コクセンという言葉は独特の響きを持っている。
「どうせ国選なんだから」 といったどこか投げやりな、手抜きをしているんじゃないかといったような。
しかし弁護士会が当番弁護士制度を設けたり、刑事弁護のための専門雑誌が刊行されたりしているこの頃では、
弁護士の間で国選弁護を軽んずるような風潮はもはやない。
ここに登場する国選事件はそういう機運が盛り上がるより少し前の出来事である。
暑い夏だった。梅雨が明けると日差しは一層強くなり、なんだか体中に元気が漲ってくる。
広い敷地の中に四階建ての鉄筋の建物があり、古い籾の木が何本か植えられていた。
昼休みになると職員の人達がネットを張ってテニスを楽しむ。
地方に行くと裁判官も職員にまじって玉を追う姿が見られて何だかホットするのだが、東京ではそんな風景は滅多に見られない。
これは東京のある簡易裁判所の法廷での出来事である。
今はその裁判所の建物はなくなってしまっている。
朝じりじりと暑い日がアスファルトに照り返し始める頃、今日の法廷が始まる。
警察署から送られてきた被告人は、法廷の中で手錠と腰についたじょうぶなロープをはずされ、
裁判官にうながされると、法廷の真ん中にある証言台にたった。
27歳だった。刑事被告人はみなそういう扱いを受けるのだが、自殺防止等のためズボンのバンドはとられていて、
だらしない印象があった。顔にむくみがあり、血色も良くなかった。
しかし背が高く、鼻筋と目もとがくっきりしていて、健康な生活を送っていればきっと好青年なのに違いなかった。
住居侵入、窃盗被告事件の第2回の期日である。被告人は公訴事実を認めている。情状が問題の中心だった。
特に被害弁償が出てきているか。もう二度とこういう犯罪をしないという補償があるのか。
(専門家は堅苦しく再犯可能性の有無という)
この日被告人の奥さんが来てくれた。
ふっと家をでたきり連絡の無かった夫が逮捕され、警察の連絡で夫のことを知り、
国選弁護人の僕からの要請で、情状証人として出てきてくれたという訳だった。
黒い法服を来た裁判官は実直そうで、髪をこざっぱりととかしていた。純血で地味な毎日を送っているように見えた。
「弁護人、今日は情状証人の調べということですか。いらっしゃっていますか」。そう言って裁判官は傍聴席を見た。
まずい。傍聴席の真ん中には、青いアロハに同じ色の半パンツ、角刈りであごの張った男が脚を左右に広げ裁判官を見上げていた。
7〜8人だったかこの男より若い男たちが傍聴席に散らばるように座っている。
ひげの男、つるつるの坊主頭、黒いだぼだぼのズボン、といった服装でつまらなそうな顔をして窓の外を見たり、
手元のスポーツ紙を見たりしている。
何かの興味でというより、おつきあいでそこにいるという感じがありありであった。
なぜまずいか。
被告人の窃盗は組織の指示でやったものではなかった。
むしろ、その小さなグループから貰っている小遣いではとても足りず、空腹にたえられず思わずやってしまった、
というのが今度の事件だった。
組をやめて、普通の人の生活をして行けばこんな事件はおこさないで済む。
やめれば再犯の可能性はない。彼は私との面会で収入も十分でないまま都合のよいときだけかりだされる生活はやめて、
普通の生活をしたいと言っていた。つまり堅気になるという事である。
今日はそれを心から誓う日である。こんな人々を前に彼がそんなことを言い出せるか。
何より気がかりなのは裁判官がどう思うかである。
しかし、傍聴席の真ん中に座っている僕より10歳は年上の男にそれは言い出せなかった。
いや気が臆したと言うより2〜3秒考えているうち、裁判官の声がかかってしまったという方が実際のところだった。
いつの間にか、僕は法廷の進行の方に夢中になっていた。
奥さんの証言は、夫は気が弱いところがあって落ち込むと酒に溺れるが、やさしい。
この事件ではじめて行方が分かりビックリしたが、もどって来るのなら受け入れる用意はあるというものだった。
これだけのことを10分で言ってもらわなければならない。
