エッセイ     梓澤和幸

ナンタの鳴る国で
(2006年4月9日)

  ソウルへ
  金浦空港からホテルに向かう地下鉄は約一時間だった。東京は桜が満開なのに肌寒いという不思議な気候だった。 より緯度が高いソウルは暖かさを感ずる天気だった。江南(カンナム)の繁華街から一歩入ると、よく見慣れたソウルの古い街並みだったが、 そこここにコブシの花が春の陽光を受けて気品に富んだ白い輝きを放っていた。
  梅もよく見かけた。新聞には三七万本の桜が咲くという観光名所が紹介されていたが、ソウルでは全く桜を見なかった。

  同行の渡辺彰吾弁護士と国家人権委員会事務所を訪問した。地下鉄の 「ソウル市庁」 駅を下車してすぐ眼に入ったのは、 装甲車の陰に姿を隠すようにして、二〇〜三〇人ずつの警察官がそこここに座って待機している姿であった。 少年そのものの幼い顔である。
  四車線ほどの大通りに眼を移すと、路上を完全にふさぐ形で、障害者たちが座り込みをしている姿が目に入った。 一九九〇年以来、一〇回以上は渡韓していると思われるが、何回もこうした座り込みや、 デモと機動隊のにらみ合いのようなものを見かけた。

  一九九一年五月、明洞 (ミョンドン) 聖堂に立て籠もった徐俊植(ソジュンシク)さんや民主活動家を訪ねたときの印象は鮮烈だ。
  素手の殴り合いに備えたものか、手足に頑丈な手甲、脚絆を巻き付け、平べったいヘルメットをかぶった戦闘警察が、 50人、100人と地面に腰を下ろし、そして、そのかたまりは辻、辻をびっしりと固めていた。
  聖堂に登る坂の途中は、ジャンパーを着て、ぎりぎりに緊張した顔の、おそらくは学生たちがさげた拳をぎゅっと握りしめて、 坂の下の警察官たちに眼をこらしていた。

  いまにもどる。障害者が大通りの通行を一切遮断している光景は豪快だった。しかし、一九九〇年前半、 ノテウ政権時代の空気がピンと張りつめたような、いつも催涙ガスがにおっているような、あの緊迫感はこの街頭にはない。
  そういえば、あの頃には、いつも獄中に少なくない政治犯がいた。

  「ここ国家人権委員会の目前でシットインやるということなんでしょうね」
  「そうか」
というような会話を交わしながら国家人権委員会のビルに入った。

  事務所に入ると、そんなに大きくないスタッフの顔のほとんどがすぐ目に入った。 ちょうど東京のUNHCR(難民高等弁務官事務所)を訪ねたときのような感じだった。
  みんな若い。ここのトップである年来の友人であるパクチャンウン氏自体がまだ41歳である。
  一つひとつの取り組みの現場から、もう一つ高い地点にまでのぼって人権の全体状況を改善しようとする志。
  よく聞いてみると、ここまできたのは1993年のウィーン人権会議以来の韓国NGOの取り組みの成果だという。 韓国NGOの人々がウィーン郊外に土地を借り、テントを張って、何十人もの活動家が合宿体制で取り組んでいたあの光景を思い出した。
  9000人もの大きなヴォリュームのこの会議で、韓国NGOの人たちは、フィリピン、 マレーシアとともにアジアのNGOグループの中心的な目立つ存在だった。とくに組織だって動き方がよく目立った。
  各国の国家保安法の問題性を明らかにするシンポが関心をひいた。三畳敷きくらいの独房の模型も展示され、私も中に入る体験をした。

  韓国国家人権委員会の設立もこのときのNGO運動の所産だという。
  五月に開かれる日韓共同の会議では、個人通報 (国際人権自由規約第一選択議定書にもとづく) により、 ジュネーブの規約人権委員会で通報者の主張が容認されても、国内法で救済されない、という矛盾をいかにのりこえるか、 という問題を取り上げたい、ということであった。日本の理論的な蓄積に学びたい、ということのようである。

  国家人権委員会は、監獄への訪問調査もくりかえして行い、具体的な成果も上げている。
  国からの独立性の点でも、全く問題ない、と自負していた。
  この二つの点では、さらに資料を取り寄せて、このHPでも書きたいと思う。

  渡辺弁護士の薦めで、「ナンタ」 を一緒に観た。ミュージカルである。ノンバーバル(言葉のない)パーカッションショーで、 ニューヨークのブロードウェイ、オフブロードウェイ、ロンドン、東京での興行の成功を果たし、いま、 徳寿宮(トクスグン)の裏手にあたるところに、この出し物だけの常設の劇場をもつ。市庁前広場から徳寿宮に向かい、 古い様式の大漢門 (デハンモン) の左手を劇場に向かって歩く。高さ四メートルほどの塀の上は太い梁のついた屋根で覆われ、 一六段の壁かわら細工で組み上げられた土塀がつづく。

