エッセイ     梓澤和幸

忘れられないこと


  妙子さん (仮名) という離婚事件の依頼人の思い出は鮮明だ。 法廷で裁判官とやや厳しいやり取りをして廊下に出た後、妙子さんが連れてきていた赤ちゃんをだっこした、 赤ちゃん特有のうっとりするような乳臭いにおいとともに、 小さいながら男の子のしっかりした体の骨格が手に伝わってきたのをハッキリと思い出す
  「男の子ってこんなちいさいときから女の子と体つきが違うんですね」 というと、 妙子さんは僕が抱いている赤ちゃんの顔をじっとのぞき込んだ。
  服装や髪の毛の様子に生活の大変さがにじみでていた。
  今の裁判所の建物が立て替えられたのは、1983年の事だが、古い庁舎は煉瓦造りで、 一つ一つ仕切られた法廷のある部屋の室内は荘重な木造だった。今から15年以上も前のことだった。
  まだ30代だった頃のことだ。5年間別居の体験があれば、 不倫などで家庭を破壊してしまった側からの離婚請求 (責任がある側からの請求なので専門家達は これを有責配偶者の離婚請求とよんでいる) も認められて良いのではないか、という民法改正案が持ち出されるとこの事件を思い出す。

  こんな事件だった。30代半ばのサラリーマンと奥さんの間に2人の子どもがいた。 一人は5歳、もう小学校に上がる直前の男の子で下のこはまだ1歳未満だった。
  夫はある中小企業の機械メーカーの営業マンである。奥さんとは職場で知りあって結婚した。 法廷であった夫は眼鏡をかけて髪をしっかり刈り込んでおり、健康そうで血色もよく、受け答えもはきはきしていた。
  20代後半で結婚し、木造アパートに住み、少し余裕が出てくると、 賃貸マンションに移るというのが東京の子持ちサラリーマンの生活だったが、この夫婦もそうだった。
  奥さんは一人目の子どもを身ごもった頃に会社をやめた。本当は働き続けたかったのだが、夫は子育てに専念することを強く希望した。
  二人目の出産から何ヶ月かした頃から夫の帰りが遅くなり始めた。
  はじめは、11時、12時という日が連続する程度だった。不平を言うと笑いながら、つきあいがあって、という弁解をくり返す。 そこまではよかった。そのうち、午前2時、3時という風に帰宅時間が遅くなり、やがて外泊が始まった。 そして、その頃から無言電話が増えた。こちらの声が聞こえた途端にかけてきた側が受話器を置いてしまうのである。
  夫は文学が好きで、窓際に置いた机の傍の小さな本棚には文庫本がきちんと整理して置かれていた。 知りあって交際を始めたのも本の話題からだった。
  昼間次男を寝かしつけた後、妙子さんは本棚に並んだ本を見ながら夫と知りあった頃のことを思い出していた。 ふと机の右側に置かれた書類の山から封筒がはみ出しているのが見えた。
  妙子さんは立ち上がってその封筒を引っ張り出して机の真ん中に置いた。 呼吸を止めるようにして封を切ってあるその封筒をひっくり返す。
  きちんとした筆跡で差出人の女性の住所と名前が書いてあった。
  深く息を吸うと妙子さんは中の便せんを出して読んだ。女性の夫への激しい気持ちが書かれていた。
  いつも金曜日に決まった場所で会い、決まったレストランで食事をし、決まったホテルに行くようだ。 そのことを再確認するかのように手紙はあったことを再現していた。
  一気に読むと、妙子さんはふるえる手でその女性の名前と住所を書き留めた。
  しかし、夫にはそのことを黙っていた。地方にいる兄に相談すると、 民間調査機関に依頼して尾行してもらったらいいと進めてくれ、知り合いをたどってある調査事務所に頼み、尾行を依頼することになった。
  夫の写真を渡し、金曜日が夫と恋人の決まって合う日だと告げると、 調査事務所はすぐに夫の後を付けて、ホテルに入っていき2時間して出てくる夫と恋人の写真を撮ることに成功した。
  担当した調査事務所の職員はお気の毒と言いながら写真を見せてくれたが、 何か仕事をやり挙げたといった誇りのようなものが表情にでていて、妙子さんは軽く反発を覚えた。 本当はこんな写真など見たくなかったのだ。
  「当事務所は調査結果を法廷に出していただいても結構だということにしております」 という職員の言葉は、 妙子さんにはどんなことを意味するのかあまりピント来なかった。裁判などやるつもりはない。
  夫にはこの写真は見せないままでいた。しかし、外泊や深夜の帰宅をする夫とは段々会話も少なくなり、 家の中はつめたくはりつめたような空気になった。
  ある休日の朝、たまりかねた妙子さんが昨日の行動のことを問いつめると、 夫は 「そんな顔をする君の顔を見たくない」 といって、口論の真っ最中に荷物を簡単にまとめる出ていってしまった。
  それからというもの、夫は29万の給料の内から12万を送ってくるだけで、一切家庭に寄りつかなくなった。
  こういうときはほとんどと言ってよいが、第三者の女性は名乗り出てくる。
  夫が逃げ出すように家庭を後にしたある日の夜、若い女性の声で電話がかかってきた。
  夫が家を出ていることは宣告ご承知の筈なのに、事情を知らないことを装って電話をしてくる。 残酷な勝利者の感情を味わいたいのだろうか。
  「○○さんいらっしゃいますか」
  こんなビジネスタイムにサラリーマンがいるはずがない。そう答えるとぷつんと電話は切れてしまった。
  こんな電話が何回かかかってきた。一方、奥さんとしては毎日の生活に追われた。 実家のお兄さんは地方のある都市で居酒屋さんをやっているので、2年間という期間を区切って生活費を援助してもらうことになった。

