対談
梓澤和幸×服部孝章

言論の自由の根底を問う

NHK番組改変、人権擁護法案、
国民投票法案をめぐる徹底討論

1.のしかかる不自由
2.NHK問題と政治介入
3.メディアと「指定公共機関」問題
4.人権擁護法案の問題点
5.国民投票法案と憲法改正
国民投票法案と憲法改正

梓澤 国民投票法案についてですが、これもまた話題にならなすぎると思います。
  国民投票法案の第六九条に、 「新聞紙または雑誌は、国民投票に関する報道および評論において、 虚偽の事項を記載し、または事実をゆがめて記載する等表現の自由を濫用して国民投票の公正を害 してはならない」 と記載されています。その中に 「通信文を含む」 とありますから、ホームページ も含まれるわけです。
 それから第七〇条には、意見広告の禁止に当たる条文があります。また、予想投票を公表しては ならないという条文があります。
  ご存知のとおり、憲法改正の発議が衆参両院議員の三分の二以上の賛成で通って、国民投票の期 日が公示される。この公示の日から投票日までは、憲法に関する議論を禁止するというような、非 常に不自由な事態が市民の間に形成される。しかも刑事罰が二年、三年と付いていますから、捜査 機関が自分の恣意的な判断で、ある報道論評をとらえて国民投票の公正を害するとの口実で制限さ れるという事態になってゆく。これは暗黒空間を作り出しかねない法案です。
服部 つまりこれは、憲法改正に大賛成、日本の軍事力を海外派兵するのが当たり前だと思ってい る人も、評論や意見を述べることができないということです。今回、考えられる自民党や公明党の 議員が考えているような、憲法第九条を中心とした改正案に賛成だと思っている首相すらできなく なる。
  国民投票法案は公職選挙法とよく比較されますが、公職選挙法は表現の自由を一応認めつつ、い ろいろ個別のことを規制するわけですね。しかし、国民投票法案はそういうものとは決定的に違う。 それは、国の将来を決定する基幹法です。
梓澤 それは百年の大計ですよ。
服部 そうです。最高法規を決定するに当たって、いまの国民投票法案が掲げている問題というの は、一言でいえば主権者の意志を反映させるシステムになっているのか、ということです。つまり、 我々がいろんな情報を与えられない。梓澤さんがおっしゃったように、投票期日が公示された後、 選挙でいえば公示期間には憲法の議論ができなくなる。案だけが何度も新聞に出て、その論評が排 除された報道になることが予想されます。徹底批判が本当に難しくなってきますよ。
梓澤 百年の大計を決するのであれば、元来は情報は最も豊かに与えられ、あやまった論もまた保 障されなければならないし、市民に、あるときはこう思ったが、この人の意見を聞いてまた意見が 変わったと、揺れる思考空間が保障されるべきです。議論してゆくうちに意見が変わってゆくとい うことはよく体験することです。そうして最後には、改憲になるかもしれないし改憲反対になるか もしれない。要するに揺れる自由、しかもそれが干渉されないで意見を形成する自由に国家は入り こんではならない。これは国際人権規約の第一九条に書いてあるとおり極めて基本的な、ドゥウオー キンのいう 「切り札としての人権」 です。
  つまり、どんなに国家が公共の利益を持ち出しても、絶対に踏み込めない領域があるはずです。 それは、個人が自分で干渉されずに考えることです。市民の表現の自由、メディアの自由はそこに むかって開かれているべきですね。国民投票法案を作る人たちは、頭の中でどういう市民像を描い ているのか。そこを訊いてみたい。改憲賛成、反対を超えたもっと根本的な自由論が提示されなけ ればいけないのに、それがなされていない。メディアの扱いも小さすぎるんじゃないですか。
服部 メディアの側も、日本国憲法の国民投票法案をいろいろなかたちで論ずれば、改憲の流れに 乗っかってしまうのではないかという意識が、なかったわけではないと思います。ただ、事ここに 至っては、どういう事態であろうと国民の知る権利を守り、市民社会に対していろいろな情報を提 供するという意味で、メディアは徹底して批判すべきです。梓澤さんが言われたように、市民社会 における一人ひとりの自由とは何か、その意味は何かをきちっと議論していかなければいけない。
  根本から個々人がもつ異論、反論、少数意見というものの存在を認めずに、賛成派であろうが反 対派であろうが、長いものに巻かれろという考え方でしょう。これはもはや 「ハーメルンの笛吹き 男」 の、こっちへついて来いよというような法案作りですよ。それを作った人たちの意見というの は、根本に至って批判させない、さらに外国人についても投票させないというものでしょう。その 意味での国籍をめぐる議論もきちんとされなければいけないはずなのですが、出てこない。
  さらにもう一つ、国民投票法案がどういう時期に出てくるかという問題です。早ければ今年の秋 頃といわれています。現在のところが、朝日と毎日、東京の三紙が護憲を代表し、読売、産経、日 経の三紙が第九条を中心に改憲すべきだという立場ですが、よしんばそれが全部、第九条改憲に賛 成する方向に行くことになったとしても、国民投票法案がきちっとしたかたちで議論されないと、 大変なことになってしまう。
  憲法というのは、日本がこの六〇年間ずっと培ってきた、民主化への道を支える精神ですね。そ れを一九六〇年以降、自民党などがずっと愚弄し続けてきたわけでしょう。われわれは改憲に抵抗 していたものがことごとく潰されていく歴史を見てきた。六〇年代の放送中止事件や出版へのさま ざまな圧力や弾圧など、ずっと経験してきたわけですね。
