〈目次〉 1.NHK問題―政治家介入の徹底追求が不可欠 (2005年1月27日) 2.指定公共機関と放送局 (2005年1月27日) 3.NHK番組改変問題が問うこと (2005年12月 5日)
「法と民主主義」11月号に掲載
このHPにはオリジナル原稿版を掲載しています
NHK番組改変問題が問うこと ──政治家、NHK、朝日新聞── (2005年12月 5日) 朝日新聞社は、NHKの番組改変に関する一月一二日付朝刊記事について、 「最初の記事相応の根拠とする見出し」を立てるとともに、「詰めの甘さ反省します」と題する秋山耿太郎社長コメントと、 中川昭一氏(現農水相、前経産相)が前日面会したか、中川氏、安倍晋三氏(現官房長官)が、NHK幹部を呼び出したか否かについて、 「不確実な情報」を含んでいたとする「朝日新聞社の考え方」を二〇〇五年九月三〇日に発表した。 (同紙一〇月一日付東京本社版朝刊一面及び一四面) この発表は、最初の記事以降、政治家、NHKと朝日新聞の間に続いてきた確執に一応の決着をつけたように見える。 朝日新聞の公表に加え、一〇月一日付朝刊各紙は「朝日の取材不十分」(読売)、「朝日 取材不足認める」(産経)との見出しで報道した。 このため、とくに事情を詳しく追っているわけでない一般の読者、視聴者には、「ああそうか、朝日の政治家介入記事は、 取材不十分だったのか、これもまたよくある報道の不祥事なのか」と受けとっている向きも少なくないと考えられる。 しかし、丹念に報道経過を分析してみると、前記見出しの与える印象と、実際の事実とは違うことが明らかになる上、 この問題が今日の時代状況の深層を深刻に反映した問題であることが明らかになる。 そこで、本稿では、発端となった当初の朝日新聞報道以来の経緯と、それが明らかにした政治家とメディアの関係、 表現の自由の現在について、私見を明らかにしたい。 一、経緯──その1 争いない事実 中川氏がNHKの番組放送前日にNHK幹部と会ったか、政治家二人がNHK幹部を呼び出したかという争いある点を除き、 関係者の間で争いない事実をもとに、NHK番組改変の経緯を再現すると、次の如くである。 1、政治家二人は、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(発足した一九九七年時点国会議員約八〇名参加− 安倍氏のホームページより)の中心メンバーであった。NHK放送の当時、中川氏は同会の代表、安倍氏は事務局長であった。 この会は従軍慰安婦問題を歴史教科書で取り上げることに強く反対していた。 2、番組の内容について、政治家二人は事前にこれを把握していた。 安倍氏は、「事前にひどい内容だと考えていた」と語った(二〇〇五年一月一三日テレビ朝日「報道ステーション」での発言)。 中川氏は、二〇〇五年一月一〇日の朝日新聞記者の取材に対し、次のように応答しているとの記録がある。 本田記者 放送内容がどうして事前にわかったのですか。 中川 同じような問題意識を持っているわれわれの仲間が知らせてくれた。 本田記者 それは誰ですか。 中川 われわれの仲間だと言ってるだろう。それは安倍さんに聞いてくれ。とにかく事前に内容を知ったんだ。 (月刊「現代」二〇〇五年九月号四一頁) 3、松尾武放送総局長、野島直樹国会担当局長というNHKの最高幹部が、 放送以前に安倍氏に会って番組について会話をしたことについては争いがない。 (中川氏が事前に会ったか否かについての私見の結論と論理は後述) 4、民衆法廷のNHK番組については、放送前日である二〇〇一年一月二九日の昼間、四五分のオンラインテープが完成していた。 (業界用語で、完全パッケージという意味で「完パケ」という──つまり、もうそのまま放送できる完成品という意味である) 同一月二九日安倍氏と松尾放送総局長、野島国会担当局長が会見した。