〈目次〉
1.定義が大切という話
2.定義の威力
3.定義の働き
4.リーガルマインドへの重要な要件
5.共感能力
6.論 点
7.集団示威行進の自由
8.読者の感想
9.制度の趣旨・権利の本質
10.対立価値の衝突
11.王の支配と法の支配
12.関東大震災事件
13.現代の三権分立危機
14.人生が作品だ
15.捜査の可視化が必要だ
16.取り調べ受忍義務はあるか
17.勾留と保釈
18.刑事裁判はどう変わるか
19.捜査可視化国際調査団
20.接見交通権と指定
21.接見交通権と指定2
22.裁判官の心のうち
23.国民投票と在日外国人
24.記憶を解体し、論理にたよる
25.言葉の力
26.多磨全生園にみたび
27.接見交通権
28.なぜの大切さ
29.法学勉強法の一つ──バランシング
30.自己実現という言葉への疑問
31.自己実現とは
32.なぜ?
33.写真撮影
34.Nシステムと刑訴法学説
35.法科大学院におけるある授業の試み
36.「定義」 ではな く 「定義する」 だ
37.定義についてふたたび
38.君だけがわかる
    痛みと苦しみに共感できる人に
39.事務処理能力?
40.ロースクール新入生諸君。元気ですね
41.集会の自由
42.集団示威行進の自由
43.刑事訴訟法 訴因特定の難題
            ──判例に取り組む
44.伝聞の難問  その1
45.リーガルマインド 2
46.公判前整理手続き
47.類型証拠開示
    ――公判前手続き その2
48.類型証拠開示
    ――公判前手続き その3
49.公判前整理手続の公開を論ず
   ──裁判員制度導入に際して── PDF
51.刑事訴訟法の学習について
52.「物を考える一番有効な方法

リーガルマインドを獲得するために 梓澤和幸

 法科大学院におけるある授業の試み
      ──判例研究の方法 (2005年11月23日)

梓澤 和幸 弁護士、山梨学院大学 法科大学院 教員

  法科大学院では、判例の研究に力が入れられている。
  判例研究をなぜやるのか。その目的と方法についての交流の機会はまだまだ少ないのではないか。 院生同士の情報だが、ある大学院では、教材は門外不出なのだという。
  試験の合格者をどれだけ出すかという競争の論理としてはそうなのかもしれないが、実務と交流し、 しかもその現状を批判的にこえてゆくという理想からすると、そのような発想はあまりにスケールが小さいのではないかと思う。
  そうではなく、志と技術において優れた法律家をどうしたら輩出することができるかという視点で、 筆者の担当する授業での判例研究の目的と方法を提示し、批判的な議論のきっかけにして頂きたいと考える。
  本稿は刑事訴訟法、外国人と法、メデイア、情報法を担当している筆者なりの工夫にもとづく授業の経験に基づく意見である。

  方法その1 学説判例の分岐点では分岐の原因をほりさげ、対立する価値、法益が何かを重視する。
  法科大学院でとりあげる重要判例で問題にされている論点では学説相互、通説とされる学説と判例がはげしく対立する。
  論点研究の際、諸説の論旨、論拠の理解の学習にいきなり入ろうとせず、なぜ諸説が分岐したのか、いかなる利益が対立しているのか、 を問題にしようと筆者は考えている。院生にはそれらを考察するように授業の1週間前にtkcに掲載する予習レジュメの冒頭で強調する。
  刑事訴訟法の 「写真撮影」 と 「所持品検査」 の論点でこれを見てみよう。

