まだ明るい私の一番好きな夏の薄暮の時間を歩いていた。
  夕暮れなのだが明るい。この明るさが美しいのは夏だ。
すると、乾いたような、くぐもったような、ポコという音が車道に近いところでした。

  これが小さな物語の初めの合図である。
  若いビジネスウーマンが二人、何ということはなくその音のした場所を通り過ぎようとした。車道に一時停車していた乗用車から、 白髪の、体格のがっしりした紳士がゆっくりとドアを開けると出てきた。
  歩道と車道の境界を画するガードレールのそばに、小さなドリンク剤のビンが倒れ、その先が割れていた。 若い女性は、そのビンをあらためて見直すと、それが自分たちの頭や顔にあたったときのことを想像してか、やや緊張したような不安な表情をしていた。
  ビルを見上げると、二、三階の窓には明かりがついていない。その上にいる誰かがビンを投げたのか。

  警察を呼ぼうということになった。
  次の予定のことがチラリと頭に走ったが、一方、こういう場合の市民と公共精神ということが頭を支配し、 100メートルほど先の交番に行く役を買って出ることにした。
  交番は無人だった。受話器を上げると、四谷署につながることになっていた。
  20回から30回はコールした。だが出ない。ケータイで110番した。場所を特定してパトカーを派遣してもらう。現場に戻った。 白髪の紳士が少し遅くなった私に「あんまり遅いから110番しました」と言った。
  こういうやりとりをしているうち、ポコっという音がしてからすでに20分以上は経過した。制服の若い警察官が二人到着した。 それとは別に、100メートル先の交番に中年の帽子をかぶった警察官が到着した。
  白髪の紳士は、丁寧だが厳しい調子で、若い二人に言った。
  「遅いんですよ。あなた方は。電話してからもう25分ですよ」
  若くて肌の色がきれいな背の高い警官が、「すみません」と素直に謝った。

  ビジネスウーマンのうち一人に、手帳でメモしながら警官が経過を聞く。次に来た警官がまた聞く。その問答が何故か繰り返されるのであった。 警察官の数が5〜6人になった。行きがかった人が、遠巻きに何が起こったのか、とこちらを見ているのが分かった。
  女性は同じ質問をされるたびに、今日一日営業で歩き回って疲れているのだと訴えていた。またもう一人警察官が来た。 警察官たちは到着すると、きまって、何だか疑わしげに4〜5階のあたりを見上げた。それがどこか気抜けしたような緊迫感のないのんびりした感じなのだった。
  若い警察官が、「どうしますか」と私に聞く。私は若い女性に解説した。
  「被害届を出すのですかという意味ですよ、そのかわり、もし出せば調書を取られるから12時くらいまでかかりますけどね。 覚悟しますか。私は職業的立場上残りますけどね。」
  女性の顔は疲れ切っていたし、それに今日食事のために約束していた同行の友人にしきりに謝っていた。

  少し間があった。
  白髪の紳士が苛立ったように、「あなたがたは何をしているんですか。どうしようとしているんですか」と問うた。
    これは私の疑問でもあった。
  もう、7〜8人にふくれあがった警察官たちは、ここで何をしようとしているのか、いったいこの集団の指揮を誰がとっているのか。
  しきりに一人の中年の警察官は、司令室らしいところと大きな声で連絡をとっているのだが、今この現場にいるこの人たちは、 どこに向かって何をするのかがわからない。少なくとも、誰からも表現されない。そのうち、若い警察官が言った。
  「これから捜査の者が来ますので、お待ちいただけませんか」
うんざりした顔の女性に、私は助言した。
  「このまま言うとおりにしていたら、体が持ちませんよ。近くでお茶でも飲んで待っている方が賢明ですよ。 これはあくまで任意の協力を求めているだけで、義務はないのですから」
近くに立った若い警官は無言だったが、まあそうです、というような表情であった。
  二軒先のカフェレストランで、女性たちは待つことになった。