この際、安倍氏はこの番組について、公平、 公正な放送をしてほしいと述べた。同日夜、伊藤律子番組制作局長、松尾放送総局長が出席して試写会が行われた。 ここで、公平性が保たれていないとして、二九日深夜から未明にかけて、 日本国政府と天皇の従軍慰安婦問題への責任に言及した部分一分間がカットされた。 5、一月三〇日(放送当日)、中国人元従軍慰安婦本人の証言を含む三分間が、場の反対を押し切り、 松尾放送総局長の命令でカットされた。 以上は、関係者間に争いない事実である。 二、経緯──その2 中川氏は事前にあっているか。会っていると考える──その根拠 中川氏は、一月二九日にNHK幹部と会ったことを否定し、会ったと報道した朝日新聞社を激しく非難攻撃している。 この点について、関係当事者の主張、供述を検討してみよう。 中川氏は朝日新聞記者の取材に対し、放送内容は事前に知ったと、前述のように述べた後、次のように応答した。 本田記者 それで二九日にNHKの野島、松尾両氏に会われたわけですね。 中川 ああ会った、会った。議員会館でね。 本田記者 (NHK側に)何と言われたのです? 中川 マスコミお断りの裁判ごっこに、何故NHKが入れたのかって。 本田記者 マスコミお断りでなく、私どもも海外メディアも取材してました。 中川 当たり前だ。朝日なんかは主催者と同類だし、わけのわからん海外メディアだ。それにあれは法廷じゃないだろう。 裁判ごっこじゃないか。それを法廷とか言うなよ。とにかく番組が偏向していると言ったんだ。 それでも「放送する」というからおかしいじゃないか、ダメだって言ったんだ。だって、「天皇死刑」って言ってるんだぜ。 本田記者 それは事実誤認です。「天皇有罪」は言ってましたが。 中川 俺はそう聞いたんだから。そこ(法廷に)行っていた人から俺は聞いているんだから。 それで裁判ごっこするのは勝手だが、その偏向した内容を公共放送のNHKが流すのは、放送法上の公正の面からいってもおかしい。 偏っているって言うと、向こう(NHK)は教育テレビでやりますからとか、訳のわからんことを言う。 あそこを直します、ここを直しますからやりたいと。それでダメだと。放送法の趣旨からいってもおかしいじゃないかって。 中略 本田記者 放送中止を求めたのか? 中川 まあそりゃそうだ。 後略 (月刊「現代」九月号四二頁) 月刊「現代」掲載の応答は、朝日新聞社が一〇月一日朝刊一四面で認めているように、同社の社内資料が流失したものである。 この掲載内容が正確でない、とは、取材応答を掲載された中川氏、安倍氏、NHKの松尾放送総局長の誰も主張していない。 そうすると、取材記録に、月刊「現代」掲載の応答が記載されていることは、不動の事実として立脚できることになるだろう。 そこでその内容に立ち入ってみると、中川氏が記者に述べている内容には、 体験した当事者でなければ供述できない秘密の暴露があることがわかる。 秘密の暴露――その1 中川氏は番組を偏向していると言ったあと、それでも放送するというNHK幹部に、 「ダメだって言ったんだ。」「天皇死刑」って言っていると述べ、記者に「天皇有罪」とは言っていたが、 法廷は天皇死刑とは言っていないと正されると、「法廷に行っている人から俺は聞いているんだから」と、 わざわざダメを押しているのである。天皇死刑などという言葉は、民衆法廷、メディアなどの誰も使っていないのだから、 中川氏の内面を如実に反映する言葉と読める。また同氏の行動の動機を独特に表現する言葉である。 これは朝日の記者に向けられた言葉であって、NHK幹部との会見の中で使われた言葉ではない。 したがって狭義の秘密の暴露にはあたらないが、同氏の心理的体験を表白する秘密の暴露といえよう。 秘密の暴露──その2 次に指摘するのはより直接的な体験の暴露である。 