言論の自由の根底を問う NHK番組改変、人権擁護法案、 1.のしかかる不自由
梓澤 仮に凍結したとしても、条文が残っているということは、法規範の一部を形成していると主 張される恐れがあります。たとえばメディア・スクラム状況が生じて、政治家およびその家族とメ ディアが対立したときに、国家が介入できるというこの法規範が民事訴訟で持ち出されたりするこ とがある。 それともう一つは、堤案者側に立法事実の立証責任がもうなくなるわけですね。つまり、これだ けの人権擁護法案およびメディア規制条項に書かれたようなことが必要ですという立証をしないで も、「では凍結を解除します」 ということだってあり得るわけです。 だから極めて危険な状況であるわけだけれども、国籍条項でもめたこともあって、皮肉なことに 表現の自由がかろうじて命脈を保っているわけでしょう。 服部 外国人が人権擁護委員になったりしたらまずいなんて、国籍条項云々を言い出す人たちは人 権保護法案そのものを語れないですよ。 国連の諸組織が日本に対しておかしいと指摘してきたことに対しては耳を貸さず、その恥ずかし さもないまま国籍条項云々なんて言っていること自体、はっきり言って時代は一九四五年以前です。 そんなことで、国際社会に向けて何が発信できるのか。 国籍条項云々でもめていることをもって、メディア規制の議論が止まっているというのは実に情 けない。本来ならば、メディア規制条項などいろんな部分で検討が十分なされるべきです。たとえ ば、監獄などでの人権侵害を審査する人権擁護委員会が法務省内部に置かれた内局ではまずい、と いった議論ではなく、より反人権的な意識から出てきたものによって止まっていること自体、この 人権擁護法案の根底にある問題だと思います。 人権擁護法案のメディア規制の凍結というのは、喩えは悪いですが、ピストルに弾を込めて市民 社会に置き、誰がその引き鉄を引くかというような状況と同じです。 結局、そういう問題を国会が多数決原理で認めるということは、言論の自由を規制する姿勢の表 れだと思います。それは、メディア規制から市民社会における思想・表現の自由規制へと、どんど ん進んでいるというふうに見るべきだと思います。 |