トピックス   梓澤和幸

〈目次〉
第5回 人権のつどい 講演会 2005年12月
「鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例」 について 2005年10月12日
「沖縄密約訴訟を考える会」への参加のお願い 2005年9月12日
「メディアの危機、憲法の危機」 100人を超える参加 (2005年7月28日)
近代という知恵 (2005年7月27日) 「憲法の危機、表現の危機」 に関して
官の優位 法の趣旨逸脱 (2005年6月21日)
日本テレビ視聴率操作問題を論ず (2003年12月24日)
裁判員制度実現にむけて (2003年12月3日)
日本テレビ視聴率問題 (2003年10月29日)
共謀罪の法案提出について (2003年7月9日)
情報産業の中小企業と法律問題を考える (2003年5月24日)
名古屋刑務所事件について (2003年2月26日)
知っておきたい法律知識と最近法律事情 (2002年7月19日)


近代という知恵

 イギリスのテロ二回、エジプトのリゾート地でのテロと、深刻な暴力沙汰がつづいた。
 新聞に掲載されたテロリストとされる男性たちの写真から考えさせられたことがある。
 「市民の安全を考えれば、ある程度の包括的写真撮影はやむを得ない。だって爆弾で吹っ飛ばされたらどうするのか」 という声が多数であろう。日本でも、新宿歌舞伎町には四十台からの監視カメラがあり、 地下鉄にも駅ごと、ホームごとにカメラがある。
 高速道路には、運転席、助手席、ナンバーを全部撮影する高性能カメラがある。 運転免許証取得時には、公安委員会指定業者が免許取得者の肖像データを撮影によって取得しているから、 運転席と助手席の人間が免許取得者であれば人物特定は瞬時にできる。 人々は足首に測定装置をはめられているようなものである。
 こんな監視はいやだ、という主張は、肖像権を根拠にいくらでもできそうだが、 Nシステム賠償訴訟でそれは斥けられた。判断の核心は犯罪者の検挙のため、有効だ、という、ややきめの粗い論理であった。
(東京地裁平成三年二月六日 判例時報一七四八号一四四ページ)
 犯罪発生以前に捜査が許されるのか、という大論点への判断が抜け落ちてしまっている判決であった。

 イギリスでは、テロ行為の背景 (註 たとえばイラク戦争) に理解を示す言動をテロの教唆とみなして処罰する、 という法案が準備されているそうである。
 これは、法哲学者ロールズが表現の自由の到達点として整理した、「仮に暴力という手段をもやむなし、 とする革命思想の称揚も、表現の自由の重要な到達である」 という考え方への挑戦である。
 アメリカ連邦最高裁にかかったブランデンバーグ対オハイオ事件の法理 (ブランデンバーグ法理) にも、もとる。
 ブランデンバーグ事件では、連邦最高裁は
 incitement to immediate lawless action
  (いますぐ目前で行われようとする犯罪行為への煽動)
が禁止されるべきで、それ以上の表現の内容規制は憲法上の問題を生ずる、と説いたのである。
 のん気な時は、これはすっと頭に入る理屈である。
 しかし、今ならどうか。かなり鍛えられる論点である。
 今、爆弾を投げることを扇動する、それは禁止されるべきだ、しかしそれしか禁止してはいけない、 それ以上にテロの思想をとくことを刑罰をもって禁止することは、 憲法の禁ずるところだ。かかる言説を多くの人は受け入れるだろうか。

  かくして、刑事訴訟法にせよ、憲法にせよ、それが最も大切にしてきたはずの枠組み、原理が、 「多衆の生命、身体の安全」 という利益の優先、という理由で根底から、言い換えれば民衆の内面において揺さぶられ始めている。

 七月二七日 六時一〇分、弁護士会館五階会議室で、私たちは 「憲法の危機、表現の危機」 というテーマで集会を開く。
 そこでは、政治家の放送介入、憲法改正国民投票法案の問題が論議される。

 多数を握っていても、おかすことのできない原理はくずさない。それをくずすことは許されない。 これが 「王よりも法」 の支配をとく、立憲主義であり、「近代という知恵」 であったはずである。
 ここ三〇〇年ほど、人類がたくさんの苦しみと、葛藤と、汗と、つらい涙と、 そしてわずかな希望のすえにたどりついた、この知恵の防衛のために、 この一文を読んでくださった年若き人々が、何がしか心をよせてくださればと思う。