中川氏は記者に、「NHK側は、あそこを直します、ここを直しますからやりたい」と言ったと、会見の際のNHK側の言葉を引用している。 中川氏への記者インタビューよりも以前に行われた松尾氏と記者の問答では、 松尾氏は「そういう雰囲気(註 放送中止を求めるような)はあったと言っている。 言葉の一つ一つを言われると、僕の記憶にない」(月刊「現代」三七頁)と言っているのであり、朝日記者は、NHK側から、ここを削る、 あそこを削ると言ったことは知りようがない。NHK側から中川氏にこういう言葉が出たという記憶は、中川氏の頭にしかない、 創り出すことのできない「事実」なのである。 こうした誰もつくり出せない中川氏とNHK幹部との応答を確認したあとに、本田記者は、放送中止を求めたのかと聞き、 中川氏はまあそりゃそうだと答えているのである。(月刊「現代」四二頁) しかも削る削らない、の事実については、松尾供述はみごとに対応している。 すなわち松尾氏は本田記者に、「具体的にここを削れとか」(中川氏に言われたのかのかの意味)と聞かれ、 「そういうことは、向こう(中川氏)は知らない」と答えている(月刊「現代」三六頁)。 つまり、中川氏の方からは、番組内容が正確にはわからないので、どこを削れとは言えなかった事情を述べているのである。 そうすると、「NHK側から、ここを削る、あそこを削ると中川氏に言った」という中川供述の核心部分は、 松尾供述の右の部分と寸分たがわず対応する。しかもくどいようだがくり返すと、このことは、松尾供述にもなく、 従って朝日の記者の記憶にもなく、ただ中川氏の頭にだけあった記憶、 すなわち体験した当事者でなければ知らない典型的な秘密の暴露だ、ということになる。 これが、放送中止をめぐる緊迫したやりとりの中の一句として現出してくることに、読者は留意されたい。 中川氏は、朝日新聞の一月一二日朝刊報道の後にも、次のコメントを発表した。 「模擬裁判につき、教育テレビで放送するとの情報があった。市民団体の行うことは自由であるが、公共放送は、 放送法に基づき放送を行うべきところ、NHKより当番組につき説明があった。 当方は公正中立の立場で放送すべきであることを指摘したもので、政治的圧力をかけて中止を強制したものではない。 番組制作の経緯については関知していない。」(七月二五日朝日新聞朝刊、同趣旨一月一四日同紙、毎日新聞一月一三日朝刊二六面) このコメントは、第一に、NHKから番組について説明があったこと。 第二に、右の説明を受けて公正中立の立場で(これから─筆者註)放送すべきであると指摘した、という内容のコメントであり、 中川氏がNHK幹部と放送以前に会っていることを如実に示すものである。 以上のように、中川氏の朝日新聞記者への応答、松尾放送総局長の朝日記者への応答、 一月一二日NHK番組改変報道直後のコメントを分析的に読めば、 中川氏自身がNHKに放送以前に会っていることは動かしがたい事実である、と考える。 しかも松尾供述では、松尾氏が国会議員に会ったのは一月二九日だけで、一回きりだという(月刊「現代」三九頁)。 一回しか国会議員に会っていないとのこの供述に立脚すると、松尾氏は一月二九日にしか中川氏に会うことはできない。 〈決定的矛盾〉 さらに興味深いのはNHK側は、松尾氏は中川氏と一切会っていないと主張し(NHK 朝日新聞社への一月一四日付抗議文――NHKホームページより)、 中川氏もNHK幹部とは会ったが松尾氏と会っていないと主張している(たとえばサンケイ一月二一日朝刊二面)ことである。 ここでは年月日のことを問題にしない。中川氏は松尾総局長と会ったか会わないかである。 この点、会わなかったという側は月刊「現代」の松尾供述は妄想の産物とでも言わなければならない。 朝日新聞社は、月刊「現代」の記録は社内記録が流出したとして謝罪した。