驚かれるかも知れないが、家族の情状証人は5分というのが普通でさえある。
信じて貰えるようにその思いが必然的におこるものなのだと短時間で証言してもらうのだから容易でない。
「本日までに示談を成立させる見通しがあるということだったですね。示談書は提出されないのですか」
「実は」
示談は成立していなかった。
警察の留置場はせまく暑かった。こちら側は一人しかすわれないスペースで二人を隔てる網は細かく、
捕まっている青年の顔もはっきりと識別出来ない。
しかしよく見ると身長もあり、目鼻立ちがはっきりして利発そうなひきしまった顔をしている。言葉がぼそぼそして聞き取りにくい。
独り暮らしの女性の家にしのびこんで現金を盗んだという疑いで逮捕され、起訴されていた。
二ヶ月間この警察署の留置場に身柄を拘束されていた。
被告人となったこの青年は気の弱そうなあきらめきったような表情で、網のむこうから私の顔を見ている。
「少年時代に傷害の前歴はあるけど、示談出来れば、この件も執行猶予の可能性はあると思いますよ。
示談金を用意出来る家族はいないかなあ」
「女房はいるんですけど、オレは家を捨てて飛び出してしまったし、こんなことに金を出してくれるかどうか」
記録によると青年の生い立ちは悲惨なものだった。
母親は女子大生だったが、ある事情で彼は生まれるとすぐ擁護施設に預けられた。いまだに母の顔は見たことがない。
利発そうな顔は母親譲りなのだろうか。ものごころつく頃には父親の露天商を手伝っていた。
警察が調べた記録をたどって奥さんに連絡をとった。顔の表情が固かったが、きれいな人だった。
被告人と同じようにまだ若い。あってみると捕まっている彼と不釣り合いなほどにきれいに着飾っていた。
「被害者に弁償して示談書、できれば嘆願書貰えるといいんですけどねえ」
「そうするとどうなるんですか」
「執行猶予の可能性があると思いますが。確実絶対という訳にもいかないんですけどねえ」
「と、出てくるわけですか」
「そうです」
ここまで話してきて、奥さんが彼の釈放を望んでいない様子が伝わってきた。
「どうでしょうか。示談のために彼が盗んでしまった金額をご用意していただけませんか」
「役に立つお金なら私も無理します。だけど梓澤さんは入らないでしょうけど、うちの人はアルコール中毒なんですよ。
いくらお金をつぎこんだってみんなビールに消えてしまうんですから」
奥さんの話では、苦しいことがあると酒に逃げる。
「聞いてみるとお酒は美味しくないようなんですよ。早く酔って全てを忘れて酔いつぶれてしまうのがいいらしくて。
肝臓も腎臓もめちゃくちゃです。あの人は中にいた方が体にも心にもいいんです。お金は出しません」
やっとのことで説得し、奥さんに被害額の4分の 1、10万円を出してもらうことにした。こんどは被害者の女性との交渉である。
電話をすると弁護士会まで出向いてくれた。約束の時間にあらわれた女性は髪の毛を茶色く染め、両手に赤いマニキュアをしていた。
はれぼったい目をしている。座ると足を組んでライターでたばこの火を付けた。僕が机の上に置いたファイルをちらっと見た。
「私が体をけずって稼いだお金だから。利息をつけてとはいいませんけど、一円もまかりません。
いえ一部示談なんてできません。嘆願書? 書きません。大体最低でしょう。留守に忍び込んで空き巣をやるなんて。
全部持ってくれば受け取ります。10万だけ? だから言ってるでしょう。だめだめ。受け取りません」
一部だけ受け取ってくれてもそれはそれで裁判官の量刑には反映する。僕は何とかこの預かった金を受け取って貰いたかった。
だがついに一時間も押し問答をするとお互いに言うこともなく、黙ってしまった。お金はどうしても受け取ってくれない。
金銭的な損害より、この被害によって何か誇りを傷つけられてしまった、というところが被害者の女性の強調したいところだったようだ。
どうしても10万円は受け取ってもらえない。
重苦しい雰囲気のまま、また連絡をさせて貰うことを告げて、この日の交渉は終わりになった。
弁護士会のドアを押して出てゆくその女性の後ろ姿には、決然とした様子が感じられた。