  劇場に入ると、それはニューヨークのブロードウェイの劇場の大きさと同じだった。こぢんまりしていて、 俳優と観客が一体化した時間と空間を共有する。
  おへそを出した服装の女優と、五人の男優が、あるストーリーをほとんど言葉がなく、鍋、釜、流しの台、 プラスティックのビンを楽器に変え、シンバル、ドラムスの乱打と組み合わせて、舞台を作り上げていく。
  それは時に強引なほどに観客をインボルブ(まきこむ)していく。
  圧巻はやはり太鼓の乱打であった。ナンタとは、“乱打” の字を当てるのであろう。

  サムルノリという伝統的な農楽の響きを、ロックやジャズのリズムと組み合わせたリズムだが、 五人の俳優のそれぞれがすごいレベルの奏者である。技術レベルというより、 体の中心からわき出てくるエネルギーの質と量がこちらの胸を圧倒する。激しい乱打のインターバルごとに俳優たちは、顔に汗をたぎらせ、 肩で息をするほどに激しい呼吸をした。こちらも一緒に激しい息を吸う。 芸の最中に使うたまねぎやきゅうりのはしきれが第一列に座った私たちの席にとんできた。

  私は、狭い牢獄で拷問と孤独に耐えて、なお良心を長期にわたってゆずらなかったこの俳優たちの父母、祖父母の時代の人々と、 子ども孫にあたるこの若い俳優たちが、この激しいリズムを通じて対話をしているような錯覚と幻想にとらわれるようにして舞台を観ていた。

  「お父さん。 お父さんたちが、その貴い時間と自由を奪われたその何倍も何百倍も、私たちは自由にこうして息を吸うことができ、 激しい主張を世に問うことができる。ありがとう、お父さん。」
  「そうか……」
  この太鼓の音は長く厳しい道のりを経た民族の鼓動なのではないか。

  出口のそばの椅子に公演を終えたばかりの俳優たちが、 ほとんどは日本から来たと思われる観客の人たちの差し出すプログラムにサインしながら、「どうでしたか」と話しかける。
  その眼の表情と笑顔が、実に親しげで、あたかも訪ねてきてくれた友人に「おう、どうだった」と語りかけているかのようだった。

  もう一つこの旅の記憶
  大学教授の家に招かれてお茶をいただく。
  北の金剛山(クムガンサン)観光にもう100万人が参加したということを知った。 北は戦争を自分から仕掛ける力量がないことを韓国の人々は実感的に知った、ということであった。 ご自身も行かれたという夫人の弁護士も同じ感想を語っていた。

  10年来の知り合いの国会議員からの話もおなじだった。
  「私は最近ドイツへ行ってきました。ドイツは、迷惑をかけた被害者に補償をしただけでなく、領土問題を全て解決した。 日本はどうですか。
  ロシアとの北方領土、韓国との独島(竹島)、中国との尖閣列島問題など、未解決なだけでなく、緊張は一層激化している、 日本には、北が危険な国だという認識がはちきれんばかりに充満している。
  しかし、韓国からはすでに百万人の観光客が北を訪れ、彼らが自分の目で見て、この国は戦争をやれる国ではない、 という認識をもっている。韓国の民衆にとって怖いのは、北ではなく、強化される日米軍事同盟と日本の軍事力です。
  警戒すべきはアメリカがサージカルアタックで北を爆撃したとき、引き起こされる北の自暴自棄となった反撃です。」

  コモンセンス、という言葉を彼はしきりに使った。
  こんなことを聞いてびっくりしたり、悦に入ったような顔をしているあなたがたは、現実のどこを見ているのか、 という一種皮肉のこもった表現のように私には響いた。

  韓国の民衆の認識と私たちの周辺にある空気のような状況とを、数学の証明のように、どちらが正解か、 と説いてみせることは不可能だし、ほとんど無意味であろう。
  それより大切なことは、この違いがよって来たる原因をまずは確認することであり、さらにもう一つ、確実にここは動かない、 という不動の事実を押さえ、それを動員可能なネットワークを通じて流していくことだと思う。

  この三日間、大学教授の家の幼い娘たちののびのびした表情、国家人権委員会の若いスタッフの人たち、障害者の路上の座り込み、 弁護士出身の政治家の確信に満ちたアジアの動向の分析、ぐいぐいと、この時代を引っ張っていく勢いのある国、 ナンタの鳴る国で、もう一度また、私は新しい勇気を与えられた。
  
(二〇〇六年四月二〜四日の旅を終えた帰国の機上で記す)