(九月三〇日社長コメント──一〇月一日同紙朝刊掲載)。 この謝罪は月刊「現代」の記事は逆に社内記録を反映したものであることを裏付けた。 NHKと中川氏の「そもそも中川と松尾は会っていないという」主張は、 朝日新聞も社内記録の反映であることを認めた月刊「現代」掲載の松尾供述記録と矛盾して到底維持できず信用性がまったくない、 ということになる。 やはり中川氏と松尾総局長は会ったのである。 それがいつかということになれば、まだ会見の期日が争点になっていない時期の松尾供述、 中川氏の記者への応答(いずれも月刊「現代」掲載)の信用性に依拠することができ、一月二九日こそが松尾、 中川会見の期日だということになる。 三、朝日新聞社見解は、不当な退却と妥協 1、当初記事は、揺るがず 一月一二日の、『中川昭・安倍氏「内容偏り」指摘 NHK「慰安婦」番組改変』と題する記事は、誠に正鵠を射たものであった。 政治介入後の番組改変によって、NHKを視聴する何百万人の視聴者は、従軍慰安婦国際民衆法廷でとりあげられた、関係者の証言、 とくに、天皇有罪を中心とする民衆法廷の結論部分、旧日本軍兵士、従軍慰安婦証言の核心に触れる機会を奪われた。 これは憲法二一条の表現の自由保障、検閲禁止の趣旨に違反する事前規制の疑いがあり、 国際人権規約自由権規約一九条(表現の自由)が保障する、知る権利を侵害し、 市民が自主的に意見を形成する権利を侵害する行為であった。 朝日新聞社の報道は、こうした重大な意味をもつ政治家の公共放送への介入の実態を明らかにしたものであった。 朝日新聞社が委嘱した第三者機関「NHK報道」委員会も、次のようにこれを積極的に評価した。 「一連の報道は、公共放送と政治という「表現の自由」にかかわる重要な問題に切り込んだ」 「七月二五日の総括報告記事では、政治家の言動が番組の内容に少なからぬ影響を与えたと判断したことは、 読者の理解を得られよう」としている。 朝日新聞社自身の九月三〇日「朝日新聞の考え方」も「一月一二日付けの最初の記事で指摘した、 (政治家の発言が圧力となってNHKの番組内容が変わったという)点」は変わらないとしている。 2、朝日の退却と妥協 政治家の介入による番組の改変という記事の核心部分には揺るぎがない。 そして、朝日新聞社は今もその認識に立っていることは間違いない。 なぜなら九月三〇日に発表され、一〇月一日付朝刊に掲載の社長コメント、「朝日新聞社の考え方」でも、 記事の訂正の必要はないといっているからである。 しかるに、社長コメントには「詰めの甘さ反省します」との見出しが、 「考え方」には「前日面会」「呼び出し」「不確実な情報掲載」「記事の公平性にも課題」との見出しがつけられている。 これだけの論争となったテーマについての会社見解であるから、この見出しは単なる整理部の判断ではなく、 同社執行部の見解とみるべきであろう。 第一報が問うたのは、第一に、放送への政治家介入の事実であり、第二に、それによる番組の改変であった。 この点に誤りがない以上、朝日新聞社は第一報以来の当該政治家たち、 NHKからの批判攻撃に対して揺るぎない反撃に転ずべきであった。それは公共性を担った企業の社会的責任であった。 後にも述べるが、メディアの論評報道では、見出しと本文が一瞬にして何百万人の読者に与える印象が大事である。 「朝日は、非を認めて謝ったのだ」との一瞬の印象を与えたことによって、「政治家のメディア干渉、 NHKの番組改変」という重大事は忘れられることになった。 3、二つの法律問題 ──報道の真実性と秘密録音── どうしても言及せざるを得ない法律問題が二つある。報道の真実性という論点と秘密録音の是非である。 後者については、後註でふれる。 (1)報道の真実性 学識経験者たちによる「NHK報道」委員会の見解は、記事の真実性について検討せず、 記者が「前日に面会」と信じたことには相当の理由があるとした。