  別居が始まってからちょうど1年半たった頃だった。パート先から帰ると郵便受けの中に封筒があった。
  家庭裁判所の調停手続の呼び出し状だ。決められて日に出ていった。
  夫はろくな条件も出さず、妙子さんが家事もしないだけでなく浪費家で、 家計が破壊されてしまうのでやむなく別居せざるを得なかったと主張していると、調停委員から告げられた。
  妙子さんは弁護士を頼む費用がなかったので一人で出かけた。赤ちゃんは友人に預けて。
  真珠のネックレスをつけ、眼鏡の先にチェーンをつけた女性の調停委員が、ちらっと彼女の服装を見るような視線を向けると椅子を進めた。
  隣に座った初老の男性に無言で同意を求めると、女性の調停委員は慰藉料と養育費が問題になるが、 今送ってくれている12万以上のものは望めないこと、慰藉料もせいぜい150万か200万にしかならないことを、鼻にかかったような声で言った。
  1年間の生活費にも満たない金額で離婚しなければならないのかと思うと、 彼女は頭のシンがしびれたような感じになり、ほとんど満足な受け答えが出来なかった。
  調停委員は彼女の受け答えが要領を得ないので機嫌を悪くして、彼らの言ったことを理解できたのかどうか名何回も聞いてきた。
  妙子さんは小さな声で 「でも暮らしていけませんから」 と答えた。
  二人の調停委員は顔を見合わせると 「フチョーでるねえ」 と言ってうなずき合っている。
  フチョーが何を意味するのか彼女が分からない顔をしていると、女性の調停委員が控え室で待っているように勧めた。 もう一度呼ばれてはいると、今度は夫が視線を逸らすようにして座っており、 二人の調停委員の真ん中に40代の顔立ちのはっきりした女性が座っていた。1回目の時に裁判官と名乗った女性だ。
  「この事件は双方の言い分があまりにも離れすぎていて、 調停は無理なのでフチョーにします」 「フチョーってなんですか」 と妙子さんが聞くと、女性裁判官はちょっと微笑して説明してくれた。 離婚事件は正式裁判をする前に、必ず家庭裁判所に来て調停手続をしなければならないことになっているが、 話し合いが成立しないときには調停不成立となる。これを不調と読んでいる、という説明だった。