  ところが、この法案に書かれた 「虚偽の事項」 や 「事実をゆがめて記載」 については、個人のプ ライバシーの問題については何が事実なのか、何をして虚偽といえるのかは亭えても、憲法という まさに理念の問題については言うことができない。憲法をめぐっての虚偽というのは、何をして虚 偽というのか。
梓澤 たとえば、従軍慰安婦問題や強制連行があったかどうかという問題にしても、激しい論争が あるわけです。一方が虚偽だといわれれば、従軍慰安婦問題について議論できないまま憲法改正に 行く。関東大震災における朝鮮人虐殺と国の責任、満州事変の経緯、南京事件の規模、など一九二 〇年代、三〇年代に何があり、いかなる言論弾圧があったか、それが太平洋戦争にどのように結び ついていったのか、歴史的事実とその評価には論争がつきものです。その議論の一方を誤った議論 で国民投票の公正を害したとして干渉される危険もある。そうなれば、自由な意見形成を経て国民 投票が行われたとは言えません。
服部 先日、東京新聞である作家が国民投票法案を明治期に規定された讒謗律だと書いていました が、その通りだと思います。アナクロニズムにまみれて人権擁護法案を作ろうとしている人たち、 人権や安全といったさまざまな理由を口実にして規制をしようと思っている人たちの頭の中を見て みたいと思いますが、やはり市民を愚弄している。人権擁護という名のもとに、国連などから指摘 された問題については全く目をつぶったまま、この法案を通そうとしているわけですから。
  国民投票法案も、要は批判を許さない、つまり雑音を入れるなということでしょう。真空状態の 中で良いか悪いかを判断しろというような法案が出てくる社会自体が、まさにすさまじい状況です。 しかしそのことに、メディアが全く噛み付いていかない。
梓澤 そこで私は、表現の自由の再構成が必要だと考えているのです。こういう酷い法案が出てい ると一般の人たちに説明したときに、 「ああそれは、たくさん発言したり、報道するメディアの人、 あるいは言論人の問題でしょう」 という反応が、無言のうちに返ってくる。我々はそこを乗り越え なければいけない。
  国民投票法案は誰の自由を侵害しているのか。そのことをどうやって説明していくか。メディア の報道や言論人のさまざまな議論を聞きながら、一人ひとりの市民が自分の運命を選び取っていく というのは最大の人権なわけです。そこが侵害されているということを、もっとメディアも知識人 も言うべきです。逆説的に言うと、これはメディアが規制されるわけではないのです。
服部 報道の自由の享受者である市民が規制されているわけですね。知る権利はまさにそこにある わけで、その知る権利の蛇口であるメディアを遮断していくシステムになっているのに、そこだけ が規制対象であって我々は被害者ではないという意識はおかしい。
  つまり、メディアが規制されるということは、我々が持っている権利も規制されるということで す。ただメディアと我々が違うのは、多くの人たちに一度に情報を与えることができ、いろいろな 影響を与える存在であるということです。それを、メディアだけが横暴だとか人権侵害であると批 判する声だけが強い。もちろん批判されなければならないところは批判されるべきですが、この間 のメディア規制は、我々の知る権利に対して耳を塞ぎ、目を塞がせようという策動なのです。
  言論・出版の自由は、パンを食べる自由にも匹敵する自由です。それなのに、何かメディアは別 格だということになってしまっている。そこをどう突破するかでしょうね。
梓澤 メディアと我々市民をつなぐ表現の自由論を再構築する必要があると考えます。たとえば昨 年、 「週刊文春」 の差し止めへの抗告審 (東京高裁) で差し止め決定が取り消されたときに、立花 隆さんや文書側が記者会見で、表現の自由の勝利だと語った。しかし、私自身、それはそうだけど、 となんだか違和感を感じた。言論の自由への弾圧だという主張も、何かピンと来なかったのです。
  メディアの自由が規制されたときに、それがストレートに言論の自由だといえない心理的状況が 市民の側にある。理論的な深め方も必要です。奥平康弘教授はメディアは無媒介に言論の自由を語 ることはできない、メディアは報道することによって権力の濫用をチェックする限りにおいてのみ 制度的保障としてプレスの自由を憲法上保障されるといっておられます。この点を論理化もし、メ ディアもその方向で自己変革を遂げてゆく必要があり、われわれもそのように働きかけてゆく。こ のようにして論理的実践的な方向性をもつと、いま表現の自由、報道の自由がおちいっている隘路 からの脱出口を見出せるのではないでしょうか。
服部 民主社会において、言論の自由は手段です。しかし現在の日本社会において、言論の自由は まだ目的でしかないのかもしれない。この間のいろいろな議論の中で感じるのは、言論の自由が手 段ではなく目的化しているということです。
  その中において言論の自由の枠組みを構築するのか、市民社会において言論の自由は確固たる存 在で、それを我々がどう利用するのか。 「週刊文春」 の差し止めについては、私はとてもじゃない けれどあの記事をして言論の自由で、書いていることがいいとは思いません。かといって差し止め に値するかというと、それは違う。
  我々が経験していないのは、言論の自由を公権力と闘って勝ち取ってきた歴史です。それはもち ろん、報道機関側の反省すべき点なのかもしれないけれども、我々社会の側にも、公権力に介入さ れる余地がある。お上に楯突くのは決していいことではないというような状況が、一方ではある。 そこをどう変えていくかが問われていると思います。         (了)

 ※資料 憲法改正国民投票法案