  すると今度は、一人の私服の警察官が10分ほどでやってきた。太い眉が特徴的で善良な人柄と思えた。 到着するとこの警察官がやったことは、やはりビルをゆっくりと見上げることだった。
  そして、すでに証拠品として、収集され自転車のうしろに据えつけられた箱に収められた先の割れたビンを取り上げて、 ためつ、すかめつ見ている。するとビンの先からタバコのすいさしがころっと落ちた。タバコを吸ってすいさしを入れたビンを窓からポイと投げたのだろうか。
  通りがかったもう一人の初老の男性は、「これは見過ごせないことだ。一体、何しているんだ。早くビルに入って調べてもらわないと」、と言っている。

  いつの間にかカフェレストランから戻った女性二人、白髪の紳士、初老の男性、それに私が刑事課の刑事を囲んで、この場をどうするのか話し合った。
  その場をよくリードしていたのは、白髪の紳士だった。
「今ここで犯人をあげようとしたって無理でしょう。しかし、放っておけない。」
  「再発したら、誰かが頭にあたって大けがをする」「このビルの前に、今日こういうことがあったから、通行する人は気を付けてほしいという掲示を出したらどうですか」
と提案した。一つの名案だった。

  警察官たちにほっと安堵するような表情が流れた。被害にあった (概括的故意の暴行罪)、あるいは、 あったかもしれない (傷害) 被害者である市民たちと、駆けつけた警察官たちの間にあった、そこはかとない違和感。
  本当はあってほしい緊迫感の欠如。そこから生まれる不信の表情に警察官たちは、やりきれない思いがしていたのだろう。
  白髪の紳士は、厳しい表情のまま提案をしていたし、みんなの顔には一体何をやっているんだ、という表情が出ていた。
  「今は、ビルが閉まって入れませんから明日、調べて、またお知らせしますよ」 という私服警察官の説明があって、ようやく解散の時がきた。 あっという間に、1時間20分もの時が経っていた。

  「12人の怒れる男たち」 のラストシーンを私は思い出していた。裁判所の前に広がる階段のところに足をかけて、 ヘンリー・フォンダ扮する主演の男性が、──段上にたった男性──陪審の中で良心的に対応してくれた別の陪審員の眼を見て言う。
  「May I have your name?」
  お名前は何とおっしゃるんですか。
  “My name is Smith, Sir”
といったか。

  無言のまま車に乗って立ち去ろうとする白髪の紳士にかけよって聞いた。
  「せめてお名前だけでも……」
  超多忙に見えるその紳士が、1時間半ほどを犠牲にして発揮した公共的精神─spirit as a citizen─に、私は賞賛の声を届けたかったのである。


後註
  翌日、太い眉の警察官から事務所に電話があった。
  早速ビルの各階に聞いてみたが、ビルの上からビンが投げられたという 「状況」 が出てこなかった。(状況という言葉に職業的なにおいがあった。)
  だから、上から投げられたから注意してほしい、というはり札は出せないというものであった。車から投げられたものではないか、との推察もたつという。
  確かに、ビンが上から放物線を描いて飛んでくるところを見た人はいない。
  しかし、逆に車から投げられたとすれば、横飛びに私の視界の中に入ってくるはずで、車道の左一列に停車車両があったことからすると、 ガードレールの下にビンが落ちるとは、考えにくい。
  だが、いずれにしても警察官たちの挙動、質問には、何故か一貫したものがあったのはよくわかっていた。 それは、このビンがビルの上から落ちたのではないだろうという見込みであり、思い込みである。4〜5階から落としたのなら、ビンは割れるはずだという思い込み。

  そう言えば、「あなたは落ちてきたところを見たのか」、という質問を複数の警官から聞かれた。 どこか一本緊張感がなかったのは、そのせいだろう。リーダーシップが働いていないかのようにみえる集団にも、 やはり何らかの意思──消極的な意思──が働いていたのだ。
  あの場所で、同種事故が起こったとしよう。
  私の良心は、昨日あった物語を見過ごす自分を許せない。
  だから明日はこのことの解決のために何かをしようと思う。
2006.8.31 記