  〈写真撮影〉
  周知のように写真撮影についての典型判例といえば、肖像権に関連する京都府学連事件最高裁判例 (昭和44年12月4日大法廷判決判例時報577号18ページ) である。
  右判例は、肖像権を直接認めることを避けたものの、警察官が正当な理由もないのに個人の容貌を撮影することは、 憲法13条の趣旨に反して許されないとした。 この判例は刑事事件、労働事件などで長きにわたる肖像権の主張に決着をつける重要な判例である。
  したがって、この判例自体の論理構成の研究はもちろん不可欠である。
  しかしながら、現実の実務では、肖像権を権利として認めるか否かよりさらにすすんだところに、論点が存在しているというべきである。
  現在の捜査実務とこれに対抗する被疑者弁護側では、写真撮影をめぐっていかなる利益が衝突しているのか。
  コンピューター技術の発達によって、写真は人物の同定に強大な力を発揮する。捜査側は犯行現場の写真を入手し、 容疑の対象となった人物の写真データ (捜査側にとって公安委員会が管理する運転免許証取得の際の写真データは入手が容易である。) とマッチングすれば、犯行にかかわった人物特定の立証に成功する。
  捜査上写真入手の必要性、利益はその意味で非常に高い。
  一方、撮影された側では、自らの人格の象徴として自己の容貌に対する直接排他的支配権をもっていることはもちろんであるが、 現在の技術水準を考慮に入れると、自らの肖像情報をみだりに他人に取得されないという利益が問題となるのである。
(松代剛枝刑事訴訟法の論点 76 ページ 「写真撮影」 も同様の論点を指摘している)
  かかる深刻な利益が衝突していることをまず理解すると、次の二つの判例への関心はもっと高め、批判を集中すべきではないか。

  第1は、テレビカメラによる監視の判例 (東京高裁昭和63年4月1日、 判例タイムス681号228ページ刑事訴訟法判例百選8版22ページ)である。
  東京山谷の労働争議団と暴力団一家がかねて対立抗争をつづけていたが、 所轄警察署はあらかじめこれを監視するビデオカメラを設置していた。 このカメラに労働者が警察車両のサイドミラー1個をもぎ取る場面が撮影されていた。
  このビデオ映像を器物損壊罪立証の証拠とすることが許されるか、いいかえれば、 令状にもとづかないこのビデオ撮影が、労働者の肖像権を侵害する違法な行為ではないかが問われた事案であった。
  東京高裁は、前記最高裁判例において、任意捜査として写真撮影が許されるとされた要件である 「現に犯罪が行われているとき」 という要件について次の判断を示した。すなわち、「前掲最高裁判決は一般的に任意で写真撮影が許される要件を定めたものではない。
  犯罪発生の蓋然性があり、必要性、緊急性、相当性の要件をみたせば (令状がなくとも) 撮影が許される」 というのである。

  ここで前掲最高裁京都府学連事件にもどると、最高裁は肖像利益と、 捜査の必要性とにつきぎりぎりの比較衡量を行って現行犯性が認められるときは、 現行犯逮捕に際しては令状なしに捜索差押検証ができる (憲法35条、刑事訴訟法1項2号) ことにかんがみて、 「限定的に」 任意で写真撮影ができると判断したはずなのである。
  しかるに高裁判例はこの 「たが」 をはずしてしまった。
  現行犯性が認められたときに限定する理論的枠組みの重要性は、 授業で強調する対立利益を院生がぎりぎり自分の頭の中で自分で考え抜くことによって、理解が深まるのである。

  第2は、Nシステムに関する判例 (東京地裁平成13年2月6日判決判例時報1748号144ページ) である。
  全国の主要幹線道路の要所には、走行するすべての車のナンバーを自動的に記録し、 警察庁がそのコンピュータデータを保存し何事かに用いるNシステムが動いている。
  東京地裁判例は、犯人検挙を目的とする行政警察活動の一環として簡単に適法とみとめてしまった。 ここでは高裁判例が、犯罪発生の蓋然性というゆるい限定さえとりはらわれて、犯罪の発生、 その蓋然性とは無関係に個人情報にかかわる写真撮影が行われてしまっているのである。 運転者の肖像が撮影されているか否かはまだ立証がされていないが、その可能性は十分にあり、 しからずとしても個人がいつどこに移動中であるかというプライバシー、 個人情報を無限定収集することの問題性についてもっと検討されるべきであろう。 すでに富士写真フィルム専務殺害事件、埼玉県愛犬家殺人事件などではNシステムによる捜査が用いられているとの報道があり、 今後、法廷でこの情報記録の証拠能力が問題とされるケースも現れると予測される。
  Nシステムについてはあまり知られておらず、授業でも強い関心が寄せられた。

