エッセイ     梓澤和幸

こわい思い


  12月のある朝、通勤に使っている中央線の電車に乗る。
  晴れて気持ちのよい朝だった。
  鼻歌でもでそうな軽い気分で、混んだ電車もさしてつらくはない気分で乗り込んだのである。
  と、一瞬体がふれた27〜28歳の男性に体をはじきどばされそうになった。
  ヘッドホーンをつけてなにやら音にききいっているさまは、ちょっと集中しすぎていて反発するのはためらわれた。 キルティングのジャンバーを着込んでいる172〜173pの身長である。 その男におしこくられて窓側に身をよせ、横に走る金属棒をつかむと、こんどはつり革につかまっている男が猛烈に背中で押し返してくる。
  満員電車である。これしきはごめんくだされい、の感じでそっともう一回金属棒につかまるが、 どうしても背中向きになった男はそれを許さない。その横棒に両手をかけ、あらんかぎりの力で腕をつっぱりこちらの体を押し返してくる。 自分の体が電車の床に対して直角でなければならない、というのがこの男のポリシーらしいのである。 体の垂直を確認すると、男は体操選手のような動作をやめたのであった。
  ところでおしかえされたこちらはどうなっていたかというと、電車の真ん中にある、 別の男性がつかまっていたつり革の革の部分に、つかまらざるをえなかったのである。
  ところがである。このつり革につかまっっていた男性は、僕が革の部分につかまるや、 つり革の輪の部分をものすごい力でゆさぶり、つり革に断じてつかまらせない。
  左をみるとイヤフォンお宅の若い男が、じっと自分の世界に沈潜して音に聞き入っている。 僕は3人の、自分の領域は絶対におかさせないぞという男に、包囲されていることに気がついたのだ。
  もはやどんなに電車がゆれても、前にも後ろにも体を動揺させることはゆるされない。
  後ろのつり革男の肘は僕のテンポー (こめかみ) のところにしっかりあてられている。 ちょっとでもその男の逆鱗にふれれば、僕のテンポーはこの肘によってはげしくつかれるかもしれないのであった。
  この怒り狂った肘でつかれた場合、僕の頭脳は困る。なぜかといって、 あと20年は働いてもらって家族と事務所のために生計の費用を捻出しなければならないし、 救済をもとめる人々の為になすべきことはつきないからである。
  ああ、これが道路上の交通事故の場面であればどんなにか安心できたことであろう。
  この包囲する若者と中年のサラリーマンでは、仮に爆発して僕に大怪我させたとしても何の補償もしないだろうし、 支払い能力もあやしげに見えた。
  ここはとにかくやりすごすほかはない。
  そこで僕はテンポーを敵の肘からとおざけることにしたのであった。
  そーっと体の位置を右まわしにして、肘からテンボーを遠ざけた。この頃には冷や汗が背中にじっとりとにじみ、 膝の裏側も同じ状況であった。
  こうなったらしょうがない。状況を受け入れ、鋭くあたりを観察しようと思い立った。 前にがんばっている男が熱心に読んでいる雑誌を覗き込む。中央公論であった。
  湾岸戦争がどうしたとかいう文字が眼にとびこんでくる。
  とたんに中央公論男はまた垂直姿勢にこだわりだし、左手の中指と薬指に中央公論をはさみつつ金属棒をにぎり、 右手はむんずと金属棒をにぎり、こんどは顔を真っ赤にして自分の垂直姿勢への回帰を試みている。
  渾身の力をふりしぼってという表現があって、これは常套文句であまり使いたくないのであるが、 両の手をぶるぶるふるわせながら腕立て伏せをやっているさまは、けだしこの常套文句が最適という状況であった。
  僕が避難したために、彼の後方に位置する羽目になって、中年のご婦人はいたいとかあつうっつ、 とかいって若干の抵抗をこころみるのだが、顔を真っ赤にした男はその動作をやめない。
  しかし民衆の力は暴虐を許さない。満員電車の乗客の重みはその背中をつっぱらせた男の無駄な抵抗を排除し、 やがてその男の垂直姿勢を押しつぶした。男のくやしそうな表情を僕の眼は無慈悲にとらえ、 この場面の映像はしっかりと記憶におさめられた。
  しかし、その男はなおも姿勢をおこしたかと思うと、また踏ん張ろうとするのであった。両の手がぶるぶるふるえている。
  我にかえって左をみると、イヤフォーン男はうつむきかげんにしながら音楽か語学テープを聞く姿勢をくずさない。
  その一貫した姿勢を見て、僕は囲まれた3人の中でもっとも爆発しそうな男とみた。
  ちょうどこのときである。電車は新宿についた。イヤフォーン男とつり革男はおりていった。
  これは普通のサラリーマンの所業である。

