対談
梓澤和幸×服部孝章

言論の自由の根底を問う

NHK番組改変、人権擁護法案、
国民投票法案をめぐる徹底討論

  NHK番組改変、ライブドアのニッポン放送株買収など、メディアと政治・経済をめぐって問題が噴出した。 その一方で、人権擁護法案や憲法改正国民投票法案など、 メディア規制や言論・表現の自由を便書する諸規制を盛り込んだ法案作りが進行している。 改憲に向けた動きが強まるなか、しかし、私たちの人権の根幹を揺るがすこうした規制の問題点に対する関心は低い。
  いま、何が問われているのか。言論の自由とメディア規制、これらの諸法案をめぐって、 弁護士の梓澤和幸氏、立教大学教授の服部孝幸氏が徹底討論する。 (対談日・三月二五日/東京・千代田区にて)

服部孝幸 (はっとり・たかあき) 氏=1950年生まれ。立教大学社会学部教授。メディア法・情報社会論。著書に 「21世紀のマスコミ」(第2巻)『放送』、共編に 『現代メディアと法』 ほか。


図書新聞および服部孝章氏のご厚意により転載しました (図書新聞2726号 2005-5-21)
長いので、5回に分けて掲載します。
1.のしかかる不自由
2.NHK問題と政治介入
3.メディアと「指定公共機関」問題
4.人権擁護法案の問題点
5.国民投票法案と憲法改正
のしかかる不自由

服部 数年前、メディア規制三法といわれ批判された時がありましたが、 表現の自由規制はそこか らさらに踏み出し、いまや我々の思想信条までをも奪おうとしている。 深呼吸をして緑の新鮮な空 気を吸うのではなく、都会の大気汚染と同じように自由が汚染されつつあり、 それでも我々は深呼吸をして、いい空気を吸い取らなければいけない。そんな時代に入りつつあると思います。
  ライブドア問題では、既存の放送事業者などが公共性ということを言い出した。そこで感じたのは、 いままで公共性など議論してこなかったのに、何を突然、ということでした。 これはまさに、 一九三〇年代に若者の身体を鍛えろと言った政治家や軍人たちと同じことで、 非常に危険な空気です。本来は公共性になど関心のない人たちが、突然に公共性などということを言い出している。 そ れに対して、私たちは危機感を持たなければいけない。
  パブリックという言葉は、日本社会ではすごくいい加減に使われてきました。イギリスのように、 貴族たちが入れる領地を公開しパブリックエリアとして公園にしていくといった経験が、我々には ないんです。 誰でもが無料でアクセスできる空間が少ない我々の社会には、パブリックはなかなか 出てこない。
  アメリカ人がパブリック・インタレストということを言いますね。あるいはパブリック・トラス トという表現があります。 BBCの経営委員会はBBCトラストに変わります。このトラストという言葉を日本語に翻訳できないんです。 つまり、我々にはそういう経験がない。
  ですが現在の日本社会は、規制をかなり心地よいと思い始めているのではないか。 規制とはマニュアルであって、我々が不自由な空気を吸うということではないんだ、と思っているように感じるの です。
梓澤 奥平康弘教授は 『なぜ表現の自由か』(東京大学出版会、一九九六年) の中で、 法哲学者ドゥウォーキンやスカンロンの議論を紹介して、 個人は自立して理性的に自分でものを考える平等な存在であるということを前提とし、 かかる個人が自己決定していくために表現の自由が存在するとい う理解が必要だと強調しています。 いま表現の自由を考えるときに、個人があれやこれやと迷い、 議論し、情報と意見を交流する、 その思考過程には国家はいかなる公共の福祉論を持ち出しても干渉できないのだということをもっと強調すべきでしょう。
  あとで出てくる、憲法改正国民投票法案、指定公共機関の問題を考えるとき、この根本の問題を考えさせられます。 いや、日本における自由の問題はそこまでどん詰まりに来ているというべきなのかもしれない。
服部 たとえばメディアの自由というときに、 メディアが我々にいろんな素材を提供していると考えたとき、 ではインターネットの方がジャーナリズム性がないじゃないかという議論が一方である。 たしかにそれは、長い歴史の中で培ってきた伝統的な報道機関で働いている人たちと、 インターネッ トで市民がやっているものとは違う。インターネットにはたくさんの嘘もあれば真実もあるわけですが、 大統領の演説や法案などのフルテキストもある。それは新聞にはないわけですね。
  そういう意味でインターネットは、素材の提供という点では重要なメディアですから、 伝統的な報道機関と相互に補完すべきなのに、どうもそうなっていかない。やはりインターネットに対する警戒感がある。
  つまり梓澤さんがおっしゃった、我々が自己決定するための素材に、 みんながアクセスできるような状況になっていることがとても大事だと思うんです。
梓澤 韓国ではインターネットの 「オーマイニュース」 が注目されています。 たとえば虚武鑑 (ノムヒョン) が大統領に当選したとき、彼への支持の盛り上がりの過程で、 女子中学生が米軍に轢き殺された事件があり、十万人のロウソクデモがありました。 憲法学者の李京柱 (イキョンジュ) 教授から聞いたのですが、デモに行ったら、小学生だけで来ている二人連れがいて、 何で知って 来たのかと李さんが聞いたら、 「インターネットをチェックして来た」 と答えたそうです。 そして 「何のために」 と聞くと、 「二人の中学生を追悼するため」 と答えたというんです。
  私も二〇〇四年九月、「オーマイニュース」の編集局に行きました。市民一人ひとりが記者だという標語が掲げてあった。 それがごく自然に、メディアと市民の関係の中で成り立っているんです。 植民地時代からの非常に長い歴史を経て、有名の人も無名の人も、友人や家族の中で、 無数にいる 身近な 「英雄」 のことを、あの人はこうやって生きたというように伝承してきた歴史がある。 植民 地治世のもとでの独立運動、軍政下の光州事件、 一九八七年大抗争や一九九〇年代前半の民主化運 動の中で倒れた人々のことがいま市民連動率レている二〇代、 三〇代の人たちの胸の中に生き続けていると思うのです。 慮武舷大統領も最近の演説の中で三・一独立運動の中で死んでいった柳寛順 (ユーガンスン) 女子学生のことにふれていますね。 こういう伝承がいまに伝わって、現代の韓国市民像が創り上げ られていると私は考えています。 「オ一マイニュース」 の成功は、一人ひとりの市民が全体を考え るという点で、 欧米とは一味違う市民社会の到達が基礎にあるということを見るべきだと考えます。
服部 国民の信頼度では、 「オーマイニュース」 がトップで、 その次にテレビ報道、いちばん下が新聞というように、日本とは逆転した順位になっています。 「オーマイニュース」 が提起した問題というのはたくさんあるのですが、その一つは記者クラブ制度の改革です。 つまり自分たちは既存の記者クラブに入れない。それはおかしいじゃないかと提起して、 裁判所で、それを支持する判断が示され、記者クラブに既存のメディアだけでなく多くの者が入れるようになったのです。
  八八年のオリンピック以降、韓国がいろんな部分で民主化してきている。それに比べて、 なぜか 日本には九〇年代から不自由な空気が溢れつつある。先日、妻尚申さんがある会合で、 「日本の韓国化、韓国の日本化」 ということをおっしゃっていましたが、 一九四五年から六〇年にかけて日本がいろんな意味で民主化した、それを韓国が今やっている。 日本はいまや、韓国が独立したときにあった軍事政権下のかなり息苦しい状況と同じではないか、と。