(同見解1) 朝日新聞社の見解も、この委員会見解を根拠として展開しているが故に記事の真実性について言及しないまま、 いきなり、前日面会のくだりの相当性に言をすすめている。 この二つの見解は、名誉毀損の違法性阻却、または、責任阻却に関する最判昭和四一年六月二三日 民集二〇巻五号一一一八頁(民事 全国紙衆院選全候補に関する「署名狂やら前科」記事事件) (刑事 最大判昭和四四年六月二五日 刑集二三巻七号九七五頁 和歌山タイムズ事件)を意識していることは明白である。 しかし、いずれの判例も、真実性テスト、のちに相当性と判断をすすめていることが見逃されてはならない。 民事判例については判決の文中にそのことが明らかであり、刑事判例では、刑法二三〇の二第一項に、 真実性の証明があるときは罰しない、との文言を前提にしていることは明らかである。 法律的責任の論証のすすめ方だけでなく、ジャーナリズムの立場からみても、 記事が真実か否かが死活的に重要であることは論をまたないであろう。 「記事に誤りかもしれないが証拠を信じたのだから責任がない」というより「記事には間違いがない」という方が、何倍もの訴求力がある。 前者なら政治家の責任、資質の評価は忘却の彼方に消えるが、後者なら安倍氏、 中川氏が閣僚の中心を占める今こそより重大な争点となる。 さて、当初記事は真実なのか。 記事の真実性とは何か。名誉毀損訴訟の舞台では、「口頭弁論終結時において、 報道された事柄につきメディアが真実であるとの証明に成功し、 そのことにより裁判官が真実の心証形成を抱くこと」と定義することができよう。 今、舞台は法廷ではない。判断するのは読者、視聴者である。この段階においては、記事の真実性をいかなる規範で考えるのか。 もともといくつかの名誉毀損裁判例において、新聞記事の非主要部分に誤記があったが主要部分が真実である以上、 名誉毀損とはならないとする下級審の判断が重ねられていた。(大阪高裁昭和六一年一一月一四日 判時一二二三号五七頁、 福岡高裁昭和六〇年八月一四日 判時一一八三号九九頁) これらの判断の前提には、通常の読者は記事の内容を理解するにあたり、記事の大きさや見出しによって強く印象づけられ、 この印象に大きく影響されるという経験則があった(たとえば、後者裁判例 判時一一八三号一〇一頁)ことは、 本件を考察する上でも重要である。 報道記事でなく告発事案であるが、最高裁判例にも主要部分の真実性が問題なのだとしたものがある。 (最一小判昭和五八年一〇月二〇日 判時一一一二号四四頁以下) 判例時報に掲載された同判例の解説(関係の最高裁調査官執筆のものか)が、具体的な事案では、 何が重要部分の真実性なのかというテスト基準でなく、「公表された事実がその受け手である読者の心にもたらす効果と、 立証された事実が読者の心にもたらす効果とが異なるかどうか(の方が明確な)基準となると述べているのは興味深い。 以上を総合した上で本件を考えると、朝日の一月一二日の初報が読者に与えた、 A、「政治家二人のNHK番組に関する圧力があったこと、右圧力によりNHKに番組が改変したこととの印象」が、 B、朝日側及び、ジャーナリストによって立証されている事実により、私たち読者との間にもたらす印象との間に実質的な差異があるか、 という問題を立てることになろう。 政治家二人、NHKからも事柄の重要な部分について否定する主張は呈示されていない。 問題は二つだけである。第一に、中川氏は事前に会ったのか。この点については前述の通り論証した。 中川氏は、供述を変遷したが、後の主張の方が正しいという有力な論拠を出していない。 第二に、NHKは番組改変を認めているが、それは自主的な判断であって、圧力によるものでないという。 