エッセイ     梓澤和幸

二つの唄


  唄が心をつかまえてゆり動かす体験がある。
  1964年。晴れ上がった秋の空の陽光の下で、ベトナムから来た男性の歌手は、やや高いバリトンの声で、歌いはじめた。 その歌を何回も聞いていたし自身で歌ったこともあった。しかしベトナムの歌手が歌う歌は、全く違った響きで心をとらえた。 歌い出しの声が記憶の中に聞こえてくる。

      ふるさとの街灼かれ
      緑の骨埋めし焼け土に

  原爆の歌である。ベトナムの歌手の故郷は、その歌を歌っているその瞬間にナパーム弾で焼き尽くされているのかも知れなかった。 地面に座って食いつくようにその歌手の姿を見上げている学生の数は四、五百人はいたかも知れない。 その中にいたぼくは、このいつもと違って聞こえる声の、何ともいえず人を包み込むようなあたたかさと、 その故に表現される憤りのすさまじさを感じとっていた。
  そして、このすさまじく伝わってくる情熱は今行われている惨虐の故なのだと自分に言い聞かせていた。 きちんと刈り上げた髪、腕をさし出すようなしぐさ、ひきしまった体、浅黒い皮膚の歌手の横顔。 それにおよそこの歌にはふさわしくない背景の空の青さと、じっと汗ばむほどの陽差しと周辺の緑がはっきりとよみがえってくる。 そうだ、日本語にはあいまいな外国人なまりが全くなく、ことばの一つ一つをいとおしむように歌手は表現していたのだ。

      今は白い花咲く
      ああ許すまじ原爆を
      我らの街に

  この光景はもう一つの歌の場面を話しているときに突然脳裏によみがえった。
  「愛する」 という映画がある。
  ハンセン氏病 (昔はらい病と呼ばれていた)。患者さんが隔離されている病院に若い娘さんが患者さんとして送り込まれてきた。 やがて誤診とわかる。しかし女性は病院から抜け出していかない。 女性は病院の中で、表現しようもなく残忍な仕打ちをうけた患者さんたちの生涯を聞き、 この人たちを捨てて世の中にもどって行くことができなくなったのだ。 母親と引き離されて10才ほどの男の子が列車につみこまれる。 母親は力の限り列車を追いかけるが力つきて倒れてしまう。 貨物列車の中には同じ病の患者さんたちがあきらめきった暗い表情ですでに乗っていた。
  そして隣の車両は、牛、豚、馬。病院でこの少年は何十年の孤独の歳月を過ごし、もう80を過ぎた老人になっていた。 故郷には一度も帰ることができなかった。病院にとどまった女性は、この患者さんを故郷の浜辺に連れていく。 老人は、浜の風を聞き、潮の香りを胸いっぱいにすいこみ、やがて海に向かって見えない目のまま走り出し、 うちよせる波をかきあげて顔に浴びた。 「うおっ」。 「うおっ」。 と体の奥底から、しぼり出すような慟哭がつき上げる。 この女性が、私は病院から出ていきませんと、医師に告げる場面があった。 上条恒彦扮する医師は、はじめは笑って、そんな軽はずみな決断はいけないと諭すのだが、 そのいさめる言葉がやがて涙でくもってしまう。
  ハンセン氏病に隔離という策を以てしたのは、人間とその頂点に立つ権力、それを支えた医師達の愚策と冷酷さであった。 遺骨さえも帰郷を許されなかった過ちは今になってさえ、謝罪も責任も明らかにされていない。 しかしこの映画は、このあやまちを糾弾するよりはむしろ、人間の善良さ、美しさを描いていた。 そのことによってもっとはげしく、もっと深く憤怒を造形化したのだ。
  日曜学校の子供たちが病院を慰問のために訪れた。透明なソプラノの唄

      名も知らぬ
      遠き島より 流れ寄る
      やしの実一つ
      ふるさとの岸を訪れて
      汝はそも波に幾月

  固く、固く表情を動かすことのなかった聴衆の患者さんたちが、少しずつ、少しずつハミングで唱和する場面は、 この映画の最大のクライマックスとして見る者を圧倒する。

      いずれの日にか 故郷に帰らん
      いずれの日にか 国に帰らん

  という歌のむこうに、病院の敷地の中に築かれた基地の景色がうつる。
  ぼくは、いつの日にかこういう唄を歌って人から人へ、悲しさ、つらさ、孤独、憤怒を通り抜けた愛おしさ、 友愛、歓喜という心の魂の動きを伝えてみたいと思う。