  しばらくしてから、今度は地方裁判所から訴状と呼び出し状が届いた。
  弁護士を頼む時、お金がないときに法律扶助協会でお金を用立ててくれ、弁護士も紹介してくれるという話を友人が教えてくれた。
  妙子さんが私が修行中の東京の北区役所前の法律事務所を訪れてきたのはどんな季節だったか、思い出せない。 この法律事務所がある王子の駅前には古く茶色がかったビルがあり、 この辺りが工場地帯だった昔を思い起こさせる懐かしい雰囲気があった。
  遅くまで仕事をやるな、とか、もっといい書面を書け、時間に遅れるな、何よりお客様を大事にしなさい、 とボスから火のでる程怒られた青年時代がよみがえる。
  木造二階建てで靴を脱いでスリッパに履き替える。
  裸の人間同士がぶつかり合う方が弁護士の世界でも、特に庶民派であろうとする弁護士にはそれが普通の時代だった。
  同世代の仲間は大きな声で議論しあい、縄のれんで一杯やった。 国鉄のストがあると、なっぱ服を来た労働者達が大勢泊まり込んでる仮眠所に潜り込んで、若い労働者達と夜遅くまで語り合った。
  それはともかく。
  離婚事件で心痛むのは、一度は結婚をする所までの関係だった男女がお互いに相手を非難して争うことである。 私は妻の側の弁護を引き受けることが多いが、妻以外の女性を作ってしまった夫は素直にそのことを認めることはまずない。
  妙子さんの夫もそうだった。
  勿論夫についた弁護士の作った訴状にそのことが書いてあるはずもない。
  私は妙子さんに詳しく事情を聞き、被告の主張を簡潔に書いた答弁書を書いて提出した。
  民事訴訟の第一回目の期日では訴訟進行について、あえて見通しをはっきりさせないことがある。 剣道でいう間合いを取る、囲碁将棋でいうぼんやりとした手を打つというたとえに似ている。
  この事件の場合、離婚関係破綻以前に夫に女性がいたこと、 今もその女性と交際が続いているはずであることについては、まだはっきりさせたくなかった。 相手に証拠隠滅をさせたり、証人工作をするのを避けようとするわけである。 夫の訴状では性格の不一致があること、仕事で遅くなった夫に反発する余り朝食も作らないことがあったと書かれていた。
  妙子さんの夫のように家庭を破壊した側を、専門家は有責配偶者の離婚請求と呼ぶ。 最近少し変化があるが、有責配偶者の離婚請求を裁判所が認めないことが多い。
  妙子さんの側には例の写真と手紙があるから夫の不倫については立証はたやすいが、その時期が問題になるだろう。 家庭が壊れていた、だから恋愛に走ったという抗弁を出してくる有責配偶者が多いのである。 そこでこの女性のことを伏せて夫がいかなる主張をいうか、家庭が破綻した時期が何時というのか、 様子を見たいというのが私の序盤の戦術だった。 そのため、原告の言い分についての反論はあげたが少し抽象的だったかもしれない。それにしても……。