しかし、松尾総局長は朝日新聞の取材に対して、中川、安倍氏と会ったことを前提にして詳しい応答をした上で、 今年の予算は相当難航するという印象は受けたとは思わなかった、との前置きをつけて、次のように答えている。 松尾 公平性、中立性、そういうものにきちっと責任持って作らねばならないという気持ちは持った。 相手につけ入るスキを与えてはいけないという緊張感が出て来たのは事実(月刊「現代」九月号三八頁)と認めているのである。 問題になっている一月二九日直前には、次の動きがあった。すなわち、一月二六日、 若手議員の会の運営に協力するシンクタンク日本政策研究センターのNHKへの放送中止の申し入れ、 運動団体「日本会議」の片山総務相への番組内容チェックの申し入れ。 一月二七日、右翼団体街宣車でNHKに乗りつける騒ぎ(一月一二日朝日朝刊)。 このような騒然たる背景の中で二人の政治家のNHK幹部との面会があり、完全パッケージが二度にわたって削除となったのである。 前記の松尾供述をこのような事情の中においてみるとき、政治家との面会と番組改変との因果関係を否定するNHKの主張は、 一般視聴者の経験則によって受け入れられるものれるものとは言えないであろう。 (2)このように真実性についての検討をすすめてみると、 朝日新聞社九・三〇見解の「詰めの甘さ反省」 「不確実な情報」などのタイトルの印象は、まことに不必要にして不当な退却であり、 妥協であると言わざるを得ない。 中川氏とNHK幹部との会見の期日が放送前であることは手持ちの材料で可能でありそのほかの点は非重要部分といえる以上、 つめの甘さとか不確実な情報とかという表現や見出しは決して使ってはならないのである。 調査報道に反撃されたときに備えてどのように防御の体制をくむか、その防御の体制が十分か不十分かということは記事の信用性、 真実性とは一切かかわりないことである。 記事の大筋については訂正の必要性がないという以上、 こうした社内的教訓をのべて反省するなど読者の側からすると取るべき選択ではなかった。 これは不要な退却であり妥協であった。事細かに経緯をフォローしてきた筆者は、この点につき次のような論評意見を持つ。 すなわち、朝日新聞社は、第一に記事の真実性については譲歩しない。ただし、そのことはあまり目立たせない。 第二に、会社見解の「印象」としては、反省という言葉、社内資料の流出についての謝罪を強く印象づけて、 妥協──俗な言葉でいうと手打ちとしたい──との黙示のメッセージを二人の政治家及び自民党に送ったのではないか、 との論評意見である。エスタブリッシュメント(体制内)メディアとは、リアリスティックにいうとこういうものなのだ、 という市民へのメッセージでもあるのかもしれない。 今回の朝日新聞社の措置について現場の記者編集者がいかに対応したかは、引用できる発言の文献はない。 そして紙面を見る限り、経営陣主導の動きであることは間違いなさそうである。 メディアという資本主義産業は、「自由」を基礎とするまれな産業である。自由すなわち取材報道の自由は、 メデイアが国民の知る権利に奉仕するためにそしてその限りにおいてのみで特権とも言うべき権利を享受しているのである。 メディア産業経営陣は戦後一貫して編集権と経営権は一体のものだとしてメデイア産業労働者の編集権への参加を拒否してきた。 (編集権をめぐる論争については原寿雄編「市民社会とメデイア」リベルタ出版 二〇〇〇年所収石川明、藤森研の二つの論文参照) 編集権は我にありと主張しそのことによって経営をすすめるメディア産業経営者は、自由を国民のために用い、 それが危機にさらされたときには、自らの生命、身体、地位の安泰はいささかも省みず、自由を守り抜く、崇高な責任を負っている。 メディア産業の従業員もしかりであって、巨大な多数の従業員の生活を守るためにはやむをえないなどとの抗弁は通用しない。 