  さて年があけて、初出勤の日になった。
  去年の雪もあがり、この冬毎日がそうであるような晴れの日になった。
  9時過ぎなのに電車がこんでいる。
  いっぱいになった車両に気を使いながら体をつっこむ。
  記録で一杯になったカバンを足元においたらよいか、それとも網棚にのせたらよいか迷いながらどちらともきめかねているうち、 反対側のドアの方から強力におしてくる力があって、ながれのまにまにただよっていると、 乗車した側に押し返され、ツゴウヨクつり革につかまれる位置に立つことになった。
  途端、右肩に固い物がぶつかる。
  31〜32の男性の体であった。
  この男性はつり革につかまったまま、前にも後ろにも、右にも左にも動こうとしない。
  彫像のように微動だにしないのである。
  つり革につかまった右の手が直角におれまがったまま電車のゆれにも、 満員の乗客の同様にもピクリとも動かないさまは、一種ギリシャ彫刻をさえ思い起こさせるものであった。
  彫刻のつくる固い障壁にあって、おれの右肩は壁のような手応えを感じたのであった。
  うーむ。ここまできているのか。
  おまいねー、そうつっぱったってしょうがないんだよー。その右手の力、全身に張らせたつっぱった力をぬいたらどうなの。
  と思ったのであるが、中にはそういことを言われてなぐりかかってくることがあるかも知れないし、 それで俺の顔のあたったパンチで俺が大怪我をして、この全身突っ張り男が傷害、傷害致死になっても困るし、 俺の防御打で相手が怪我をしても困る。
  そこで一計を案じて、満員の乗客の揺れの力を利用してその固い姿勢をつきくずしてやることにした。
  電車の揺れをまつ。
  うわっ来た。ほらほらこれはおれがおしてんじゃないのよ。自然の力よ。1人の力は限界があんのよ。 (と3倍の力をかけてやった。)
  もう抵抗なんてもんじゃなく、くやしそうな顔をしながら男は固く握りしめていたつり革を放して右側に倒れた。 (なんでつり革一つうしなっただけでそんなくやしい顔をするんだ。たとえば消費税があがったとか。リマの人質が釈放されないとか。 厚生省の事務次官が秘書を公費で海外につれていったとかですなあ。そういうことに憤り持ってもらいたいのです。)
  で本筋にもどすと、男性はこんどは敗者復活戦の機会をねらってきたのであった。
  逆揺れがきたときにもとの姿勢にもどろうとするのである。
  もどった。そのときのこの男の喜んだ嬉しそうな横顔ったらなかった。これまた情けない。 もっとたとえば、あこがれの女性に愛をうちあけてそれがうけいれられたとか、おやじの手術が成功してやっと助かったとかあるでしょう。 人間的な喜びの瞬間てえものが。こんなことで喜んでちゃあだめだよ。
  というわけで男の姿勢はまたもやギリシャ彫刻に復活したのであった。
  うっ。これは。一体何なのであるか。

  ウィーンの市内から飛行場にむけてタクシーにのったときの運転手さんの言葉を思い出す。
  「東京じゃあ、乗客が魚みたいにつめこまれてはこばれるんですって。」
  まだ30代なかばほどの血色のいいその運転手さんは本気でそう信じているようであった。
  魚のように詰め込まれた乗客のいきどおりは内向してサラリーマン自身をいためつけている。
  この傾向は強まっていくのであろうか。
  これは一人ひとりを大切にしてゆく個人主義とは違うな、と思う。

    (この文章は1997年6月に執筆されたものです)