  その日一〇時、法廷では一五件ほどの離婚事件の口頭弁論手続が行われていた。 一九九一年頃までは離婚事件は専門部が扱っていた。この日の法廷に離婚事件ばかりが集められていたのはそのためである。
  背が高く、硬い表情で高い席に反り返ったような姿勢をとっている五〇代半ばに見える裁判官の法廷だった。
  「別居期間二年ですか。うん。どうですか。被告代理人 (裁判官は法廷で弁護士を原告代理人と被告代理人などと呼ぶ、 名前では呼ばれないことが多い) これは家庭が元に戻る可能性は少ないんじゃないですか。一回、和解期日を入れてみましょうか」
  私はまずいと思った。もう先を読んでしまっている。これで和解に進とすると、 慰藉料一〇〇万円か一五〇万円、夫にはさしたる財産はないから財産分与はない。 つまり妙子さんは二人の子どもをかかえて、それだけのお金とパートのわずかな収入で食べて行かねばならなくなる。
  私は立ち上がった。
  「まだ主張しなければならないことがあります。ここに至るまでの夫婦の間に起こった様々の出来事につきまして…」
  裁判官は遮るようにしていった。
  「すると和解の席にはつけないと言うことですか。弁論を続けると言うことですね。 それなら被告代理人、陳述書を出していただきます」
  ここで裁判所は背筋を伸ばすようにして言葉に力を込めた。昔、軍人が 「おそれ多くも」 と天皇のことを口にするときに、 気をつけをするような雰囲気だった。
  「当裁判所は (裁判官が私はの代わりに使う一人称の代名詞である。いかめしいかんじがする) 全ての事件で双方の代理人にそうしていただいております」
  というと、裁判官は当裁判所という言葉に酔ったように顔をこわばらせた私をじっと見た。
  朝一〇時の法廷というと、一五件から二〇件ほどの事件の手続が行われ、自分の事件を待つ弁護士が傍聴席に座っている。 この待ち時間は担当する裁判官の人柄、訴訟指揮の癖を観察するためのよい機会でもある。 この固い調子の裁判官の言葉に私がどのように反応するのか、同業の弁護士が見守っているのが分かった。
  「しかし裁判官、私の準備書面を出して、こちらの側から争点が何かを提示する機会を出す機会を与えていただきませんと」
  「先程から申し上げておりますように、陳述書を早い段階で出していただくことは当裁判所の方針ですから」 と、 裁判官は有無を言わさぬ調子で言った。
  裁判官と弁護士の関係は微妙である。依頼者のためには裁判官にもの申すことに何の遠慮もいらない。 しかし新人の頃には物を言っても機嫌を損ねたらまずいというような考えが働いた。本当はそんなことはないのだが。 つまり良心のみに基づく判断という尊い仕事をする職業への尊敬さえ維持していれば、思うことは徹底的に言った方がよいのである。
  しかしどうしても、判決を書く権限を持った地位にいる人に対する遠慮はどうしても働く。 つまり依頼者のために何が最上の策かについて瞬間的な判断を迫られるのである。
  私は準備書面の応酬で夫 (原告) 側に家庭破綻の時期を特定させるようにしたかったがそれを諦めた。
  そして陳述書を出すことにした。
  その代わり第三者である女性の存在についてはふせ、夫の言い分への反論だけに止めておくことにした。
  反対尋問を効果的に行うためである。双方が陳述書を出し終わり、夫婦二人の尋問を行う期日になると裁判官が代わった。
  相手側の弁護士が夫を尋問した後、私の反対尋問の番になった。 相手に手の内を見せていない決定的な証拠があるときの反対尋問の番ほど心待ちなことはない。
  裁判官からそれでは被告代理人どうぞと言われると、私は用意したメモを持って立ち上がった。 この夫婦の結婚前の交際開始以来の歴史を年表風に書き込んだメモである。
  「あなたは夫婦がうまくいかなくなった原因が、主として妙子さんにあると、奥さんの側に問題があると、そう言いたいわけですね」
  「そうです。」
  「自分にはまったく問題はないというわけですか」
  「それは長い間にはいろいろけんかなどもしましたけれど、 一緒にやっていけない原因になるようなことが私の側にあったということはありません」
  「いつ頃から夫婦の間がおかしくなったのですか」
  答えは以外だった。妙子さんから聞いている深夜帰宅、外泊が多くなり始めた時期よりも後の時期を夫は挙げた。 それは調査事務所が写真を撮った時期より遅かった。
  「あなたは妙子さんと同居している時期から特定の親しい関係の女性がいませんか」
  「いません」
  「間違いありませんか」
  「はい間違いないです」
  ここで私はあらかじめB5版のコピー用紙に貼りつけ、撮影者と撮影年月日を書いた七枚の写真を示した。 後ろ向きで手をつないだ男女が道を歩いているところ。その男女が連れ込み風のホテルに入って行くところ。 二時間後に出てきたところが写っている。
  顔色も変えなかった夫の証言はぼろぼろに崩れた。
  「この○○ホテルに入ってゆく後ろ姿の男女の男の方はあなたですね」
  「そうです」
  「出て来たところ、顔が写っている男の人は貴方ですね」
  「……そうです」
  「この女性は○○さんですね」
  この名前は意表をついていたらしく、夫はさすがに動揺した様子だった。 答えるとき、背広の左側のポケットの当たりを左手でしきりにいじっている。
  この時、裁判官から意外な言葉が飛び出した。
  「ホテルに入っていって何を、聞かなきゃわかんないでしょう。それを聞いて聞いて。」
  あまりにも意外な介入で私は裁判官の顔を見直してしまった。
  この裁判官はずんぐりした体つきで、気むずかしそうでいつも何かに不満を持ったような顔をしていた。 この時の私の聞き方が気にいらないらしく、その顔はいっそう難しくなっていた。
  そのうち裁判官は私の質問を遮ると自分で夫に質問し始めた。もっとも露骨な質問を直接に聞いた。 夫はそれも認めた。つまりその女性との関係を認めたのである。
  これはあまりにも不適切な尋問だった。
  もし夫がホテルの中に入ったが中ではやましいことは何もしていない、と答えたときはどうするのか。 こちらの証拠集めの結果をフイにしてしまいかねない。
  それに裁判官の常識的感覚がちょっとずれている感じがした。
  連れ込みホテルに入っていく男女がいて、且つその二人が二時間後にそこから出てきたらそれで十分ではないだろうか。
  しかし、ここはもう一歩突っ込んで観察しておいた方が良いのかも知れない。 あの裁判官は妙子さんの側を勝たせる判決を考えていた。 その判決を書く心を楽にする証拠、それが欲しいのが裁判官である。 中立にして公正な判断をしているという自身への評価、それが裁判官の仕事を支えているのであろう。 そういう精神の積み重ねの中で、この老裁判官は 「そこまで聞くか」 という反応をこちら側に起こさせてしまったのかも知れない。 事件はこちらの勝訴判決に終わった。
  夫と不倫をした女性への慰藉料請求訴訟にも勝訴したが、強制執行できるさしたる財産もなく、 相変わらず妙子さんの厳しい生活は続いた。

  一五年の歳月が経った。二人の男の子はお母さんをかばうやさしいい青年に育っているに違いない。
  最後の打ち合わせのために事務所を訪ねて来た妙子さんのブルーのカーディガン姿と、 法廷の廊下で抱き上げた男の子の感触がいつまでも記憶に残っている。