もう助けられないかも知れないと思うときは辛い。年末のおし詰まった時期に取り組んだ人権救済申し立てはそんな事件だった。
1990年6月、入国管理法改正にともない、在留資格認定証明交付申請という手続きが導入された。
日本に在留できる資格があることを証明する文書の交付を受けて現地に送り、ビザの交付をうけて入国する仕組みである。
日本国外にいる外国人が日本人と結婚した場合にも、この手続きを用いることができる。
パキスタン人男性ワジェドさんは日本から退去強制をうけて、現在はパキスタンにいる。
私の関わりは、彼と恋愛し結婚した由紀子さんという日本人女性から相談をうけたことから始まった。
由紀子さんは話す声がやや小さく、控えめだがどこか芯のしっかり通った人だ。
それに何より手紙に書かれてくる、きちんとととのった字が印象に残った。
国際結婚の事件では、結婚に至る経過を詳しくチェックするが、結婚の信憑性には疑問はなかった。
男性が、入管法違反で懲役一年六月、三年の執行猶予付き判決をうけているところだけが問題といえば問題だった。
由紀子さんは、執行猶予期間中に二回在留資格認定申請を却下されているので、そのことを心配そうに質問してきた。
しかし、執行猶予期間が満了すれば刑の言い渡しの効力は消滅する (刑法二七条) ことは、法律家にとっては常識だ。
私は猶予期間が終われば大丈夫です、と答えてしまっていた。
由紀子さんは、 「でも、入国管理局の係の人達のなかにはダメだと思うという人もいるんですけど……」 という。
私は一抹の不安を感じながらもどんどん手続を進めていった。
申請の時期としては、執行猶予期間が満了する95年11月に実質審査の時期があたるように工夫した。
しかし、なんとなくひっかかるところがあった。12月中旬に法務省本庁に電話をかけて聞いてみた。
由紀子さんがそばで心配そうな顔をして聞いていた。電話は法務省参事官室につながった。
この部局は法律解釈を担当するところなのか、電話に出た男性はめんどうがらずに、かなり詳しく教えてくれた。
「そうですねー、執行猶予期間が満了していれば、刑の言い渡しが効力を失うというのは刑法の解釈としてはその通りです。
しかし……」 といいながら執行猶予期間が無事に終わったあとも、
一年以上の懲役刑の判決をうけたという歴史的事実はきえない。それが入国管理法五条の上陸拒否事由の趣旨だという。
「九五年版からですが、入管六法の解説覧にそのことがはっきりかかれています」。
坂の上から押しまくってくるような勢いで説明は終わった。ワジェドさんは未来永劫日本には入れないということだ。
入管六法とは、入国管理局が監修している入管法と関連法規の条文、
解説がのっている出版物で、法務省の考え方を知る上で欠かせないものだ。
電話の内容を伝えると、由紀子さんは事務所のテーブルの上に突っ伏して泣き出してしまった。
正直に言ってこのときは見通しをもてなかった。もし却下されれば行政訴訟をやらなければならない。
長くなるなという思いが胸をよぎった。もしかすると2、3年、いや5、6年かも知れない。その間この二人はどうなるんだ。
これまた私たちの常識なのだが、行政訴訟になればほとんど勝ち目はない。
座して待つより行動で局面を変えていこうと私はスパートをかけた。まず大手町の東京入国管理局へ。
しかし、事件がすでに法務省本庁にうつっていることを確認するだけでこの日は終わった。
その後すぐ法務省本庁に出かけた。担当の永住課在留係を訪ねてみると、鋭い感じの30代の女性がでてきた。
「進行中の事件については一切お応えしないことになっていますので」 という感じは、
鋭いというよりこわいと言うほうが当たっているかも知れない。それでもねばってみることにした。
「そういうことを参事官室が言ったとしても、一般論としてはしょうがないのではないのでしょうか」 と、まずはとりつくしまもない。
そこで今度はちょっと強気に出ることにした。 「却下と言うことになるとそれは行政処分なんでしょうかね」。
すると30代女性の顔に一瞬赤みがさし、 「それは訴訟も辞さないということですか」 という。
これほど訴訟をいやがっているのか、とわかったのも一つの収穫ではあった。
しかしここがむずかしいところで、この人達の機嫌を損ねてもいけないので、
慌てて 「いやそこまで考えているわけでもないんですけれど…」 と言ったりしてみた。
これ以上は聞き出せそうもない。事情調査は打ちきることにした。ここでの読みは芳しいものではなかった。
なんであんなに訴訟のことをきいて緊張したんだろう? やっぱり却下の方向で考えているんじゃないだろうか。とも考えた。
このあたり年末の超繁忙期期でもあった。疲れが若干たまってはいた。しかしあとで後悔したくない。
やれることは全部やりきって結果を待とうと考えた。由紀子さんに相談した上で、ここは一挙に勝負手にでることにした。
日弁連に人権救済申し立てをしたのである。
弁護団の結成を呼びかけて、却下処分があったときにはすぐに訴訟を起こせるようにした。
申立書には詳しい事情をできるだけかきこむことにした。忙しいときだけに法律事務所の事務局には大変迷惑をかけてしまった。
弁護団には八名もの若い弁護士が加わってくれた。弾みのある明るい声が勇気を与えてくれる。
もう一つ力になることがあった。朝日新聞本社社会部の本田雅和記者が関心をもって下さり、
取材して事件のことを書いてくれたことだ。日弁連への申し立てをした12月27日朝日新聞夕刊に五段の記事が載った。
一日おいた29日由紀子さんから私の留守中に電話があった。
「結果が出たと言っただけで電話が切れたわよ」 という伝言だったので胸騒ぎがし、とりあえずダイヤルを回してみた。
「法務省から手紙がきまして…」 早く結果を聞きたいのだが、由紀子さんはあくまでいつもの調子をくずさない。
「おかげさまで・・・」 この言葉を聞くと、私は瞬間的に 「よかったね」という言葉を言っていた。
由紀子さんがはじめて事務所をたずねてきてから、一年半以上の月日がたっていた。
電話口のむこうから由紀子さんの深い喜びが伝わってくる。
元旦の朝日新聞社会面には 「ワジェドきて一緒に暮らせる」 という大きな記事が出た。
この事件の顛末が、辛い生活を抱えている人、
かなしい思いの毎日を過ごしている人にとって象徴的な出来事になる年でありますように。
(この文章は1996年6月に執筆されたものです)
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