一五年戦争にかすかな抵抗さえもできなかった巨大メディアは重大な歴史的責任を負っているのである。 かつてベトナム戦争はアメリカが仕掛けてたものだと、真実を伝える文書(ペンタゴン・ペーパーズ)を報道し、 アメリカ合衆国政府の記事差し止め申請による地裁命令で差し止めを受け、存亡の危機にさらされたニューヨークタイムズが、 上訴して闘う決意を込めた一九七一年六月一六日付の紙面に掲載した社説を、一部だがここに紹介して、 朝日新聞、NHKのみならずこの問題を対岸の火事としかみていない全メデイアへの批判にかえたい。 「タイムスが資料を公刊した基本的理由は、国民に知らせることが国益にかなうと信ずるからである。 わが国の民主主義制度における報道機関の基本的責任のひとつは、 国民が自ら選んだ政府の仕組みを理解するのを助けるよう情報を提供することである。 資料がわれわれの手に入った以上、これを公刊することは単に米国民の利益となるだけでなく、 公表を差し控えることは憲法修正第一条に規定されたわれわれの義務の放棄になるとさえ信ずる。」 「われわれが文書を公表するのは、歴史を米国民に提供するためである。 それは、『われわれの生命、財産、名誉』に影響を与えてきたもっとも重要な問題、そしてそれについて米国民も、 国民の選んだ議員もほとんどが真実から目をふさがれてきた問題についての政府最高レベルの政策決定の歴史である。 報道の自由の神髄とは、この真実を露呈し解明しようとする努力のことなのだ」(田中豊「政府対新聞」中公新書三四頁から) 4、政治家二人、自民党、NHK、朝日新聞それぞれ及び全体の行動と意思表示は、何を意味するか──アジアの歴史の中で── アジアの友人たちはこの問題をどう考えるだろうか。この20年、私たちは韓国、中国、 フィリピンなどの人々の自らと肉親の家族史に耳傾けてきた。 その肉体的精神的痛苦に接したときの驚きは被爆者の体験に接したときと同様の衝撃であった。 それは一部の人々が言うように自虐的な思想では決してなく、日本という国と民族の歴史を書かれた歴史でなく、 自分たちの新しい生き方を模索する私たちの歴史につくりかえる営為であった、ともいえる。 そのようなつくりかえ、書きかえにとって最も重要なのは、同時代の人々が胸襟を開き、 これが真実だと考えることのできる歴史の史料に、真摯に向きあうことではないか。 ここでは、左、右、進歩、反動を問わずいかなる意見も、いかなる情報も抹殺されてはならず、 人々はこれにアクセスできる人権を保障されるという規範が厳格に守られなければならない。 政治的な力関係や、実力は用いられてはならないのである。日本国憲法二一条の表現の自由、検閲の禁止、 国際人権規約自由権規約一九条の、意見形成を妨害されない権利、情報にアクセスする権利は、政治的メッセージではない。 これは市民社会を平和に継続していくための立憲主義的な権力規制の規範として尊重されなければならないのである。 日本が近代民主主義国家を標榜するのであれば、この規範を蹂躙する政治家には、 民主主義的政治家としての基礎的資質がかけるとしてメデイアと市民の批判の砲列が一斉に火を噴き出さなければならないはずである。 しかるにみてきたように、大メディアの首脳陣も頼むに足りないとき、私たちには希望がないのだろうか。 筆者は強がりでなく、決してそのようには考えていない。 ヴァウネットがNHKを被告とした訴訟の控訴審では、告発者長井氏、松尾総局長の証言が控えている。真実は解明の途上である。 韓国ではインターネット新聞「オーマイ・ニュース」、市民によるハンギョレ新聞など民衆メディアが有力な影響力をもち、 世界のメディア界から注目をあびている。日本でも同様のメディアを作ろうとする胎動が始まっている。情報アクセスの可能性は、 広がって行くであろう。 