  〈所持品検査〉
  対立利益は、一方においては憲法35条の令状なしに捜索差押を受けない権利であり、 一方においては、犯罪の予防鎮圧という行政警察の遂行という利益である。
  そして判例学説の分岐の原因は、上記の対立利益がある中で、警職法の中に所持品検査の要件を定めた条文がないこと、 判例に取り上げられるような事件の重大性緊急性からすると、まったく所持品検査ができないという結論もとりがたいことであろう。
  そのことを具体的な事例を通じて体得してゆく。

  一般に、この論点では米子銀行事件 (最高裁3小判昭和53年6月20日判例時報896号14ページ) が取り上げられるであろう。 筆者もそれに異論はない。
  しかし、学説の分岐を大切にする研究としては、いきなりここにとばずに、 厚木事件東京高裁判例 (昭和47年11月30日判例時報690号32ページ) を取り上げた。
  厚木事件とはこんな事件であった。
  「過激派の学生が神奈川県の米軍厚木基地を爆破する計画があるとの情報にもとづいて所轄の警察官が厚木基地周辺を 警戒警備していた。警察官らは米軍燃料貯蔵タンク周辺の畑地で、くぼ地にしゃがんでいる被告人を発見し、 その氏名等について身元確認の質問をしたが被告人は答えなかった。 また足元にあったショルダーバッグの中身についても質問したが被告人はこれにも答えなかった。 そこでK巡査がバッグの外側から触れてみたところ、バッグの中に何か固い瓶のような物が入っていることがわかった。 そこでバッグを開いて見せるように求めたが、被告人は応じなかった。 しかしK巡査は承諾を得ずにあけるぞといって、チャックをあけてみるとその中に手製の爆弾を発見し、 その場で被告人を爆発物取締り罰則違反で現行犯逮捕した。

  1審の東京地裁はK巡査がバッグを同意を得ずに開けた行為は、令状なき違法捜索にあたるものだとして、 押収した爆弾等の証拠能力を認めず被告人を無罪とした。
  東京高裁は、爆発物の証拠能力を否定せず、差し戻しの結論をとった。 チャックを開き、内容物を外から一見した行為は、外形的には警職法2条1項による行為 (筆者注―質問) の範囲をこえるようにみえるが、 容疑事実の重大性等、侵害される利益と保護される利益の比較衡量からみて法秩序全体の精神に反せず、 社会的妥当性のある行為だとしたのである。
  これは手続法の論点の帰趨が、無罪と有罪の結論の別れを呼ぶという劇的な展開のあった事件であった。 演繹的な論理の展開だけでなく、司法の体験を通じて、秩序維持という利益と、 司法官憲の発した令状なしに捜索押収を受けないというプライバシーの利益が、 裁判官が異なることによって異なる利益衡量と結論を導くという好例だと考えたのである。
  同時にまた、所持品検査の論点が学生運動の高揚激化、 司法のそれに対する対応という社会的背景の中で登場したとの現実への関心を惹起したかったのである。

  方法その2 反対説研究の重要性
  自然科学系で技術者出身の未修の学生や、学部で哲学、政治学を専攻していた学生とお茶を飲みながら、 「法学は学問か」 などという議論をしているときは、楽しい。
  自然科学出身者からみると、一つの論点をめぐって学説判例がけんけんがくがくなどということは新鮮な現象らしい。 真理は一つ、証明されるか否か、だというのである。
  哲学、政治学出身者は、疑え、自分で考えよといいながら、法学では定義は疑わない、というのがおかしい、 これでは真剣でなく竹光でたたかっているようなものではないか、という。
  法学は事実ではなく、価値、もっといえば価値体系についての学問だというのが目下の私の回答である。
  ある事実、ある真理を探究するわけではなく、価値をめぐる学問だとすれば、つまりそれぞれの学説の価値は相対的なのだとすれば、 学説がかまびすしく対立する局面 (論点) こそ学習のチャンスなのだ。
  ジョンスチュアートミルは、「自由論」 で、人文、社会科学における反対説研究の重要性を強調して含蓄の深いことを言っている。
  「意見の相違を生じうるようなあらゆる主題においては、 真理はあい矛盾する二組の理由をあれこれかんがえあわせることによって定まるのである。」 (岩波文庫 自由論 75ページ) 「古代最大の雄弁家であった人は、彼自身の主張を研究するときよりも更に大なる熱烈さを持ってまでといえないにしても、 少なくとも同じくらいの熱烈さをもって反対者の主張を研究するのを常とした。 ――自分の主張を知るに過ぎない人はその問題に関してほとんど知らないのである。」 (前同76ページ)