僕は青年に奥さんと被害者の様子を伝えるために警察署にむかった。
3階が面会室になっていたが、2階のせまい廊下には金属製の家具がおいてあって、その上に剣道の防具がおかれ、
壁には楷書で 「至誠」 とか 「目標管理」 といった標語が書かれていた。
じょうぶな上半身をした若い警察官が帰り際なのか、急ぎ足で通り過ぎて行く。
刑事部屋からはよく通る声で電話をしている警察官の声が聞こえていた。
通り過ぎた大部屋の刑事課の部屋の机の半分以上は空いてがらんとした感じで、
在室している刑事たちは電話をかけたり、何か書類を書いたりしていた。
その部屋を通り抜けた廊下の奥に面会室があった。
奥さんの反応、それに示談の結果を青年に告げた。青年は目のまわりを赤くして聞いていたが、今度も表情がはっきりしない。
疲れているとこういう反応の読めない相手との話についいらだってしまう。
僕の声はすこし、強く、聞き方によってはきつい調子になっていたかもしれなかった。
「いいですか。示談は難しそうなんです。ということは実刑ということだってあるんだ」
「でも」 と青年は口ごもるように言った。
「でも、女房に金は出させたくないし、僕なんかいいんだ」
この言葉にまだ若かった僕は腹を立てた。投げやりで自分をあきらめてしまったような言葉。
その言葉の表す内容はこの青年の人生にてらすと反論の余地もない。それが情けなく、また自分にとっては如何ともしがたい。
この青年の人生にくらべて僕の生きてきた生活なんて甘いはずなのに、説教のようなことを言ってしまったような気がする。
「すみません」 と言って彼は頭を下げた。
何回も留置場に通った。何故、彼が自己評価が低く、自信が無く定職をもてないのか、それを一緒に振り返ってみた。
幼いときから肉親に無条件に愛されることの無かった彼の生涯が、彼の記憶の中によみがえってきた。
法廷でも彼はたんたんとこれまでの半生を語った。
どこか言葉があっけなく僕は裁判官の方を時々見ながら、彼の反省の言葉を引き出そうとした。だがなかながそれが出ない。
「これからどうやって生きていくつもりですか」 と聞いたときのことだ。今までの応答の流れがふと止まった。
「組織はやめます。しかしどうやって生きていけばいいのか。妻にも申しわけなくておいそれとは家に帰れませんし──」
検察官は組織に戻らないというが、本当にそれは大丈夫なのか、と聞く。さすがに露骨に傍聴席の方を見ない。
しかし、あきらかに傍聴席の一団を意識しているが分かる。彼らは明らかにこの法廷のドラマに参加してしまっている。
僕は横目に傍聴席を含みながら、苦い思いで検察官と被告人の応答を聞いていた。
被告人は裁判官の方を見上げながら、真剣な表情で語っていた。
被告人質問が終わると、謹厳実直な顔をして感情を押し殺したような顔をして聞いている裁判官が
「弁護人、即決でいいですか」 と聞いた。即決とは裁判官が席を外し、急いで判決を書いて法廷に戻ってきて、判決を下すことを言う。
その日判決があることを予期していなかった僕はあわてた。
15分ほどすると裁判官が出てきて、判決を読み上げた。執行猶予の判決だった。
そうなると手錠、腰縄は解かれ、警察の車で留置されていた警察署まで連れてゆかれ、私物の荷物を渡してもらって自由の身になる。
傍聴席の一団が彼のそばを通り過ぎて行った。他の人達はがやがやとだが二人だけがちょっと立ち止まった。
一人は親分というのだろうか。アロハの男である。
しわがれた声で 「後ほどお礼に」 と、もう一人は彼と親しいのか、無言で彼と目を合わせると 「じゃあな」 と言って去った。
まだ今日身を寄せるところも決まっていなかった。裁判所から15分ほどの町まで行って仕事をさがしてみるという。
自分でやる方が大切なので、その町まで行って貰う。
しかしこれで食えないからとまたおなじ事をやったりしたら、彼は立ち直れないかもしれない。
「君の力でやってみて、だめだったらすぐ電話するんだ」。
交通費も何も持たない青年に僕は1000円札を一枚だけポケットに突っ込んだ。