「日本という密室」から一歩外に出てみよう。アジアでは日本の軍国主義化への厳しい懸念を掲げ、これを許さない民衆の運動は、 連綿と広がっている。 後註 秘密録音問題 本稿では月刊「現代」9月号掲載の朝日新聞記者とNHK松尾総局長、中川氏との応答記録にかなりの程度依拠して論をすすめた。 朝日記者が秘密録音をしたか否かは、朝日新聞社が明らかにしない以上確認のすべがない。 しかし、録音することの正当性の存否の検討は、事の真実性を追求していくうえでも欠かせないことなので、 本格的な論及は別の機会に譲るが、ここでは最小限度必要な点についてだけふれておきたい。 第一は、市民から負託された知る権利を行使する記者は、不正、違法をあばく相手となる取材対象者が供述を変遷させる場合に備え、 市民の知る権利を守るため、話者の承諾の有無にかかわらず、取材対象者の発言を録音する権利がある。 第二は、政治家二人、松尾総局長は典型的な公人であり、取材目的を明らかにした記者に対し、自らのコメントが記事になること、 すなわち公表されることを認容して任意に取材に応じていることに注目すべきである。 このような話者は会話の秘密性を放棄しているのであって、知らずに録音されたからといって、 プライバシーなど何らの法益侵害も生じない。 公人は、メディア記者が、自らにとって不利益な事実の取材データを前提にインタビューを求めてきたとき、これに対応する、 しないの選択の機会を与えられており、本件の場合もそうであった。取材に応じなければ「取材に応じなかった」と書かれ、 そのことの意味は読者の判断に委ねられる。 その上で、政治家二人及び松尾総局長は、取材に応じたのである。取材に応ずるとの選択をした公人には、 会話したことの利益、不利益のいずれの結果も帰属することになるのであり、それを話者も認容しているのである。 かかる前提に立つなら、会話内容を正確・詳細に残されるという録音は、予測不可能な何らの不利益も話者にもたらさない。 第三に、新聞記者の秘密録音を事件の具体的文脈のなかで、正当業務行為だとした最高裁判例(昭和五六年一一月二〇日)がある。 右事件の最高裁判例解説刑事編には、「新聞記者が、情報提供者から取材するときに、 後日のトラブルを防止する目的を含めて、資料を正確に収集、保存するため録音をとることは、 たとえ情報提供者の事前の承諾を得ていない場合であっても正当な業務行為とみてよいであろう(同解説二七〇頁)とある。 本件の場合に限らず、新聞記者は、取材の際、秘密録音すること自体の正当性は疑問の余地がない。 ただ、いかなる場合に、いかなる方法で、録音内容の再現(文字化)にとどまらず、生放送、声紋鑑定など、音データをいかに公表できるか、 使用できるかは音データの使用の具体的状況、記事の公共性、取材対象者の地位、プライバシー侵害の程度etcを具体的に比較衡量して、 公表を検討すべきであろう。 たとえば公人である話者が、 文字化された内容をあくまで存在しないと否定する今回のような場合には上記比較衡量の上公共の必要性が高いことになり、 もし音データがあれば生放送などで公開されることもあってよいと考える。 (中川秀直官房長官(当時)の電話の会話内容について二〇〇〇年一〇月発売の雑誌フォーカスに掲載された。 官房長官が捏造だと否定するや、雑誌編集部から録音データが放送局に提供され、キー局三局から、 官房長官の声の生放送がされた事例があった。放送を目前にして官房長官は辞任した。 このケースは比較衡量のケースとして、参考にできる事例であろう。 ――田島泰彦、梓澤和幸 編 「誰のための人権か」日本評論社二〇〇三年一六六ページ参照) 文中のペンタゴン・ペーパーズ事件の「政府と新聞」ほか関連事項について、 服部孝章立教大学教授(放送法制論)のご教示をいただいた。記して感謝申し上げたい。 |