  筆者は、裁判例とくに最高裁判例を授業でとりあげるときは、それが在野法曹から厳しい批判を受けている事件の判例であっても、 その根拠をまず深く、受容的に理解したいと考えて準備する。
  それに追随するためではない。根底的な批判のためである。
  「外国人と法」 の授業では、外国人の人権保障について権利性質説をとったマクリーン判決 (最大判1978年10月4日判例時報903号3ページ) と、在日韓国人保健婦の管理職選考試験の受験資格を否定した、 東京都管理職試験最高裁大法廷判決 (平成17年1月26日) を憲法、国際人権規約の観点からとりあげた。
  この際にも判例の根拠を究明しようとした。明示的な表現がないときは、どんな考え方が背景にあるのかを忖度しようとした。
  そうすると浮かび上がってくるのは、裁判官も多くの市民も自然に空気のように受け取ってしまっている、 国民主権における 「国民」 という概念とは何かという疑問である。それが実に人工的に作られた技術概念であることを押さえてゆく。
  そして、サンフランシスコ条約締結に際して、国がいっぺんの法務省民事局長通達で在日朝鮮人の国籍を奪ったことを学ぶ。

  こういう学習の進展の中で 「覚えるのではなく考えよ」 とはどういうことなのかを学生に体験的に習得してほしいと願っているのである。


  以下、学生の感想文です。

  法科大学院の講義─―緊張と発見の場
  法科大学院の講義は、緊張と発見の場である。特に梓澤先生の授業は、双方向授業で発言を求められる機会が多い。 そうするとまず緊張する。正直に言うとみんなの前で間違えたら恥かしいとも思う。 また、自分ではわかっているつもりでも上手く表現できずにもどかしい時もある。
  しかし、将来、法廷に立つことを考えれば、この緊張も良い練習の機会である。 だから、今のうちに恥をかくのも大事だと自分に言い聞かせて授業に臨むようにしている。
  私は、法科大学院入学前、信頼できる政治家を自分たちの手でつくろうと 『ステイツマン』 という団体を立ち上げ、運営をしてきた。 その中でボランティアとして政治家を支援するだけでなく、都議選に立候補する経験もした。
  外国人公務就任権に関する最高裁判決 (平成17年1月26日) は、そのような経験をしてきた私にとって関心の高い判決であった。 私は、外国人であっても仕事は十分にできると考え、一部の知事が積極的に外国人を採用する姿勢を高く評価している。 だが、最高裁の判決は、私の考えと異なるものだった。
  この判決を扱った梓澤先生の授業を発見の一例としてあげたいと思う。まず予習の段階で私は反対意見を詳細に検討した。 特に滝井反対意見はかなり説得力があると思い、授業にむけ準備を整えた。
  しかし、授業で中心に問われたのは多数意見の根拠は何かということであった。 多数意見の判旨はわかるが、その根拠を深く聞かれると答えに詰まってしまった。
  この授業では多数意見の根拠である国民主権について深く議論がなされた。 判例を批判するのであれば、反対意見に飛びつく前に、まず多数意見の深く根拠を理解することが大事だと教わった。 たしかに、将来自ら同じような事例を弁護士として担当する時には、反対意見を繰り返すだけでは判例を覆せず、勝つことができないのだ。
  自分の主張を貫くためには、相手の主張を根本から理解した上で、それを乗り越える。この 「思考方法」 を発見した授業であった。 この思考方法は、当該判決のみならず、他の判例を読む時や論点を勉強する際に対立意見を理解する時にも使えるものである。
  法科大学院の授業では、知識の伝授ではなく、法律的な思考方法の発見こそが真髄ではないかと思う。 伝授と違い発見は主体的なものであり双方向授業の中で生まれやすい。 双方向授業では、先生方の努力はもちろんのこと、学生の参加の質も問われることになる。 その意味では、法科大学院の授業は、これまでの学部の授業と異なり、教師と学生の協働が必要である。 緊張の場で教師のみならず学生も考え、そして発言する役割を担うという意味では共演といっても良いと思う。 教師と学生が協働して初めて、法科大学院の授業が緊張と発見のための場になると思う。 このような授業は予習も大変であるが、得るものも多く、次もがんばろうと思えるのである。
以上 