一瞬金額に迷ったが、かえってこのぐらいがいいのだ、とも思う。
何度もお辞儀をしてお礼のあいさつをいうと、青年は裁判所の庭に留められた警察の車に乗って帰っていった。
事務所に帰ったが、どこか弱々しい青年のことがなんだか気になる。その日はおちつかなかった。
夕方近く、入り口近くにどやどやっとお客の気配がした。
事務局から声がかかる。入り口のたたきで、法廷で会ったアロハの男がうやうやしく四角い箱をささげ持っている。カルピスだった。
「ごあいさつに参りました。ありがとうございました」。 国選事件では関係者からお礼を貰ってはいけない。
5千円の謝礼で懲戒処分を受けた例もある。
若かった僕には、自分のもとを去ると目の前で言い切った若者の弁護人に、律儀にお礼を持ってくる親分の好意を無に出来なかった。
ことわるのが怖くもあったが。
深くお辞儀をすると親分は帰っていった。
翌日やはり電話があった。事務所に来て相談したいという。
仕事がないのだという。昨日の1000円で一食だけ食べて2駅分歩いてきたという。所持金は400円しかなかった。
話しているうち、明け渡し訴訟を依頼されているショウさんの店のことが頭に浮かんでいた。
梢さんは中華料理屋さんだった。福建省生まれの梢さんの料理は多彩だった。
家主から強引な明け渡し訴訟を起こされていて、事件はもう3年にはさしかかっていた。
僕の帰り道の途中にその店があったので時々寄らせてもらった。必ず食べきれないほどの料理を作ってくれる。
「もう。いいですよ。食べきれない。勿体ないですよ」。というと、笑いながら中国語のアクセントの入ったなまりで
「東洋人は食べきれないほど出して、お客様を歓迎しているという気持ちをあらわしてるんですよ。だから、いいんだ。
残したらそれだけ歓迎してあげた。お客様が食べきれないほど心を尽くしてあげたんだってね」
こういってどんどん作った。僕はまけずに食った。
梢さんの笑顔を思いだして、梢さんなら引き受けてくれるかもしれないと、僕は一瞬考えた。しかし依頼者である。
こんな事を頼んで押しつけにならないだろうか。大いに迷ったが僕は受話器をとった。
梢さんは、 「いいよ。すぐよこしなさい。そんな遠慮したってしょうがない。義理なんかじゃない」 と言い、
最後に 「お互い様だよ」 と、てれたように、おどけたようにいうのだった。
人は善意を締めるとき、その人が偽善家でなければ、はずかしそうな表情を示す。
この時梢さんの声には明らかにその響きがあった。
今ならこういわれても頼めないかもしれない。しかしまだ若かった僕は梢さんのこの暖かい言葉に甘えてしまった。
青年は出前やお店での配膳でよく働いていると言うことだった。一度店にも寄ってみた。
ビールをあけていると青年が帰って来たが、留置場や法廷でみるのと違って体に精気がみなぎり、
顔からあきらめきったような表情が消えていた。
これなら大丈夫かもしれない。ここで少しお店のことを教えてもらって、落ち着いたら本格的に職場探しをしてもいいか、
と僕は思ったりしていた。
一ヶ月ほど経った。
事務所を留守にしている最中、梢さんから急な電話が入った。家主からまた何か騒ぎでもおこされたのか。
そう思って電話すると梢さんの電話の声がいつもと違っていた。
すぐ来て欲しい、用事はこちらで話すという。切羽詰まった様子に何かあったことを察知した僕は、
その日の予定を調整した上、タクシーで駆けつけた。
「梓澤さんが来るんで、今、彼は使いに出してあるんだけど」 と梢さんがいう。眉にたて皺を寄せて梢さんは言った。
いつもの快活な笑顔がなかった。
「困ったことが何回も起きているんだ」
「店の酒をよくちょびちょび飲むんで、注意したんだけど改まらない。酒から離れられないんだな」
隣の焼鳥屋さんのおばさんが入ってきた。目が大きく、声がよく響く。横暴な家主とやりあっても一歩も引かない。
白いエプロンをかけて、小太りの体ですっくと立つと迫力があった。
焼き鳥を毎日串にさして売るので味に人気があり、小さな店内は煙がいつもたちこめ、
