この短編集に載った二番目の 「土堤」 という作品から、ぼくにはある連想がわいた。
1972年のことである。ぼくはある大学生、一東大生と一緒に鹿島駅から東京駅まで一緒に帰って来た。
鹿島灘にならぶ鹿島、神栖の海岸に重化学工業のコンビナートが1960年代に登場した。
土地の安手のとり上げ、突然の現金収入による家庭崩壊、公害など、
それはつまりは、数え切れぬ不幸をこの海岸地帯の住民の中に作り出した。
ぼくたち数人の弁護士、それにかなりの数の司法修習生が調査に出かけた。
農協を歩き、公害企業、自治体を訪ねて、この巨大な工場地帯の出現という現象にとりくんだ。
そのグループと一緒に、学生たちのグループも農協の庭先を訪れて聞き取りなどに入った。
ぼくが、列車で一緒になった学生はその一人である。
作品 「土堤」 の145項〜150項に、ものすごい重労働と、それに従事する人たちの人間像の描写がある。
この列車で一緒になった学生は、川崎の工業地帯で経験している重労働の経験を話してくれた。
その経験と小説の場面が重なったのである。
30キロ、50キロと言ったかも知れない。
学生は、毎週2〜3回は行っているという、その作業の苦しさを思い出すのに顔をゆがませながら、語っていった。
なぜ。なぜそんなところに働きに行くのか。
言葉にしなかったが、ぼくと学生は、お互いにそのことの意味をさとりながら、重い金属がぶつかりあい、
火花が散る高い天井の工場のようすを頭に思い浮かべながら話した。
小説に出て来るN少年の労働は、そのきつさ、肉体への負担は同じだが、意味が違っていた。
それが永遠にくりかえされ、その中で、人が年をとって行かなければならない宿命としての労働。
それが 「土堤」 には語られている。
ある依頼者に教えていただいたシモーヌ・ヴェイユの描く工場の風景もそうだ。
東大生は、ただ、その苦しさへの想像に顔をゆがませていた。
自慢するのでも誇るのでもなかった。
それは生きている限り永遠にその中で、年をとって行く人たちがいるのだ。
ぼくたちは、せいぜい、青年時代の2〜3年を過ごしているのに過ぎないのだから、というものだったのだろう。
だが、ぼくはこの学生への尊敬を心の中に抱きながら、それを黙って聞いていた。
あの時から30年経った。ぼくは、ぼくの道を歩んで来たが、あの学生はどうしているだろう。
と、この小説を読みながら、ぼくは、背が高く、青白い顔をしているが、がっちりした体格をした学生の人生を遠く想像した。
が、とにかく、N少年は、ぼくたちがあの列車にのっているころは、事件をおこして、この小説を書いていたのである。
宿命のように、生きて、自分でもやりようのない思いを抱いて、テロリストのテロのように、
罪なき人々を殺して、N少年は刑死して行った。
こんな言葉では率直にすぎるのだろうか。
N少年の悲しみと、孤独感とが、こちらの胸の中をいっぱいにひたし、読む前と後とでは、
まるで、違った人生を歩むつもりにさせるような、不思議な魅力をもった本だ。
“N少年にこの文章をささげる”
2000.4.20.
梓澤 和幸
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