  なぜか、を問われる授業
1 梓澤先生の授業の特色は、徹底して授業中に、「なぜか」 ということを問われることにあります。
  基本的な概念や制度について、常になぜその制度が存在するのか、その制度趣旨は、何であるのかということが徹底して問われます。
  例えば、国民主権原理とは何か、なぜ要求されるのか、令状主義がなぜ要求されているのか、 令状発付には、なぜ 「正当な理由」 が要求されるのか、なぜ特定性がみたされていなければならないのかという点について、 徹底的に追及されます。この点については、曖昧な理解でいると、先生から徹底的に追及されることになります。
  これにより、判例と学説また学説同士が分岐する点が、どこにあるかを本当に探る法的な思考が、自分に身についたと実感しています。 なぜなら、考え方が分岐するのは、基本的理念・制度趣旨を貫くことと、これにより生じる不都合や刑事訴訟法でいえば、 捜査の必要性とがぶつかり合ったときの調和をどこにおくのかという点にあると考えるからです。
  僕なりの先生の授業から得た結論です。
  この基本的理念・制度趣旨の理解にこだわるというのは、判例研究に入った際にも、 僕自身の判例の理解の大きな原動力になっています。

  例えば、在日外国人の参政権の問題や公務就任権の問題では、 判例は一貫して国民主権原理を背景的根拠にこれを否定していると思われますが、ここでの国民主権原理とは何なのか。 それは、当然の法理、つまり、国民を統治するのは、国民自身であるという考え方で、一見、理にかなっているとも思えます。
  これに対して、国民主権原理は当然の法理のように考えてよいのか、つまり国民主権とういうのは、国籍に着目するだけでなく、 民主主義的観点に着目するべきで、治者と被治者の自同姓のことを言うのではないのか、 そう考えれば、判例の言う見解には、問題があるのではないかというような思考が、授業を通して身についたと考えます。

2 また、先生の授業では、判例を最初から批判するのではなく、判例の言おうとしていることを一度、受容し、しっかりと理解した上で、 批判するということが求められます。
  特に刑事訴訟法では、判例の理由付けや限界点が一見不明瞭であったりするため、 これを探る法的思考を養うことが先生の授業を通して身についたと感じます。
  例えば、米子銀行事件やそれ以前の高裁判例や覚醒罪事件での所持品検査での最高裁判例を比較して、 判例の職務質問に伴う所持品検査の適法性の根拠と限界点を授業では、探っていくことになります。
  先生の判例研究での質疑を通して身についたのは、判旨だけではなく、 事案と判旨の言っていることをリンクして判例を考察するということです。 ついつい、判例の必要性・緊急性・相当性の要件にいってしまいがちですが、各事案に着目していくと、 職務質問との連続性が要求されており (口頭による質問と密接に関連すると判示している点)、そして相当性の限界としては、 質問→外部観察→外からの接触→中身の取り出し→身体への侵入という人権侵害への強度が増す中で、 身体・着衣への侵襲性 (intrusive) にあるのではないか、つまり、米子銀行事件が適法とされ、覚醒罪事件の場合に違法とされるのは、 この点にあるのではないかということが、質疑・応答による試行錯誤の上、明らかになっていきます。
  事案と格闘し、どこの点に解決点が置かれるべきなのかという思考を、梓澤先生の授業を通じて習得することができたことが、 自分の法的思考にとって大きな力になっています。
以上