怒鳴るようにしてしゃべるサラリーマンの声で一杯だった。
おばさんが梢さんを気づかうようにみながら僕に向かって言った。
「先生。これじゃあ、梢さんがかわいそうだよ。先生に頼まれたからっていうんで無理して我慢してんだよ。
この間なんか、あの子ときたら、飲み過ぎた次の日は下半身が腫れ上がってズボンがあんたはけないんだよ。
腎臓が悪くってさ。梢さんにこれ以上まかすのは無理だよ」
「私はがんばろうと思ってんだ。だから、梓澤さんに話してもらいたいんだよ。彼にな」
と梢さんは繰り返す。
梢さんがトイレに立った隙におばさんが僕に耳打ちをした。
「あのさ。梢さんは黙ってるけど。酒のことを心配して梢さんが店内の飲み物も手をつけるな。
お小遣い当分は預かる、っていってその通りにしたら、あすこに手をつけたんだよ、あの子は」
そういって小さな木製の引き出しを指さした。
それは梢さんが金庫がわりに使っている現金入れで、開けっぴろげな梢さんは、
いつもお客の払った現金や釣り銭用の硬貨をいれていた。梢さん以外の誰にもふれさせない場所だった。
ここからワンカップの日本酒を買えるだけの金を持ち出し、青年は酒を買って路上に寝込むほど飲んでしまったのだ。
ここまで聞くと、ぼくはあまりに梢さんに申し訳なく、他に彼の行く先を考えることにした。
帰ってきた梢さんは、お店に入ってきた二人ほどの注文を聞いて席に戻ってきた。
テレビがニュースの放送を始めた。
「すみません。大変なご迷惑をかけてしまってるようで。他を見つけましょうか」
僕の顔の表情が変わったのを見てとったのか、梢さんはおばさんの方を見、そして僕の顔に視線をもどした。
「聞いちゃったんですか」
おばさんがとりなすように、そしてちょっとあわてて
「いえ。あの。いっちゃいけなかったね」
というと、気にするなといった風にそれを手で制するようにして梢さんがいった。
「梓澤さん。そんな訳でさ。監督が行き届かなくってね」
梢さんの頑固な程の善意で青年はその後すこし店で働いていたが、結局やめた。
自分で職をさがすという彼に何とか激励の言葉で送り出した。不安だったがどうすることも出来なかった。
毎日が忙しく過ぎていった。
地面から体に冷たさがしみ通ってくるような寒さが3〜4日続いた翌年の2月はじめの夕方、梢さんから電話が入った。
「あのね。彼が死んだよ」
仕事を急いで片づけて梢さんの店に寄ったのは、夜9時を過ぎた頃だった。
梢さんは店内にいるお客さんの注文の料理を作ると、調理場と客間の間を仕切っている扉を開け、
真剣な顔をして僕が座っている席のそばに立った。
このひどい寒さなのに飯場には暖房がなかった。眠れない。肉体労働の日々に睡眠不足はつらかった。
青年はもう一人の仲間と一緒に働いていた飯場の中に夜間照明灯を引き込み、毛布を掛けて暖をとっていた。
昼間の労働の疲れもあって熟睡していた。照明灯が熱して毛布がからからになり発火した。
青年は逃げ遅れて焼死した。梢さんは早口で事情を教えてくれた。
「いい奴だったよな。ほとんどしゃべらなかったけど、最初は夢中で働いた。
笑うと歯が真っ白できれいだった」 苦労の多い人生だった梢さんはめったに涙を見せない。
言葉が止まったので、梢さんの方を見ると鼻が真っ赤になっている。
「若すぎたなあ」。ため息をつくように梢さんがいう。
いつの間にかおばさんも来ていた。
「あの子は母親っているものに、結局触れることがなかったんだよねえ」
いつもはすこししわがれた大きな声で梢さんにあれこれ注意しているおばさんの声も今日は沈んでいる。
──奥さんは拘束されている場所から出さない方がいい、と言っていたが、その方がよかった。
あのとき執行猶予になっていなければ、青年はこんなに若いまま死ななくてよかった。──
悔恨とこの仕事への無力感と情けないような気持ちのまま、
僕は梢さんがついでくれたビールがはいったままになっているコップを見つめ、青年の元気な時の笑顔を思いだしていた。
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